短編

おばけの涙


※登場人物の死表現がございます。

俺にはみょうじなまえという無個性の幼馴染がいる。いや、それは今や適切ではない言い回しだ。みょうじなまえという幼馴染が、いた。
幼馴染が俺の前から消えたのは枝の先端で桜の蕾が膨らみ出した、春を目前にした別れの季節だった。高校に上がってからの慌ただしく目まぐるしい日々に埋もれた絶望一色の記憶が古いものなのか、新しいものなのか、判別はつかない。
彼女が逝ってしまったのは中学の卒業式の翌日で、その日の日付で『今から轟君の家行っていい?』というメールを受信していた。文面としてはこちらに選択肢を委ねる言い回しだが、彼女に限っては今から行くという断りの意味合いに変わる。嘆息をして時刻を確認し、あいつが着くまでに数分はあるだろうと椅子の背もたれに体重を乗せた。彼女は来なかった。道中で飲酒運転の車に撥ねられ、ほぼ即死だったと聞いた。
あの時来るなと送り返していたなら、違った今があったのかもしれない、とふと考えることがある。だが自分の必要な時にしか携帯の電源を入れない迷惑で、騒がれるスマホ依存とは無縁の主義を持つ彼女のことだ、俺が何か返信していたところでそのメールが未開封である可能性が高い。彼女が例外的に目を通していたとしても、『なんでー? 行くよ?』とかなんとか、結局来てしまうのだろう。その行動は安易に予測が立てられて、やはりそういう――あの日に必ず命を落とす運命の、星の元にでも生まれていたのかもしれない。そんな風にらしく無いことを考えてでも自分を納得させたがる自分がいた。
生前の彼女の行いの良さがこうして返ってきたのだろうか、彼女を見送る葬式当日は快晴で皮肉な程の真っ青さが町並みの形に切り取られ、俺の両眼をその色に染めた。
とり行われた葬儀に参列する際はこれから仕舞われるはずだった中学の制服を着た。卒業式が着る最後の機会になるのは当たり前などではない。
箱の中に横たわる彼女の見慣れない和装から目を逸らしてしまいたい、そんな衝動を俺はずっと押さえつけていた。15の誕生日を数えたばかりの少女の身体を飾る花々は色とりどりに咲き乱れ、彼女のくしゃみを誘おうとしているように見えた。あの中に彼女が花粉症であったことを知る人間はどれほどいたのだろうか。草花をこよなく愛していたというのにアレルギーを発症してしまった不幸なあの少女はよく植物図鑑を眺めてはため息をついていた。虚しくなるだけだろ、と俺が止めに入っても彼女は脳に情報を刻み続けることを絶対にやめなかった。
霊柩で眠る彼女にたむけた花も生きている彼女なら見せれば種族名のみならず、別名や学名、目、科まで答えてみせただろうに。淡い紫の小花の記憶は俺の中で時間と共に散ってしまった。
俺がいれた花の名前は何というのか。そもそもあの花は何色だったのか。

***

「こんにちは! 久しぶりだね、轟君」

寮の自室で待っていましたと言わんばかりの笑顔をぱっと咲かせた幼げな風貌の少女はみょうじなまえだった。
一時的な硬直から解放されると、首元に手を持って行き結んでいたネクタイを軽く緩める。

「……今日は早めに寝るか」
「ええぇぇ!? ちょっとぉー!?」

ねぇねぇちょっとぉ! と己の存在を全力で主張するなまえの姿を持つ少女。ぴょんぴょんと飛び跳ねる少女の身体だが、ジャンプの勢いを伴い着地をしているはずだというのに足音一つ響きやしない。

「私だよ!? なまえだよ!? みょうじなまえ!!」
「あぁ、確かに似てるな」
「似てるとかじゃないよ、本人だよ、オリジナルー! 私、幽霊になったんだよ」

迷惑な、過剰なまでの接触の仕方に衝撃も感触も何もない。
彼女の肩に触れようと手を伸ばして確かめてみても同じようにそこに実体はなく、すかっ、と半透明な肩を俺の手は貫通した。

「ね、信じてくれた?」
「いや、ありえねえだろ……。」
「死んじゃった女の子が目の前にいるって幽霊以外の何だと思うの!」
「それこそ幻覚でも見てんだろ。そうでなければ誰かすれ違った奴にでも見せられているか」
「何したら信じてもらえるのかなぁ……?」と彼女は首を捻り出す。
「言っておくが、信じねぇぞ。何をされても」
「えぇー……。じゃあどうしたら信じてくれるの?」
「信じねぇって言ったばかりじゃねえか」

