短編

君はゆっくりと輪郭を失う氷のように 後編


僕は自分の意識が消えていたことを、頭から水をかけられて目覚めさせられたことで知った。

「ゲホッ、が、……っ、はぁ、はっ……!」

目覚めても、僕は相も変わらず椅子の上で、景色はコンクリートの壁と床の灰色一色。少し離れた場所に裸のなまえが転がされており、悪夢と信じたかったことの全てが現実であると再認識する。

「グッドモーニング、バァーボン……? 寝るなんて酷いじゃない。寂しかったわ」
「……っは、く、僕はどのくらい気をやっていたんです……?」
「さぁね、どのくらいかしら」

しとどに濡れた髪から零れる雫が頬を打つので涙と錯覚しそうになる。乾いた唇を湿らせるそれも水には違いないと、僕は舌でそれを舐めた。
どの程度時間が経過したのかは不明だが、ベルモットの様子に変化が見られないことから、彼女の秘密が公にされるほどの時間が過ぎたわけではないことだけが、かろうじて察せられた。
外に仕事を抱えているのか、この女やその部下の男達は時折席を外す。そして気まぐれにこの部屋に舞い戻っては、なまえに乱暴を繰り返した。男達は繰り返し発散して精も尽きたのか、強姦ではなく暴行で彼女を追い立てることが多くなっていた。

「なまえは、無事なんですか……」
「その子ならそこに伸びているじゃない」
「それくらい見えますよ……息があるのかと聞いているんです」
「そうねぇ」

ベルモットは煙草に火をつけると、赤く燃えるその先端をなまえの裸の背中に押し付けた。

「あうっ!」

煙草の焼印を押し当てられ、なまえは叫んだ。
ベルモットはその様子をなんでもないことのように横目に捉えつつ、その煙草を味わった後、ふう、と煙を吐く。

「生きてるわ。意識もあるようよ。よかったわね」
「最低ですよ」
「褒め言葉ね」

ずきずきと痛む頭を回す。
人間が完全に水と切り離されて生きられる限界は、およそ4日から5日ほどとされている。体の水分の3%が失われると食欲不振、4%の喪失で疲労と体温の上昇、5%から6%の喪失で頭痛や吐き気、脱力感、情緒不安定、10%の喪失で躰の痙攣、循環不全などの症状が表れ始め、20%の喪失で死に至る。今の自分に表れている症状は頭痛と吐き気、体温の上昇……。ここに連れてこられてから2日か3日、といったところか。
僕は日本人の平均の値よりも身長に恵まれ、鍛えているおかげで体重もそれなりにある。限界は多めに見積もっても決して楽観的ではないだろうが……。

――なまえが危ない……。

椅子にくくられほとんど身動きが取れない自分と違って、彼女は汗も涙も過剰に分泌させられている。暴力的なセックスを立て続けに行われて体力も激しく消耗しているだろう。限界は僕と同じ物差しでは測れない。
水がなければ人は死ぬ。逆に、水さえあれば人間は2週間から3週間ほどは生きられるのだと云う。
「生きられる」とは言っても最低限度の文化的な生活が保証されるのではなく、かろうじて脈のある最低限の生命の維持、という意味だろう。とはいえ命が繋がれていることに変わりはない。
なんとか息ができる状態の衰弱した人間は組織の手足にもならないが、拷問部屋で椅子につないでおくだけ、或いは受動的に犯され続けるだけが役目であれば健康状態など問わなくていい。今の僕たち、特に彼女は組織の労働力ではなく、欲を発散するための装置の扱いだ。性器さえ使えれば狙いを果たせるというのなら、ベルモットは敢えてそれ以上に世話をしないだろう。
つまり最低でも3週間、彼女の身にこれが続くことを覚悟しなければならない。

――ふざけるな……。あの子の体が持たない。

破裂、の最悪の二文字が脳に乱舞する。
運良くそれを免れても何度もそれだけの期間に何度も射精されればいくらなんでも精が結ばれる。あの子に自分を犯した複数の男のうちの誰かの子を孕めというのか。産み落とせというのか。
仮に助かったとしてもまずもって警察官としての生命は絶たれることは間違いない。何時間、何日と凌辱され続けて、精神は腐った果実のように崩壊寸前。廃人として生き永らえることを無事とは呼びたくない。

