短編

あいつがあなたを食べたのね


旅立ち。たったの、四音。
四つの音から成る夢のようにあまやかで、それでいて無情な言葉を噛み締める。
歩み出した道の先、巡り合う人々や戦いを交えるポケモン達、幾回もの出会いと別れを繰り返す中で、時にはか弱く可憐な乙女を助けてしまったりなんかして。絆や恋が芽生えてしまったりなんかして。だけどきっといいことばかりの旅ではない。雨が降って、風が荒いで、同じ夢を志すライバルとぶつかり合って。それでも、阻むように待ち受ける試練ですら純な双眸はわくわくと胸に受け止める。広げた真っ白なキャンパスに、己の瞳を通して見た景色を、感じた喜びを描き出していく。
嗚呼、なんて。なんて素敵なんだろう。旅って、冒険って、なんて素晴らしいものだろう。大きな翼を携える鳥を地べたに縛り付けておくなんて、そんな可哀相な真似は誰にもできない。悠々と飛び立つさまは力強く、たくましく、美しい。
だから、私は。
大嫌い、なのだ。

「ただいま、なまえ」

軽快に響くインターフォンに誘われて、押し開いた扉の向こう。のどかなマサラの夕景とこれからやってくる夜との境目の中に赤色の少年は立っていた。記憶より少しだけ高い位置にあった赤の双眸はそこに少し大人びたような、私の知らない微笑を湛えて柔和に曲げられる。私の名を乗せた声音は掠れ気味に鼓膜を震わせ、身体の芯に馴染んで行った。
ちょうど同じ時間帯、遊びから戻った子供が、台所に立つ母親に笑いかけるみたいに。平然と。彼が紡いだ“ただいま”を私は受け止められずにいた。
空を抱き込むように腕を広げる夜闇が、茜色の空を蝕んでいく。紫紺の天鵞絨の空に散り散りになって取り残された夕陽の残滓が酷く物悲しげで、少ない家明かりを反射する双眸は不思議な雰囲気を纏っていて。
なにが、と思った。ぎり、と奥歯同士が擦れて微音を立てる。握る拳に爪が食い込む。何がただいまだ。今更何を言っているのだ。いってらっしゃいすら言わせてもらえなかった私が、素直に出迎えられるわけが、ないだろう。

「……なまえちゃんはお留守です」
「いやいやいや!? 何言ってんだよ、お前! ……って、ちょ! ドア閉めないでくれ頼む! なまえ――――っ!!!!」

ぱたり、閉ざしたそばから、だん、どんどんどんだん。不躾な赤目の訪問者が拳を扉に叩きつける騒音がやかましく玄関に充満する。

「ごめん、なまえ。オレ、なんかしちまったんだろ。悪い事したんなら謝るから……。ここ開けてくれよ」
「なんなの、やめてよ。何もわかってない癖にさ、そうやって謝るの。知らないでしょ、わかんないんでしょ。それで謝られてもうざいだけだから」
「ちゃんと話したいんだよ。お前と。お前の顔見て、ちゃんと目ぇ合わせてさ。オレさ、なまえに話したいことがたくさんあるんだ。なまえから聞きたい話だってたくさんある。ちょっとでいいんだ。出てきてくれよ」

ちらりと目だけを動かして横目にノブを映してみる。眼を一度離して、ふっと息づき。ドアノブに手を触れる前に滲む汗をスカートの裾でぐいと拭う。生唾を飲み下すと自分の喉が蠢いたのがわかった。
軋むような音を立て、開錠。僅かに作った隙間から戦々恐々とレッドを伺うと、ほっとしたように強張る肩を緩ませる姿があった。うっかり彼の赤色と目が合ってしまわないよう私は視線を自分の爪先へと落とす。
静やかに、レッドから零された吐息が涼風に溶ける。

「なぁ、なまえ。寂しかったのか? オレがいなくて」

その声は驚く程に凪いでいる。やっぱり変わってしまったのだ、と。否定的にしか受け止められない変化や成長を叩きつけられ、私は唇を引き結んだ。

「お前には何にも言わずに行っちゃったもんな……。ごめんな」
「……うるさい。それ言う為に来たの? 帰ってよ」
「でもオレ強くなったんだよ。すごいだろ、カントーで一番にだぜ?」