やりにくい。だがこのやりにくさが日常として数か月前まで確かに目の前に存在していたはずなのだ。俺自身を巻き込んで怒っている妙な現象は現実としては造り物めいて見え、感じられるが、白昼夢や夢の類として考えると現実感があり過ぎる。
ぴこん、と彼女の頭上に感情符が浮かんだかのように、その一瞬で思考に入り浸っていた表情が晴れた。

「あのね、個性のせいかもしれないなって」
「やっぱり誰かに幻覚でも見せられてんのか」
「そうじゃなくって。私の」
「お前は無個性だったろ」
「私の母親も無個性って言われてたよ」
「そうか。それで人より無個性に生まれる確率が高かったお前は案の定それだった」
「でも母は違ったの」
「目立たねえもんだと発見が遅れることもあるらしいな」
「ううん。それがわかったの、死んだ後だったから」
「……」
「それにね、それを知ってるの、私だけだよ」

俺の視線はきつくかたく眼前の少女に括りつけられていた。

「個性が、多分『地縛霊』なんだろうってお母さん話してた」

なぜならば。
彼女の母親もまた彼女の祖母が他界後、霊となった祖母と会話を成立させたことがあると言っていたから。

「……どういうことだ?」
「小四の、冬ぐらいかな。あっ、轟君、私の誕生日覚えてるよね?」
「…………」

じぃっとこちらに穴を開かせんばかりに注がれてくるなまえの視線と自分の眼を触れ合わせないよう、ふいっ、と両眼だけで俺は逃げる。「うそ、ひどい……!」と視界の外から耳に届いたなまえの声は、彼女にしては珍しく冗談めかしている様子のないもので、程度はどうあれ本当に傷ついているのだと悟ってしまう。ひょっとすれば、珍しくも何も無かったのかもしれない。みょうじなまえという人間を誰もが明るいやつだと認識していて、当然俺もその一人だ。だがひょうきんな雰囲気は彼女が意識的に身に纏っているもので、昔から、傷付いても傷口や心の出血を他者に見せず、悟らせない。そんな彼女は誰かを口ではからかいながら、しかし口ほどにあるいは口以上に物を言う目で嫌われたりはしないだろうか、していないだろうかとちらちらそいつの方を伺い、その瞳にだけひっそりと不安の色を揺らめかせる。

「……すまん」
「えぇっ、どうしたの、珍しいね、轟君が謝るとか。しゅんとするとか! いや、いいんだけどね。命日の方が大事だろうし」
「やめろ、全然笑えねえ」
「ごめんごめん。あのね、四年生の誕生日のちょっと前ぐらいにかな、お母さ……母が幽霊になって出てきたの。その時だよ。母も、死んだはずの母親――私の祖母ね――が結婚式の直前に突然現れたって。不思議だよね。お盆の時みたいに、一時的に地獄の釜の蓋が開いてくれるのかな……?」
「おい、待て。一つ気になったんだが、」
「え?」
「あぁ。何故お前の母親は――」

何故、己の個性を『地縛霊』だと断定できたのだろう。なぜそれを俺は今まで気にも止めなかったのだろう。地縛霊とは、現世に無念を残して寿命をつかせた魂が成仏できずに現世を彷徨う――あるいは縛られ続ける現象だ。

「母親の個性を知っているのがお前だけっつうことは、母親が見えていたのもお前だけだったんだろ? お前の母親の後悔……無念みてぇなものは何だったんだ?」

自分に関心が向けられたと悟るや否や、見て取れるほどに表情をくるりと一転させ、なまえは笑顔を深く彫り込む。

「お母さんは、私が十歳になったところすら見れずに死ぬのが悲しいって思ったんだって。だから、私の十歳の誕生日のちょっと前に出てきて……、でも誕生日を過ぎたら消えちゃった。おばあちゃんの時もそうだったみたい。おばあちゃん霊も、母の結婚式が終わる頃にはもういなくなってたって。……轟君?」

――なら。
彼女の身にも母親の個性がそっくりそのまま遺伝しているとすれば。
彼女を視認できるのが俺だけであるとすれば。
彼女の無念は、後悔は俺に関係しているということになる。
元より他人事などではなかったのだ。

***

個性、『地縛霊』(仮名)。
無念が叶う直前、あるいは叶えられる条件が揃った時に霊体としてある特定の人物の視界に存在を確立できる。恐らく無念を晴らすことで成仏できると思われるが、どうなってしまうのかは誰にもわからず、確かめようもない。