ベルモットはペットボトルのキャップを捻ると、水の入ったそれをこちらに差し出しきた。その爪を覆うジェルネイルの色が先日とは変わっていることに気づき、苛立つ。
僕が呑み口に顔を寄せもしないことに彼女は首を傾げた。

「あら、飲まないの」
「口をつけると思いますか? そんな何が混入しているかわからないモノに」
「そうよね、その通りだわ」

洋画の登場人物ように大袈裟に肩を竦めたベルモットは、ピンヒールを数度鳴らしてなまえの元に歩み寄る。

「貴女、立ちなさい?」

衰弱したなまえは反射的に瞬きを行うだけだった。指示を聞かない彼女を煩わしく感じたらしいベルモットは、乱れた頭髪を掴むと真上へと引っ張り、強引に立たせた。どぷどぷと股から精子が流れ落ちる。僕が気を遣っている間に出されたものだろうか。
がくがくと震える膝は自立すら危ぶまれ、髪を掴み上げられていないと今にも崩れ落ちそうだった。皮肉にもそれが彼女を支えていたのだ。
ベルモットはなまえを僕の眼前まで連れてくると、その口にペットボトルをねじ込んだ。

「んっ!?」
「何も入っていやしないわよ。それが確認できれば用心深いあなたでも問題なく口をつけられるでしょう」
「毒見という訳ですか……」
「そういうこと」

僕の数え方と推測が間違っていなければだが、2日か3日ぶりの水である。なまえはそれを絢爛なディナーにありつくようにおいしそうにこくこくと飲み、疲弊した躰を潤していく。
ベルモットは彼女から一度ボトルを取り上げてから、次のように言い聞かせてまた呑み口を咥えさせた。

「いい、飲み込んじゃ駄目よ? 口に溜めるの……」

まさか、と思う。
従うしかないなまえは軽く膨らませた頬の裏に水を溜めた。

「そこの色男には貴女が飲ませなさい」

ベルモットが僕を指差す。
なまえは椅子に固定された僕の膝に軽く跨ると、僕に口付けた。ちろちろと覇気のない舌が僕の唇のドアを叩くので、観念して受け入れると、繋げられたそこから水が流れ込んでくる。彼女の口腔で温められたそれは酷く温かったが、ひさかたぶりに口にするそれは確かに乾きを潤した。夢中でごくごくと飲み干してしまう。
彼女の唇の奥の水気が蜜さながらにとろついた唾液だけになっても、僕はそれを求め続けた。水もだが、彼女とのキスがいまは一番の養分だった。

「もっと、欲しいですか……?」

なまえの掠れた声が僕に問う。

「えぇ……いただけるのなら……」

なまえがベルモットを振り返り、おねだりの視線を向けると、存外彼女はあっさりとボトルを寄越してくるので驚いた。
2回目の口移しだが、今度は少しばかり量が多かった。僕はそれを零さぬように受け止めようと必死になる。こくりと喉を動かせば、先程よりも勢いのある奔流が胃に流れていく。

「ん……、美味しいです……」

僕がうっとりと告げると、見上げた先の彼女の瞳が幽かに優しい光を灯した。
キスは束の間の安寧だ。水を口実に彼女の口腔を貪る。膣同様に犯された口の中は胃酸の酸味や、不快な青臭い味を呈していたが、それでもおいしい、おいしい、と唇が離れる都度馬鹿の一つ覚えのように言って、味わう。

「今だけは特別に手錠を外してあげる。その代わり、それとあと2本は飲ませて」
「っ、はい」

なまえは自由になった手でボトルを抱え、くぴくぴと自分の口に移し替えると、また僕にキスでそれを飲ませた。途中でもう拘束を解かれているのだから口を使う必要性がないことに気づき、哺乳瓶のように呑み口を直に僕の口元に当ててくる。彼女の腕に軽く頭を抱えられ、少しずつ舌に水を垂らされるのも、零れて顎に筋を描く水滴を指に拭われるのも溺れたくなるほどの夢心地だった。

「もう水は結構です」
「駄目よ。全て飲ませて」

これ以上はいらないとの僕の断りを受け、なまえはベルモットに視線で指示を仰いだ。そしてこの空間を支配する女帝である彼女の命を優先し、二本目のボトルの蓋を開ける。
水を全て飲みきった時、部屋のどこからかバイブレーションが響いた。ベルモットが胸の谷間から白いスマートフォンを取り出す。薬を嗅がせた折にくすねていたのだろう、僕の端末だ――そんなところに入れるな――。震えて着信を告げるそれを、画面を確認したうえで彼女はこちらに差し出してくる。画面には『飛田男六』とある。

