短編

肖像にドリル


「わざわざ深夜にご苦労なこったな」

そう問いながらに肩を竦めると、なまえさんは瞳孔にティーポットにたっぷりほどの驚愕を湛えた瞳で、俺を振り返った。
召集がかかって、なんて困ったように焦ったように、濁った微笑みを貼りつけて、退路を探るなまえさん。

「ごめんね、急ぐから。話は明日に……」
「っ――嫌だ」

弾かれたように、俺は彼女の手を掴んでいた。

「話は明日、ってことはあんた今日はもう帰らないつもりなんだろ? 深夜に呼び出しておいて帰さない要件……とくれば嫌でも想像はつくよ」
「何言ってるの。ただの召集だよ」
「そんなにアダムズ中佐が大事なのか?」

俺の掌の中で震えていたなまえさんの指先が、その刹那、こわばった。怯えた子猫さながらに縮こまって耐えようとするその姿に穿たれた胸が、どくん、と大蛇が舌なめずりをするように不穏な音を奏でる。かぶりを振って劣情に蓋をすると、畳みかけるように俺は言葉を繋いでいく。

「おかしいだろ、アダムズ中佐は妻子持ちだ。そんなやつとあんたが――」

どんっ、と俺の言葉を断ち切るかのような、それ以上言わせまいという意志を内包した衝撃が炸裂した。なまえさんの決死の体当たりに体制を崩した俺の、拘束の隙間を縫って駆け出していく影が一つ。

「っ、にゃろっ!」

ぱん、と一度合わせた両手を玄関の壁に触れさせれば。稲妻に酷似した錬成の光が夜陰を裂いて迸り、まばゆさに眩んだ眼界が癒える頃には、モコモコと膨れ上がった壁によって玄関はすっかり封鎖済み。この魔法のような理不尽な事象の立会人である彼女は、失望の後退り。

「う、うち、アパートなのに……」
「悪い。後で戻すよ」

へなへなとその場に膝を折ってしまったなまえさんに、やりすぎちまったか、と遅まきながら自身の蛮行に等しい過ぎた錬成を自覚する。「悪かったよ」なんて後頭部の髪を乱雑に掻き乱しつつ謝罪を口にしたところで、その頬を伝う透明な雫の存在を目にしてしまい、ぎょえっ、と俺は情けない驚きを漏らしてしまう。

「んなっ! な、な、泣かないでよなまえさ……」
「やだ……っ」

やだって。
何がんな気に触っ……やべー気に触ることしかしてねー。不倫告発するわドア封じるわ流石に追い詰めすぎたよな。
はくはく、となまえさんの唇が何か言葉を紡ぐ動きを見せたので、俺もその場に跪いて目線を揃えると、彼女の言葉に耳を澄ませた。俺の耳殻に届いたのは、触れれば砕け散りそうなほどにか弱い響き。

「やだ、知られたくなかった……っ」
「悪かった。でも言いふらすような真似はしねぇから。ただあんたに自分自身を大切にして欲しかっただけなんだ」

目尻に居残る涙の小粒を指で拾うと、なまえさんは首を振った。

「そうじゃ、ないよ……こんなのエドワード君に知って欲しく、なくて……」

背筋を熱い衝動が駆け抜けていく。躰の芯が熱せられ、腹の底に収まった感情という感情が沸騰する。
へたりこんでいる彼女を勢い任せにがばりと抱き寄せて。胸の中に閉じ込めて、彼女の方に額を押し付けて、彼女の頭を自分の肩口に抱きこんで。

「なんで?」
「え……?」
「なんで俺に知られたくねぇの? 教えてよ」

期待するだろ――とは隠し抜いた本音。

「だって君は子供だから。すごく大人びてるけど、それでも私たち大人にとっては、残酷なことから守らなきゃいけない存在だから」

こんなことに首を突っ込ませてごめんね。ごめんね、駄目な大人で。
俺の赤外套の肩口に、涙と弱音が染み込んでいく。
なんだ。損した。痛いほど、はち切れるほど、膨れ上がっていた期待の蕾が忽ち萎れる。
腕を一蹴させても余ってしまう、彼女の細い背中。俺の胸との狭間で潰れている胸の膨らみ。少し腰の輪郭を撫でれば、手の神経からくびれの形状が伝わってくる。
香りや熱や感触を、味わえば味わうほど昂ぶるのに、この人は俺の腕の中の止まり木に留まり続ける気はないらしい。