「轟君、死ぬってすごいよね。私、花粉アレルギーなのに、棺桶だっけ? あの中に花ぶっこまれても全然平気なんだもん」

隣をふよふよ、ひらひら、四肢を母校の制服にくっつけながら、生前よりいくらも軽やかに動き回るなまえは明るく楽しげで、そして不謹慎極まりない。始めこそ彼女の無駄話に一々突っ込み、不謹慎だなんだと口を挟んでいたが、戸を立てられないどころか針と糸で縫い付けても平然と開かれそうな彼女の圧倒的な口を前にもう随分前に諦めてしまった。
幽霊となってでてきたなまえとの再会から一夜明けた、1−Aに続く雄英の廊下。疲労を知らない幽霊らしく彼女の活力は収まるところを知らないらしかった。

「轟君が棺桶に入れてくれたの、あれ、紫苑でしょう〜」
「覚えてねえな。しおん……?」
「ハルジオンとか聞いたこと無い?」
「ヒメジオン、とかか?」
「あぁ、ヒメジオンはね、正確には“ヒメジョオン”っていうの。だから違うかな」
「相変わらずすげぇな、花に関しては」
「えっへへ〜。もっと褒めて!」
「……偉い? んじゃねえか? ……教室入ったら騒ぐんじゃねえぞ」
「大丈夫。轟君以外の人には見えないよ! 色々やってみたけど、全然注意とかされなかったし」

どこが大丈夫だ。“色々”と随分と短くまとめたようだが、一番大事な部分だろう。
「わー、ドアおっきい! バリアフリー!? ねえ、このドア、バリアフリー!? すっごーい!」と、歓声を上げながら扉の前でぴょんぴょんとはしゃぐなまえを尻目に軽く息吹く。
授業中は最悪だった。なまえはひらりとスカートを目障りに翻して跳ねまわったり、机の端に顎を乗せノートの中を覗き込み、「天下の雄英でも授業は案外普通なんだね。さすがにレベルは上がってるけど」と好き勝手に感想を口にしたり。何故連れ込んでしまったのかと後悔の念に苛まれるが、思えばこいつを引き返すことなど多分俺にはできなかった。
幽霊であるなまえが走り回ったところで誰の邪魔にもなりはせず、俺の目の前に立っても鬱陶しさに目を瞑れば同じことだ。黒板の文字こそ半透明の身体越しに伺える。その眺めはとても良いとは言えないが。

***

夜11時を回った辺りで俺は部屋の灯りを消す。まだ起きて居ようよ、と昨日と同じように駄々をこねるなまえを軽く無視し、たいしたものでは無い自分の日常のルールを断固として貫き通す。
掛け布団を片手で持ち上げ、敷布団との間に空間を作るとそこに下半身から潜り込む。ぐい、と肩を隠す位置まで布団を持ち上げ、若干の窪みがある枕の心地良い定位置を探るように頭を動かし、見つけるとそこに落ち着けた。
ひたひた、と。実際に聴覚に触れたものは何もないのだろうが、足音の気配のようなものが聞こえた気がして、瞼を開いた。すれば、眼前にあったのは他でもないなまえの足で。薄く向こう側の景色が透ける身体は夜陰の中では淡く発光しその存在感を放っているようで、世に聞く怪談話の幽霊さながらだ。実際そうなのだろうが。
当たり前のように俺の元まで歩み寄って来た彼女は、やはり当然のように自身もまた同じ布団に寝転ぶ。

「おい……」
「いいでしょ、寝相は悪かったけど、蹴ったりできないよ」

向こうから危害を加えられることがなければ、こちらから触れたり押しのけることも当然不可能で。選択肢は元より床を共にすることを許す他ない。
無抵抗でいる(しかない)俺になまえが身体を寄せてくるような動きをしたが、半透明の身体では俺の胸に埋められた頭は俺と触れ合っている分だけ欠けたようになり、もちろん触角は微塵も刺激されない。
だがその時間は。とても誰かが寄り添っているとは思えないほどに穏やかで、手放したくなかった日常を脳や耳や瞼裏、身体の至る部分に呼び覚まさせた。

***

「うーん……。行きたかった所もやりたかった事もあったにはあったんだけど、わざわざ戻ってきてまでするような事じゃあないなぁ。甘いものも別にそんな……。あっ、お母さんに会いたい! ……無理だぁ」
「俺にしかお前は見えねえんだ、俺に関係あるんじゃないか」
「ってそういえば昨日も言ってたねぇ。ごめんごめん。でもね、本当にわからないの」