「誰?」
「安室として雇っている探偵助手の男です。仕事のことで彼に急ぎで調べさせていたことがあったのでその報告でしょう。切っても構いませんが……あなたの秘密が露呈する条件は僕の死じゃあない。僕が消息を断つことです。慎重を期すならば連絡には全て応えておくべきだと思いませんか?」
「そうね……けれど少しでも妙な真似をすれば、わかるわね?」
「僕がそんなにも迂闊に見えますか? 心外ですねぇ」

ベルモットは応答のアイコンに触れると、端末を受け取れない僕の耳元にそれを翳した。もう片方の手で懐を漁り、取り出した拳銃を僕の米神に押し当てる。

「……飛田ですか。僕です。例の件ですが都合がつかなくなりました。対応はそちらに任せます。いえ、手が塞がっていて。自由になる時間がない。自分で足を運ぶのも難しい。……みょうじですか? あれは駄目ですね。このあと? えぇ、すぐに確認しますが……期待薄ですよ」

ふつり、と通話の途切れる音を片耳で拾う。
そして。
僕に水を与えるなど、やけに生易しかったベルモットの意図は、数時間後に判明した。
余剰分の水は体外に排泄される――人体の摂理だ。
500ミリリットルのペットボトルの水を計3本飲まされ、数時間。僕は尿意を催していた。最初の1、2時間はなんでもない顔をしていられたが、時間の経過とともに無視ができなくなってくる。

「ベルモット」
「何かしら」
「いえ……」

喉まででかけた要求を飲み込もうとしたが、結局言葉を舌に乗せてしまう。

「用を、足したいんですが……」
「そう」

感慨なさそうにスマートフォンの画面をスワイプして、ベルモットは「そうねぇ……」とプラチナブロンドの髪を揺らしながら視線を上げる。そして、と液晶画面から遊離させた指先を、すっ、と床に向けた。

「便器はこれを使いなさい」
「え……」

これ、と言って指し示すのは、裸で部屋の隅に座っていたなまえだ。
僕は唖然とする。

「パピーちゃん、バーボンにさせてあげて」

新しい司令によろりと立ち上がったなまえだが、自重を支える体力もないのかその場に膝を折ってしまう。パピー、という呼び名が皮肉に思えるほどしっくりくる、まさに犬のような四つん這いで彼女は僕に寄ってきた。

「生憎ここには簡易トイレなんて気の利いたものはないの。このまま我慢の限界が来れば彼、漏らしちゃうでしょ。そうしたら、床が汚れちゃうでしょ。だから貴女の口の中にさせてあげればいいと思うのよ。飲めるでしょう、大切な飼い主のなんだから」
「飲むって……何を馬鹿なことを……! なまえ、貴女も……ッ! しなくていい! いいですからっ、やめてください!」
「これができたらバーボンだけは開放してあげるわ」

ベルモットの一言になまえが目の色を変えた。

「本当に、彼を開放してくれるんですか……?」
「っ、なまえ!!」
「勿論よ」
「従う必要はありません……! ベルモットの言葉が本当だとするなら、根拠は僕が用意したリークの件。“消息を絶つ”という条件がどの程度の期間音信不通になることを示しているのかがわからない以上、僕を外から断絶するリスクは日毎に高くなる……。開放するのは外部と連絡を取らせたり、仕事をさせたりしてアリバイを作るためです。つまり計画上、僕の一時的な開放は織り込み済み。なまえが何をしようとしまいとこの女は僕を表に出さざるを得ないんです。ね、そうでしょう、ベルモット?」
「あなたを開放した後に、此処にもっと大勢を連れてきて楽しんでもいいのよ。あなたのお仕事中、彼女は休まずに犯されるの。手酷いセックスに関心のある男なんて山ほどいるわ……。そういう店でもあまり派手な遊びはさせてくれないところが多いじゃない? 構成員の女は大抵銃を携帯しているから反撃されるリスクを孕んでいるし、適当な一般人を見繕うという手もあるけれど、犯罪現場に体液を残すなんて組織のやり方からは反するわ……天国を見るつもりが粛清なんて笑えない話よね。この子の存在は大層悦ばれるでしょうね。それこそアナルとヴァギナが破れて繋がってしまうまで――」
「やめてください!!」
「もう何度も犯されているのだから一人も二人も百人も同じだと思うけれど……そうね、この子があなたのものを飲んでくれたら、今日のところは考えてあげる。ねぇ、バーボンだって本当はなまえに飲んでもらいたいでしょう?」

