短編

ぼくがダサくたって、あの子がアングラだって


血生臭い修羅場を駆け抜けた日の夜、部屋を取っていたホテルにバーがあると知り、私は一息着かないかとバーボンを誘った。しかし愚かで軽率な行動だったと猛省している。
バーカウンターで相変わらず健康維持に熱心な彼の蘊蓄に耳を傾けながら、グラスの氷の崩れる音を楽しんでいたとき。彗星のように唐突に現れた男の影が、組織内ではにこやかで非力な役柄に徹しているバーボンの纏う空気を一瞬にして尖らせた。

「奇遇ですね? 雰囲気の良い店におおよそ堅気とは思えない人相の悪い男が入って来たので誰かと思えば。あなたでしたか。ライ」

先陣を切って、一見にこやかに声を投げかけたバーボンだけれど、その双眸は鋭い光を宿し、長髪を靡かせる男をあからさまなまでに威嚇している。
入店早々噛みつかれたライは、オリーブグリーンの眼球を転がしてこちらを一瞥したが、すぐにふいと視線を背けてしまう。はなから言葉を交わす気など毛頭ないというライの態度に、かちんときたらしいバーボンが刹那的にその甘い顔立ちから笑顔を消した。行く末を見守っていた私はバーボンの影で激しく戦慄する。

「相変わらず寂しい人ですね」
「どうにも賑やかなのは性に合わんのでな。それにしても驚いた、餓鬼の兄妹が補導もされずに紛れ込んでいるかと思えば君達とはな。いや、姉弟の方が似合いか?」

部外者の私をおいてけぼりに、宙で牽制と啀みの火花を散らす彼らを、異国の紛争に怯えるようにどこか他人事のように眺めていたが。つかつか、と緩やかに床を踏んだライが、あろうことか私の隣の席に腰を下し、嫌味ったらしくもバーボンベースのメニューを注文したおかげで私も無関係ではいられなくなった。
ライとバーボンに左右を挟まれている――こんな状況下で疑問を舌に載せるのは雷雲を指で突くようなことだ。慄く余り硬直していた私の代弁者になってくれたのはバーボンだった。

「……何故そこに座るんですか?」
「君ではなく彼女だ。今後も連携していくのなら、コミュニケーションを重ねておいて損はない」

そうだろう? と目配せをするライ。嵐の渦中に引き摺り込まれてしまった悲運な私はなすすべなく頷いた。緩衝材として、肉の防波堤として、おとなしくしている以外に道は無さそうである。
側からみれば黒髪と金髪の色男を両脇に侍らせている女だろうけれど、実際の私たち3人の間には沈黙と殺伐とした空気が濃霧のように立ち込めている。威圧感で圧死してしまいそうとは情けない話だけれど。


それからは、ぽつぽつとライと先ほどまでの任務の話をしたり、私が頼んだカクテルの名前の由来や逸話や歴史をバーボンが聞かせてくれたり、とラテの水面を覆うミルクの泡のような、表面的な平和な時間が続いた。
けれど肝心のライとバーボンは完全に互いに互いを存在しないものとして無視を決め込んでおり、模造品の平和の水面下では、地獄の釜さながらに緊張が煮え立っている。一触即発、油断ならない。

「君が評判以上に優秀だと知れただけでも、今回の任務は収穫だった。不足の事態においても、迅速に退路を確保でき、状況を立て直せる柔軟性。正直、彼のもとで腐らせておくには惜しい」
「そんな……ほとんど指示に従っただけだし、それこそバーボンがいないと腐っちゃうよ、私」
「そんなことはない。俺は人を見る眼鏡には、些か自信があるのでね。俺と組む気はないか?」
「ライと? それはちょっと」

確かに初めに煽り始めたのはバーボンだったけれど、ライもライで人が悪い。見た目にそぐわず一途に想っている女性がいるというのに、私を引き抜こうとしている彼の真意は、恐らくバーボンに揺さぶりをかけたいがため。正直バーボンにこの策は効く。ただでさえ明美という女性がライに利用されているのではと勘繰っているのに、現状はその女性を放って私にヘッドハンティングをかけようとしているようにしか見えない。更に私とバーボンは全く悪い関係ではなく――。
どうしよう、と横目で隣席の彼を伺って、見遣った先の光景に愕然とした。金色の頭がカウンターテーブルに沈み込んでいるではないか。

「ば、バーボン? 大丈夫?」
「随分とハイペースで飲んでいたようだからな」
「嘘でしょ、いつもはもっとこんなんじゃ酔わないのに……」

机に突っ伏しているバーボンの肩を揺すっていると、緩慢な動作で首が持ち上げられる。俯きがちな彼の顔を隠す金糸の隙間を縫い、表情を覗き込めば、嘔吐感を必死に噛み殺しているような、不調そのものの顔があってまたしてもぎょっとする。

「ど、どうしたの、こんなに弱かった? 部屋に戻った方が……」
「すみません、せっかく誘っていただいたのに……。そうします」

ゆらり、と額を抑えながら彼は立ち上がるが、その足取りはとても黙って見ていられるようなものではなかった。

「歩ける?」
「心配しないで。1人で大丈夫ですよ」

私の頭を力の入っていない指でくしゃりと撫で、不安げな子供をあやすように微笑んだバーボンだったけれど、垂れがちな目元に滲む倦怠感は隠しきれていない。やんわりと私の支えようとする手を振り払う褐色の手を懲りずに追いかけ、捉える。