そんなはずはない、はずなのだが。
手を顎に添え、考える。

「あっ、」
「どうした」
「いや、大したことじゃないんだけどね。お墓参りには、行きたいかも」

彼女の望みを承諾すると、頼まれたのは花代と俺一人分の電車賃を生き返り分、携帯端末にも何にも触れられない為に扱えない彼女に代わっての下調べ。そして、予定の開いた日曜が欲しいとのことだった。ごめんね、と眉をしゅんとさせる彼女が謝罪をしてきたが、透明故に誰をも頼れず、購入は勿論、この世のものを一切動かせない彼女では花を手向けることも叶わない。移動手段も飛行など出来そうにはないから恐らくは徒歩となってしまうだろう。余りにも非力過ぎる幼馴染を一人外へ放り出す真似が出来るほど俺は冷酷でも無慈悲でもない。
かくして遠出をすることになった週末。日曜真昼間の電車内はさすがというべきか、平日の朝の地獄には遠く及ばないにしても全席埋まった状態で、吊皮を握るにしても隣の人間と揺れに合わせた重心のずれで肩が触れ合いそうになる。彼女はといえば、人混みの中を他人の身体を貫通しながらひらひらと彼女は踊るように歩き回っていた。流されているかのような動きは、ともすれば本当に流されているのかもしれない。何せ実態を持たない彼女は何をも、自らの意志を以てしても触れることなど出来ないのだから。姿が視認できるのなら、せめて腕ぐらい触れて掴んで置いてやることが出来てもいいだろうに。不便な個性を呪うと同時に、もし彼女の無念が他の人間に宛てられていたとしたら、折れて協力してやれるような人間ではなかったとしたら――彼女に限ってそれはあり得ないだろうが――どうするつもりだったのだろう、と。どうなってしまったのだろう、と考える。
がたん、とまた揺れる電車に合わせ不安定になる足場。揺れのされるがままにされている彼女に向けて、俺は他人から妙な視線を向けられないよう潜めた声量で声を投げつけた。

「離れるなよ」
「私は大丈夫だよ」
「俺が見失う」
「大丈夫、見つけてあげる。轟君目立つもん」
「今時珍しくはないだろ」
「確かに〜。かっこいい人多いよね。雄英の、あのつんつん頭の『クソが!』とかいう人とか。あの眼鏡の身振り手振り激しい人も意外にかっこよかったりするんじゃないかな」
「頭が目立つって意味だ」
「あ、そうなの? てっきり顔の話かと」

それでは俺がとんでもないナルシズムの持ち主ということになってしまう。
がたた、という音と共に社内の揺らぎは視界を右へ左へ傾け、脳へ伝わる映像を乱す。
動く景色に伴い、アナウンスが次へ次へと到着駅の名を告げると、車内の人間は増減を繰り返しながらも、しかし人口密度は着実に薄まっていった。
大切なものは失ってから気が付く――とはよく言ったものだが、何かを手放す時にはそれ相応の喪失感や寂しさといったものがついて回るのは当然のことだと考えてしまう。
子供から玩具を取り上げてわんわんと盛大に泣き喚かれたとしても、それはその場でだけの話だ。やがて自分の力だけではどうにもならないのだと悟れば、おとなしく口を閉じる。あくまで喪失感をどうすることもできずに喚いていただけの子供は、案外何事もなかったかのようにそれからの時間を過ごすものだ。
死人に対しても同じだろう。見送り、失った、その瞬間こそ大きな悲しみに暮れることとなるが――故人が大切であればあるほどその“瞬間”は長く続くだろうが――乗り越えられるか乗り越えられないかの話ではない、時間が記憶を風化させると同時にその人物のいない日々が新たな日常としてすり替えられる。
彼女のいない毎日は、通い慣れた中学ではなく雄英に登校する毎日とほぼ同時にやって来た。朝を迎えることと夜を見送ることを毎朝毎夜と繰り返しているうちにゆっくりと、だが確実に日常は新たな日常にすり替わり始める。哀しみの残り香は部屋に居座りながらも、彼女が足りないことに対する違和やそれに準ずるもの達はかき消され。“慣れ”が染み付いた。
そんな中で俺の胸中から消えないものが一つ、どこかでひっそりと存在していたらしかった。彼女の死後から肩に、背中に纏わりついて離れなかった喪失感や索漠感とはまた違う、行き場を見失い、ようやく覚醒したそれの名前をなんとすれば正解なのかが、当初はわからずにいた。
矛先が間違いなく彼女で、その彼女は今現在幽霊という形で眼前に存在している。今ではもう確信に近いが、名称を唱えたことは今まで一度もない。
自分が何をしているのか、したいのかは知っている。それの正体に感づきながらも、気が付かないふりをして、胸の隅においやって平然と日常を繰り返そうとしているのだ。
そうまでしなければならないのはどうしてか。叶わない願いにそうまでするのは何のためか。