「ごめんね、ありがとう。少し落ち着いたよ。今日はあの人のところには行かないから、離して?」

涙に濡れた願い事を、聞くことはできない。
俺は強く腰を抱き、拘束を強める。

「今日は、じゃだめだ。2度と行かないって約束してくれるまで離さない」
「だ、だめだよ、こんな」

細い声で紡ぎながら、なまえさんが俺の結えられた髪を指で梳いた。ただそうされるだけで擦り寄って甘えたくなってしまうくらい気持ちがいい。なぜだろう、なんて野暮だ。なまえさんだからに決まっているだろう。

「気安くこんなことするのは良くないよ。離して、お願い」

己の腕の鎖で彼女をずっと繋ぎ止めておきたい、という意に反し、拘束力は弱まっていき、ついには両腕をだんらりと力無くぶら下げるに至った。
気安くこんな真似に及んだわけじゃない。そんなわけがない。

「……なまえさんが屑にいいように扱われてんのも、そいつのせいであんたが傷ついてんのも、これっぽっちも幸せそうじゃないのも納得行かねえ」
「うん……」
「祝福できる相手じゃないのも気に入らねえ」
「うん」

彼女が差し込む相槌は、優しくて、心地よくて、でもどこか心ここに在らずで。
解放した彼女と、玄関の目の前に二人してへたりこんだまま、向き合って、ぐ、と腹に力を入れて。

「好きなんだ、なまえさんが! だからこんなのは絶対嫌だ。軽い気持ちで抱き締めてるわけでもない。碌でもねえ男のとこになんか行ってほしくない。あんたが好きだから!」

***

朝日によって不躾に瞼をノックされ、目覚めた折、昨夜の出来事が鰯の群れのように渦を巻いて脳裏を過ぎていった。
彼女さんの涙の透明度と、彼女の温度と、震える肩と、背中の狭さと、腰の細さ。それらを全て腕の中で感じていたこと。それがぜんぶ、まるで、夢みたいだ。
あたたかな夢のなかから、独りぼっちの淋しいベッドの上、という現実に放り出され、嘆息を零す。鋼の右手の甲を額に触れさせて、ぼうっ、と脳が回り出すのを待っていた、そのとき。
天井が――違う、ということに気がついた。俺たち兄弟が宿泊予約を取っていたホテルの天井と、違うのだ。

――夢じゃない!

気づくや否や跳ね起きると、ベッドサイドに畳まれた状態で置かれていたコートに袖を通しながら寝室らしき部屋を飛び出した。
転がるように飛び出た先では。

「おはよう」

なまえさんが笑っていた。
硬直した俺は、お、おはよ、とつまらない返事をし、そしてまたつまらない問いを投げつけた。

「今何時?」
「9時半」

そうじゃねえだろうが、俺。
聞きたいことも、問いただしたいことも、結びたい約束も、求めたい返答だって、山程あるのに。

「……ん? 9時半? なんでなまえさんまだ家出てないの?」
「ドアがあんなんじゃ家から出れないでしょ。だから休んじゃった」

ふわ、と俺の腕の中に昨夜の抱擁の記憶が蘇った。

「悪い。すぐ直すよ」
「うん、お願い。あのね、食べ物何もないの。一緒に外に行こう?」
「……いいのかよ」
「いいよ。奢ってあげる。エドワード君たくさん食べるんだってね。マスタング大佐がよく愚痴ってたよ」
「じゃなくて! 一緒に飯食うの、デートって解釈するからな」

なまえさんは愛らしくはにかんで、少しだけ俺から視線を外した。なんだよそれ、期待を煽る所作はお手の物かよ。悪態をつきつつも、胸をときめかせている自分も確かにいる。

「あのさ、一個確認したいことがあんだけど」
「なあに?」

昨夜ってさ……その……一緒に寝たの? 俺ら――そんなことを訊ねようとして、寸でのところで問いかけを噛み潰す。

「……やっぱなんでもない。行こうぜ、ドア直すからさ」


2021/06/26

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