そんなわけがない――! 反射的に怒鳴ろうとしたとき、長いネイルを乗せた手が僕の顎を掬い上げる。指で頬を潰されると爪が肉に食い込む。

「言いなさい、僕のを飲めって。そんなにまたその子が輪姦されているところが見たいの? 安心して頂戴、ちゃあんとあなたの端末に映像をリアルタイムで送ってあげるから……」

助けるため。助けるためなのだ。
認可されている媚薬と同じくらい効き目の薄い自己暗示を胸中で唱える。

「っ、糞……っ。なまえ……僕のを、飲んで、くれますか」
「ふ……ぅ、はい、飲みます……」

彼女はこくこくと何度も頷いて、僕の足の間に座る。
手首に赤い跡を刻んだ小さな手が、僕の疲弊でしなびたぺニスに手を添えた。勃起していないためにそれほど大きくはないはずだが、彼女の小さな口には見合わない質量である。

――あぁ、こんなに小さいのに……。

「んっ……くっ! すみませんっ……なまえ、ごめんなさい……こんな、こと……」

鈴口を温かいものが撫ぜた瞬間、思わず声が出る。
ちゅぷっと音を立てて、熱い粘膜に包まれる感触があった。痺れた脳髄は理解力が弱まっており、それが彼女の口内だと理解するのに数秒かかった。

「いいんです、謝らないでください。わたしあなたにならなにされてもいいんです。知らない人たちの相手するくらいなら、こっちの方がずっといい」

一度口を離したなまえが微笑む。――いいはずがない。
こんなにも醜悪な行為を迫れれているのに、彼女は泣き言ひとつ言わなかった。
彼女が再びペニスを口に含む。先端を舐めた舌が尿道をほじくるように探り、くびれた傘をなぞる。零れ落ちる唾液が幹を下っていくのすら、敏感に拾い上げた。
見兼ねたベルモットが服の上から僕の臍の下のあたりをぎゅうと押し込んだ。腹を圧迫され、ついにつぷり、と一滴滲ませてしまう。そのあとは、決壊した川のように溢れ出すだけ――。

「あっ、出っ、ます……すみません、すみません、すみません……なまえ……」
「ひい、れすよ……らひてふらさい……」

じょわ、と勢いよく出た尿が彼女の口腔を満たしていく。なまえの口の中で、その喉に叩きつけるが如く放尿している……。
止められない。腹に力を込めれば勢いを弱められ、断続的に吹き出すまでには抑えられるが、ぴとりと止めることができない。

「うぐ……! んっ……ふ、くぁ……っ」

僕の尿に溺れる彼女の苦しそうな表情を見て、慌てて腰を引く。しかしがたがたと椅子が音を立てるだけで距離を置くことはできない。
動いた拍子に唇に差し込んでいたペニスがずれて、こぽり、と汚い液があふれてしまう。なまえの顎が汚れていく。沸き起こるアンモニア臭が鼻を劈いた。
こくこくと嚥下して、汚いものを喉の奥に片付けてくれる傍から、排尿してその口をまた満たす。
やがて膀胱が空になり、ペニスが飛沫をあげなくなるとなまえはようやく口を離した。



ほどなくして、拘束を解かれた僕はビル内で身なりを整え、久しぶりに太陽を拝んだ。あの女は準備のいいことに新品の衣類を一式買い揃えていた。誰も清潔な一張羅を纏った僕が軟禁されていたなどとは夢にも思わないだろう……つまり推測もされない。
ベルモット伝手に聞いた仕事は機密情報の受け渡しだ。何度となく熟してきた、バーボンの得意分野。心をざわめかせる必要もないくらい、簡単な業務。
車に置き去りにしていた降谷名義のスマートフォンの電源を入れると、ロック画面の日付からあれから2日経過していたことがわかる。夥しい数の不在着信のほとんどは風見からで、あの日、廃ビルに連れて行かれる前の時間帯にはなまえからの連絡も数件入っていた。
念のため車内全体をグローブボックスに入れていた盗聴器発見機で調べ尽くす。スマートフォンにも何か仕込まれている可能性を懸念して、安室名義の端末の電源を落とし、降谷の端末の方から風見に折り返す。