「送るよ。ちょっと行ってくるけどいいよね、ライ?」
「あぁ……食われんようにな」
「やめてよ。病人だよ」

私がライの言葉を悪趣味な冗談として受け取ったのは――バーボンがライへ向けて、勝ち誇ったかのような大胆不敵な笑みを浮かべていたとは夢にも思わなかったからだ。


アルコールに喰われたせいとはいえ、こんな風にくたりと人に撓垂れかかるバーボンなんて今まで見たことがなかった。無力感を纏うバーボンはやけにいじらしくて、庇護欲がくすぐられてしまう。

――本当に、あの男といると何もかもうまくいかない。

エレベーターの中で彼が零した言葉を、私はきっと一生忘れられないだろう。
腕で部屋の照明を遮りながら、ベッドに痩身を投げ出した彼の枕元に腰を下ろす。

「水飲める?」
「えぇ……ありがとうございます」

上肢を起こし、手渡したグラスの水を一息で飲み干すと、彼は熱い息を吐いた。褐色の指先がループタイをワイシャツの釦を上から三つほど弾く。
開かれた襟元から覗く鎖骨から反射的に視線を逸らした。具合の悪い彼の肌に釘付けになるのはさすがにみっともない。
水、おかわり持ってくるね、と一旦この動揺を洗面所で落ち着けてこようと立ち上がろうとしたけれど。ぐいっ、と腕を掴まれて引き止められていた。

「それより、あなたにそばにいてほしいです」
「う、うん」

しぱしぱ、と。より動揺の強まった証であるまばたきの増量。

「――わっ」

掴まれたままの腕を引かれ、気づけばシーツの海の中に引き摺り込まれていた。これも彼の計算のうちか、後頭部は柔らかな枕に収まったので痛んだりはしないけれど、ちょっとした衝撃にくらくらと眼界に明滅を錯覚する。眩みの波が引いていくのを待っていると、顔に影が落ちてくる。恐る恐る瞼をあげれば私の腹に跨ったバーボンが、顔の横に手を突いて逃すまいと閉じ込めていた。
彼が煽っていたスコッチソーダの香りの名残りが色濃く残る唇を押し付けられる。
すぐに戻るかのような口振りで店を出てきたのにこれ以上のことになっては、あの「喰われんようにな」という忠告の前に惨敗を晒してしまう。それはいやだ、と私は彼の肋骨を覆う厚みのある胸筋を押し返す。刹那、背筋が凍える心地がした。
――脈が、怖いくらいに正常なのだ。
ばっ、と距離を離すと彼の両頬を掌で包み、真っ直ぐに偽りの倦怠感を湛えたそのアリスブルーの双眸を見据える。

「もしかして、本当は酔ってないの?」
「……ばれちゃいました?」

ことり、と彼は首を傾けて、妖しく微笑む。

「思いのほかあなたが甲斐甲斐しいので驚きましたよ。お好きなんですか? 甘えられるの」
「そ、うかも」
「偶にはアプローチを変えてみるのもいいのかもしれません……」

くつくつと喉の奥で笑う彼はすっかり素面の、何かを目論んでいる折の姿に戻っていて、先刻までのしおらしい様子は本当にフェイクだったのだとまざまざと思い知らされる。
キスを再開しようとしてくるバーボンの、油断ならない唇に掌を押し付けて、制止した。

「今日はだめだよ。ライにすぐ戻るみたいなこと言っちゃったし……そのつもりだったから会計もまだだし……」
「会計ならあの男に任せてしまえばいいんです」
「ひゃっ!?」

れろ、と。口を封じたはずの手を舐められて反撃を喰らう。

「あなた好みの年下のようにおねだりをしたら、戻らずにここにいてくれます?」
「し、知らない〜!」

シーツに派手に皺が寄るほどにばたばたと両足を暴れさせても、バーボンは意に介さない。
「知らないですか、そうですか」と彼がにこにこと目を細めたかと思えば、次の瞬間には唇を塞がれている。が、しかし今度は歯の間に舌をねじ込まれ、怯んで縮こまっていたこちらの舌を探り当てられると絡め取られる。
まともに握れないほど力が入らないのに、意思とは裏腹に変な力み方をする指先は、ぴくぴく跳ねて魚みたいだ。緩く拳を作っていた指の隙間に褐色の指が差し込まれ、握られる。胸板に胸板を押し付けられて潰されるんじゃないかと怖くなるくらいに貪られている。呼吸をする余裕は勿論与えて貰えない。
ほとんど無意識に零していた涙だったけれど、そのお陰で自身の限界を悟った私は、バーボンの唇に思い切り噛み付いてやった。

「いたっ」

すれば、存外彼は平凡な悲鳴を漏らすものだから、なんだか笑えてしまった。
唇から流れる鉄臭を伴う赤を親指で払って。

「そんな顔では戻れませんね」

どんな顔か、なんて言うまでもない。バーボンの熱を帯びた瞳孔を見せつけられれば、鏡合わせさながらに、自分もまた同じ様な欲に濡れた表情をしているのであろうことは、察せられるからだ。


2021/02/26

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