構わず言葉を続け、強引に会話を成り立たせようとするレッドが己の偉業を嬉々とした声色で翳した。
旅とはそんなにも素晴らしいものだろうか。生まれた疑問は脳に貼り付き肥大して旅に身を投じた彼自身をも全否定してしまいそうなところまで来てしまった。
知っている世界が狭い事の何がいけないというのだ。甘ったるい砂糖だけで構成されたような、成長し切れていない私の心は知らない誰かを救って英雄になるよりも目の前の少年とずっとずっと笑い合っていたかった。変わらない日常の中に彼さえいればいいとそう思っていた。彼も同じ気持ちであると信じ、疑うことすらしなかった。
だけれどそこに波紋を作ったのは他でもない彼で。
究極を目指すなんて現実味の無い突発的な夢を衝動のままに追いかけて、走り出して、いってきますも無しに私の元から消えてしまった。
訊きたくて、でも訊けない事が胸にある。
――あなたがいま大層嬉しそうに、自慢げに翳す偉業は私を捨ててまで得るものだったの?
それは、我儘。
悪を挫き、この広いカントーで一番のトレーナーになる事は、田舎町に一人住む無能な幼馴染の少女よりもずっと高い価値がある。だからこそ彼の口から彼の声で彼の言葉で、囁いて安心させて欲しかった。お前が一番だ、って。
嗚呼、なんて詰まらない子供の我儘だろうか。
変わってしまった、と私は云った。だがそのまんまの部分とてちゃんと残っている。オレ強くなったんだ、と笑うレッドはやっぱりレッドで、私の知る正直な人で。
ついに私は瓦解した。

「うるさい、私はレッドなんか嫌いだよ!」

私達もう友達なんかじゃなかったんだよ。
尖った声が闇を裂く。

「それ、本気か?」

目が揺れる。侵食を終えつつある暗い空、置いてけぼりの茜の残滓を吹き飛ばし尽くすように風が過ぎた。

「嫌いとか、嘘でも言わないでくれよ……」

置いて行かれた子犬みたいに下げた眉の下からこちらを見つめてくる瞳が、ぽつりぽつりと光り始めた星粒を湛えてゆらり揺らめく。その赤い眼差しに。強がる心を覆っていた鍍金の嘘がぼろぼろと剥がれ落ちていく音を聞いた。
どう表していいのかがわからずに私は睫毛を伏せるだけ。
レッドの事が大好きだった。離れてなんて欲しくなかった。だから、嫌いなのだ。私よりも夢や目標や未来などというふんわりとしたものを優先するレッドが。私を捨ててまで掴みたいと思えるような、本気の夢があるレッドが。
嫌いなのだ。
好きだから。

「オレ、なまえが好きなんだ」

拙くも紡がれる愛の言葉は一世一代とするには随分とちっぽけな。
掠れ声で「……もう遅いよ」と口にして、私は踵を翻す。だが。扉の奥に去ろうとする直前にがんっ、と足元から音が鳴り、見れば外から突っ込まれた白地に赤いラインのスニーカーが施錠の邪魔をしていた。少しくたびれたような靴に目を奪われていると、隙間から伸びてきたグローブに包まれた手が私の腕に絡みつく。

「なに?」
「あ、いや、わり」

どもりながらに謝罪を口にし、レッドは私を離すと纏う赤のジャケットで手汗を拭った。

「お前、さ。遅いってなんだよ。今は好きじゃねえってことか? 嫌いってことか? ならいつならよかったんだ。もっと前ならオレのこと好きっつってくれたのか?」

嫌い。大嫌いなんだ。今のレッドを形作るものの全てが。大嫌い、なんだ。
それは私が、確かに彼を愛していたから。
愛していた彼を変えてしまった旅が憎くてしょうがない。

「旅なんて嫌い。バトルなんて嫌い。レッドを取ってっちゃうものは全部無くなっちゃえばいいのに、って思う。レッドは私のいちばんなの。だからレッドにとってのいちばんになりたかったの、私」

でもそんなことは、無理だってわかっているから。
いってきますを言い忘れるくらいに、彼を盲目的にさせるバトルの魔力に私が敵うわけがない。
なまえがオレにとっての一番だ、って嘘でもいいから言って欲しい。けれどその言葉はその場しのぎの嘘じゃない、真実であって欲しい。そんな私が彼の隣にいるべき人間ではないということももう、わかっているから。

「……ごめん」
「何が」
「オレ、やっぱバトルが好きだ。旅も好きだ。ポケモンも、好きだ。出会った奴らのことも。なまえのことも。順位とかつけらんねえよ。全部一番、全部大事」
「……、欲張り」
「そりゃそうだ。自分の欲しいもん全部手に入れちまえんのが一番いいに決まってる。ちなみにオレは結構ドンヨクな方だぞ」

こいつは本当に貪欲の意を理解して使っているのか。そんな物言いだった。
玄関ドアが軋む音を立てると、隙間が少しだけ広がって。突如、額に落とされた唇に頬が引きつり同時に、ひっ、と漏れる悲鳴。友情の意味を持つというキスの直後に彼は唇へと狙いを定めてきた、その意味は。とどのつまり幼馴染の域を飛び越えてしまおう、ということなのではないかというのが私の解釈だが、過大ではないはずだ。
眼を閉ざしたのは受け入れなんかじゃなくって、ただ恐怖を和らげるため。敵に眼前まで迫られた小動物が逃走を放棄しおとなしく自らの命を相手に委ねてしまうのと、同じである。
再び開いた視界は暗く、だがきらりと光る赤い双眸だけははっきりと視認できた。囚われる、眼差しに。

「だってなまえ言ったじゃんか。もうオレら、友達じゃないんだろ?」

2017/03/26

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