「僕だ」
「降谷さん、先程のあれは……」
「すまない、2日間組織の連中に拘束されていた。君が安室の端末に連絡をくれて助かった。状況は先程の通りだ」

――飛田ですか。僕です。例の件ですが都合がつかなくなりました。対応はそちらに任せます。いえ、手が塞がっていて。自由になる時間がない。自分で足を運ぶのも難しい。……みょうじですか? あれは駄目ですね。このあと? えぇ、すぐに確認しますが……期待薄ですよ。

「手が塞がっている」は手錠、「足を運ぶのも難しい」は足枷。「自由になる時間がない」はなんらかの理由で身動きが取れない状態にあること。みょうじが駄目だ、期待薄だというのは彼女の状態が芳しくないということ。

「みょうじは無事なんですか? あれは私の部下です。自分には彼女の状況を知る権利があるはずです」
「病院の手配をしておけ。内科と婦人科、精神科か心療内科もだ。男性医師は避けて看護師も医者も全て女性で固めろ。警察関係者も婦警以外は関わらせるな。助かっても復帰はまず無理だと考えろ」
「降谷さん」
「外傷はあるが命に別状はない。だが万が一のことは覚悟しておけ。全て確認できたわけじゃない」
「降谷さん、みょうじの状態を教えてください」
「……みょうじは僕を庇った。責任は僕が取る。君も馬鹿じゃない、ここまで言えばもうわかるだろう。頼む、対応を急げ」
「降谷さ――!」

黒田管理官への連絡もまだ済んでいない。それを言い訳に、風見との通話を一方的に終えた。なまえの状態を細やかに伝えるには心が震えすぎていた。僕が要件だけ述べてすぐに切るのはいつものことだ、きっと彼奴も気にはしない。
続けて僕は管理感に連絡する。

「管理官、みょうじが拷問にかけられています。救助のための人手をお願いします」
「何か漏らした可能性はあるか」

黒ずくめの組織も、公安警察も、珊瑚礁に似ている――真っ先に安否ではなく公安の不利益となることがあったのかどうかを確認してくる黒田管理官に、不意にそう思った。珊瑚一つ一つは命ある生き物だが、それらが煌めく青の海底に集って珊瑚礁という地形を織りなしている。
警察官も、ノックも、一人の人間だ。生きている。しかし群れればただの歯車。珊瑚礁という“地形”の景観を保つため、白化した珊瑚という“個”は削ぎ落とされる。国家のために削ぎ落とされる覚悟を抱いて、僕もこの人も白い珊瑚を削ぎ落とす。
ベルモットという大きな癌腫瘍のために、みょうじなまえという尊くも替えの効く女を差し出した僕も、この人と同じ。珊瑚ではなく珊瑚礁を守っている。されどもたったひとつの美しい珊瑚だけをずっと心に留めている。それだけを見つめている。優先もしてやれないのに、目を奪われているのだ。

「降谷? 何故すぐに答えない?」
「……いえ、僕も見ておりましたが、全く。命に別状は有りませんが、この2日間で水をひとくちかふたくちしか口にしていません……」
「栄養失調、低血糖なら数週間から数ヶ月の入院は免れんだろうな。それまでは変わりの人間を用意させる」
「いえ、復帰は恐らく……」
「そうか。病院は」
「既に風見に手配させています」
「わかった」

ベルモットもその手足の男達も毎時間あそこに滞在しているわけではない。あの拷問は組織の総意ではなく、あの女の独断だ。あの女の行動スケジュールを割り出せば、救助はそう難しいことではない。そしてあの女のこれから数日間の仕事の内容を掠め取るのは、バーボンにとっては造作もない事。
――助けられる。
通話の終えたスマートフォンを服の胸ポケットにしまうと、布の上からそれを撫でた。
大丈夫。失いはしない。
彼女の此処に、風穴は開けさせない。
僕は付近のネットカフェのシャワーを借り、身を清めた。ビジネスの場に向かうに相応しい様相となった。あの子はまだ汚い部屋で不衛生極まりない状態におかれているのに。


2023/07/16

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