短編

焦がしてミルクティー


“不機嫌だ”。
目の前で黙々と積み上がった書類仕事をこなしていく彼の姿を見て、すでに熱を逃がしてしまったマグカップを口に運ぶが、傾けたところで中身がないことに気がついた。持ち上げた腕を下ろしながら、文字の羅列に目を通し時には筆を執ったりして右から左へ山を積み重ねていく、ばりばり仕事中のトキワジムリーダーを再び見やる。

今日の彼は不機嫌である。癖なのか何なのか、この人は日常的に額に深い谷を刻み顰めっ面で過ごしているけれど。それを差し引いても、いつにも増してご機嫌斜め。
静かな場所は落ち着いて読書に浸ることができることもあり好きなのだが、ここまで妙な緊張感の張り詰めた空間は正直居心地が悪くて仕方がない。
これまでの経緯で自分を引き止めた張本人も事務仕事に熱中しているようだし、私がいなくなったところで派手にどじを踏まなければ害はないだろう。そう思い、折りたたみ椅子から腰を上げた。

「おい」
「――え?」

いつの間にか顔を上げていたグリーンが普段の低い声、それでも幾らか柔らかな声音で呼び止める。返しかけた踵を再び床につけて振り向くと、切れ長の緑の目がこちらを見つめていた。

「帰るのか?」
「うん。だめだった?」

問いに問いで返すと壁掛け時計を見るようにと促された。時刻は午後6時頃。ここに案内されたのは4時過ぎだったから、ずいぶんと長いこと同じ場所に止まって入れたものだ。
時間に同調するように窓からは金色の夕陽が差し込んでおり、綺麗に本棚に並べ収まった資料の数々が濃く影を伸ばしている。太陽が地平線の向こうに隠れるまで、あともう少し。
がたん、とキャスターを転がしグリーンが腰を浮かせた。

「送ってく」
「い、いいよ。忙しいでしょ?」
「心配なんだよ」
「何が?」
「なんでもない」

口にしかけた言葉に私が首をかしげると、ばつの悪そうな表情で頬を書きながら緑の目をそらす。
照れたような、彼にしては珍しい顔に疑問を抱きながらも、誤魔化すように骨張った手が押し開けてくれた裏口の扉から、外の地面を踏みしめた。

速度を落としながらも大股で少し先を歩く背中を、ぱたぱた早足で追いかける。客観的に見れば、その光景はまさに兄と妹だ。それともペットと飼い主か。どちらにせよ、あまり嬉しいとは思えない。
いつも彼の周りには女の子が群がっていて、中にはかわいい子だってたくさんいて。そんな中で大したバトルの実力もない自分が、どうして彼の隣に居られるのかが不思議で仕方がないのだ。
いつだったか、澄んだ青い瞳を持つ栗色の髪の女の子が言っていた。

『無欲なのね、あなたって。手を繋ぎたいとか、抱きしめたいとか、キスしたいとか。そういう風には思わないの? そんなんじゃいつまでたっても進展ないわよ』

違う、その言葉が喉につっかえてしまって出てこなかった。真摯な青色が発したその一言が、心に重くのしかかる。
違うんだよ。無欲でもなければ、嫉妬心が皆無の女神のような優しさを兼ね備えた人なわけでもない。
思ってるよ、本当は――。
そのぶっきらぼうにポケットに入れられた手が、私の手と繋いでくれればいいのにな、とか。長い腕の中にぎゅっと抱きしめてくれればいいのにな、とか。もういっそ、ずっとその腕に閉じ込めてほしい。逃げられないくらいにがんじがらめにして、私を欲しいと言ってもらいたい。
なのに、いざ本人を前にすると言葉が全部吹っ飛んで、どんなに重ねたシュミレーションも意味をなさなくなってしまうんだ。

「疲れたか?」

ああ、その瞳がずっと自分だけを写してくれればいいのにね。
なんでもないよ、と静かな優しい声にはかぶりを振って、開いた距離を取り戻すように足を速める。そんな気付いてさえ貰えない努力が、意味を成さないと知りながら。
自分より高い位置にある肩と並んで再び歩き始めると、聞こえるか聞こえないかの声量でグリーンが何かを呟いた。聞き返すような意味合いで、陽色の光に照らされる横顔を見つめると彼は改めて言葉を紡ぐ。