無機質な声は上から注ぎ込むように、俺の携帯の検索履歴に今もしっかりと残っている駅名を告げた。終点まであと数駅、というこの場所で。

「この駅だよ」

目線の下をふわりと進むなまえの頭を追って、左右に割れたドアから出る。
降り立った駅に満ちるのは閑散そのものだった。時折それを崩すような風があちらこちらにぶつかって回り、音を鳴らす。

「静かだな」
「過疎化が進んでいるとも言うよね。行こう、あっちの方だよ」

***

俺の眼前に存在する幽霊の手合わせという光景は異様そのものだろう。墓の前に佇む彼女が纏う母校の制服のスカートは風のなすがままにたなびきながらも、輪郭は曖昧で。身体の奥に景色を伺える半透明の肢体、空に、風に溶け消え行く服の裾。手を伸ばす。当然のように指先は貫通し、虚空を引っ掻く形となった爪の先を流れる風が慰めた。今だけはおとなしく瞳を閉ざしている彼女は、触覚などとうに失っており、触れようとした俺には気づかない。
ぱっ、と胸の前で合わせられていた手が解かれる。微かに振り返った彼女の片目に促される形で、この世の何にも何の影響を与えられない少女に代わり、購入したばかりの数本の花を墓に手向けた。申し訳程度に短く合掌をし、数歩後退ると俺は問う。

「これで満足か?」

彼女は黙殺をしたのかと勘違いを起こしてしまいそうになるほどの間を置いてから、こっくりとした。

「こんなことやってる場合ではねえんだろう、本当は」
「……そうだね」
「なまえ。もしお前の無念を晴らせなかったらお前はどうなるんだ」
「…………さぁ、悪霊にでも、なっちゃうんじゃないかな。どうしよう」

ふざけるな、という念を視線に込めると、彼女はほんの僅かに笑みに滲む感情に――あるいは、微笑みの仮面の裏に除く本心の大きさに――変化を起こした。

「あのね、轟君。本当はもう満足してるんだよ。こうして轟君と遠出できただけでも楽しかった。初めてじゃない? だからもう満足……してるって言ったら、まぁ、嘘だけど。無理だよ。あれやっとけばよかったとか、そういうの数えきれないくらいあるもの。だから轟君に何かやってもらった所で安心してなんて逝けないよ」

死後の特権である彼女の個性。黄泉の国の住人となるまでに与えられるいっときの猶予。一種の延命とも云えようそれは、干渉の資格を得たわけでもないのだ。ともすれば地獄ともなるのではないか。

「猫って何回生きるんだっけ。忘れちゃったけど、すごく一杯だったよね。負けてられないな、猫なんかに……。でも次に恋するなら、せっかくだから君じゃない人にしておくよ」

一陣の風が吹いた、そんな風に錯覚した。激しく、波打つ鼓動を反映したかのように揺らめく彼女の影。

「なまえ――」
「やめてよ。轟君が気づいて言っちゃったら私もう居れないんだよ」

やはり彼女は知っていた。なぜ自分が再びこちら側の世界で目覚めたのかを。個性が何に対して発動したのかを。だんまりと黙殺をし続けた理由も恐らく問うだけ野暮だろう。
気付いてしまった。全ての引き金は自分に委ねられていることに。望めばすぐに叶うことに。叶えばその瞬間を以て時間が彼女との終わってしまうことに。気づいてしまった。彼女がここにいるべきではない人間だということに。知っていた癖に視界に入れずに気が付かないふりをしていた自分自身に。気づいて、しまった。

「なまえ、好きだった」

唇に乗せてしまった。伴う後悔。今度は俺が霊になって現れるのではないか。
喜怒哀楽を大きな鍋の中に放り込んでぐるぐると雑にかき回したような、そんななまえの表情が次第に薄らいでいく。
開かれ、動いた彼女の唇が象った言葉が何というものだったのかはわからなかった。

***

茜色の反射光を窓ガラスに張り付けて電車は寂しげに走る。
行きも帰りも購入した切符の枚数は一人分だけだ。
ふと思い出す。猫の生まれ変わる回数は9回だと。
俺は彼女の最後の願いを叶えられたのだろう。


2017/05/31
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