「さっき、ジムの前でお前……」

珍しく丁重に言葉を選びながら、それでも口ごもる彼の言いたいことには察しがついた。

「告白、されてただろう」

濃く、長く、影が伸びていく。
茜色、時間さえも止まったような、無人の世界でここに居るのは二人だけ。
表情が見えなくて、あっという間に胸中を満たす戸惑いに何も浮かばず、言葉に詰まってしまい目があちこち泳ぐ。
答えを探すように頷いた。

「断ったよ。聞いてたんだね」
「たまたまだ」

人差し指で頬をかいて目をそらすのは、図星を指された時や照れた時に本心を隠す方法を見つけ出そうとする、彼の癖。今までの会話からして結果は後者だろう。
視界の先に自分の家が見えてくる。辿り着くまであと数メートル。1分だって掛かりはしない。
また……またジムに遊びに行ったら迷惑じゃない? どこか特別な場所に連れて行ってくれなくてもいい。そんな身に余る高望みなんてしないから、だからずっと側にいさせてほしい。
足音が止まって、グリーンの気配が背後に移る。ここまでなのだろう。
玄関のドアノブを捻ってから、押し開く前にもう一度ありがとうと振り向こうとして、口元に笑みを貼り付けたとき。

「なまえ!」

彼にしては珍しく、大きく声を上げた。突然の事に目を見開きながら、頭をあげてそちらを振り返ろうとした瞬間に力強く腕を引かれる。ぐらりと視界が傾いて、足を踏み外してしまったことも重なり彼の腕の中に倒れこんだ。軽いパニックに見舞われながらもごめんなさいと声を振り絞って引き離そうとするが、背中に回された腕がそれを許してはくれなかった。
だんだんと高まってくる体温と鼓動を感じながら、どうしよう、そればかりを考える。頭が回らない。この後どうすればいいのだろう。ぎゅっと黒いシャツにしがみつき、頼もしいことこの上ない青目の女の子の話を思い出す。

『何かきっかけがあったら流れに任せていくとこまで行っちゃえばいいのよ。それでとっととものにしちゃいなさい』

………。
とてもできそうにないのだけど、と確かあのときの私も同じことを口にしたはずだ。深く透き通る片目を閉じて歳にそぐわぬ雰囲気を醸し出す彼女は、話を聞いてもやはり弱腰の自分に対して、今度は眼差しを厳しいものへと変え、こうも言葉を付け加えてくれた。

『あなたたち、どちらも奥手なんだもの。たまにははっきり気持ち伝えなさい。そうやって躊躇ってたらくっつくものもくっつかないわ』

結局、あのときは目を伏せて押し黙ってしまったけれど。
このままじゃだめだ。じっと押し付けていた硬い胸から顔を上げて、高い位置にある恥ずかしそうに逸らされた緑の目を見つめた。

「やきもち、妬いてくれたの?」
「……ああ。そうだよ、悪いか?」
「ううん。嬉しい。でも大丈夫だよ、ちゃんとお断りしたし、それに私グリーン以外の人のものになるつもりないもの」

そう言ってにっこり微笑む。視線を外されるかと思いきや、伸びてきた手がそっと髪に触れた。ゆっくりゆっくり、焦ったくなるようなくすぐるような仕草で頭から頬へ移り、小指で顎をくすぐりながら人差し指が唇を撫でる。腰に回されていたもう片方の腕に力がこもり、ただでさえ近かった距離感が全くなくなった。

「なまえ……どうして欲しい?」

密着した状態で、静かに問われた。
尋ねられた言葉の先を紡ぎ出すのには幾分勇気が必要となる。答えを言うまで離さないとばかりに目の前で光った新緑の色から、ふらふらと外した目を泳がせて。
ここで引き離すことができないわけじゃない辺りが、彼の優しさだ。
きゅっと彼の襟元の布地を掴んで、目の前の色を見つめながら先を待つ。

唇に待ち望んでいた熱は夕陽の中で、柔らかく、押し当てられた。


2016/02/04
2016/03/29 修正

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