短編

きみとは星になる過程ですれ違った


『宅配便です』
「はーい」

軽快に響くインターフォンに吸い寄せられるように私は玄関へと歩を進めた。
多忙故に長らく掃除とは無縁で、乱れた生活の滲む部屋を宅配業者の人の眼前に晒すのには気が引けたため、ドアは細い隙間を作る程度の開け方に留めてやり過ごそうと思っていた。
宅配業者を名乗って現れた、陽を浴びて煌めく淡いブロンドの男にはたと刮目するより早く――伸びてきた小麦色の手によって、がっ、とちからづよくドアを押さえつけられる。

「あ、安室さん……っ!?」

一拍の間ののち、私の口から飛び出す彼の名前。

映画の主人公の部屋に押し入ってくる殺人鬼よろしく、ぐぐぐ、と力任せに隙間を広げられ、ついに安室さんと視線がかち合ってしまう。

「宅配業者の場合は社名、郵便局員の場合は郵便局だと名乗ります。なので『宅配便』とだけ名乗ってドアを開けさせようとしてくる人物は、大抵はよからぬことを考えている輩と考えていいでしょう。今後は無用心に開けないように。そしてチェーンロックも忘れないこと。――いいですね?」
「気、気をつけます……」

どうして、なんで、と狼狽える私の疑問を彼は解消しようとはせず、雄弁に蘊蓄を語る。
甘やかに垂れた双眸は、平素となんら変わりなく愛想良く笑んでいるが、それが却って恐ろしい。
必死にドアノブを引っ張って閉めようとするけれど、それも見透かされていたのか安室さんはドアの隙間に自身の長い脚を差し込んで阻んでくる。

「閉めても構いませんが……そのときは鍵を開けさせて頂くまでです」

嘘。閉めさせてすらくれないのに。よく言う。

「あなたの籠城もここまでです。少々宅配業者を名乗るだけでほいほい引っかかるなんて詰めが甘いにも程がある。そんな覚悟で僕から逃げようなんて100年早いですよ」

中に入っても? と争いとは縁遠そうな、乙女心を蜂蜜のように蕩けさせてしまう絶対的な笑顔で安室さんは首を傾げる。
私は白旗を振ることにした。


恋人と衝突したのはつい先日のこと。
人間関係が半熟卵のように崩れ、まるでしめしあわせたかのようにそこに多忙が重なり、私は滅入っていた。
時間にも心にも余裕はない。生活にまで手が回らないお陰で、散らかっていく部屋。その真ん中で何もできずに毎夜蹲っている私を見兼ねたらしい安室さんが、食材を携えて訪ねてきてくれた。

――一旦落ち着きましょう。温かいものでも食べて。ね?

宥めようとしてくる彼の穏やかな気質さえも、限界点を超えていた私にとっては鼻につくものだった。泣きじゃくって感情論に溺れている私とは真逆の、冷静沈着な物腰を崩さない安室さんの態度は、私の目にはまるで粛々と面倒事に“対処”しているだけの役人のように映ったのだ。

――対処……そう感じさせてしまったんですね。すみません、少し無神経でした。

ぴりぴりと張り詰めていた神経は身勝手だけれど逆撫でされて、沸騰した頭を律することもせず、一方的に罵る言葉をぶつけた。罵詈雑言を吐き出すと、水を被ったように急転直下に冷えていく脳。怒りや焦燥という不純物が濾過され、物事を歪めずに捉えられる澱みのない思考回路が蘇る。すると直前までの自分の幼稚な我儘と駄々が途端に恥ずかしくなって、俯いた。

――ごめんなさい……。
――お疲れなんでしょう。よく眠れていないことはその隈を見ればわかります。僕はお暇しますから、今日はゆっくり休んでください。

なんてことをしてしまったんだろう。仕事と人間関係の間に挟まれ、摩擦でみるみる痩けていく私を、ずっと案じる眼差しで包んでくれていたのは安室さんだ。
自ら壊した砂の城にどれだけの価値と作り手の熱意が宿っていたのか――。
愚かだ。


「ではまずあなたの疑問にお答えしましょうか」
「……え?」

招かねざる存在とはいえど腐っても客人であるはずの安室さんが率先してキッチンに立っている。至って自然に薬缶を熱し初め、ティーポットと、二人分のカップとソーサーを食器棚から取り出した彼を、私は幽霊のようにぼうっと立ち尽くして見ていることしかできない。

「なぜ僕がここにいるのか。それも、騙すような真似をしてまであなたに会いたかったのか。それは大事な話をしたかったからです――まぁ、後者は居留守を使われる可能性があったため、というのもありますが――。
それではここでクエスチョン――大事な話というものが何か、わかりますか?」
「わ、別れ話」
「残念ながら不正解。大事な話、という点は共通していますが」

そんなに信用ないですかね、僕。なんて眉を下げながら頬を掻いた安室さん。
トポポ、と茶葉を敷いたポットに湯を注ぎ、細く緩やかに舞い上がる湯気をポットの中に封じるように蓋をする。カチャ、という陶器同士が擦れ合う薄くて甲高い音を奏でると、彼はこちらを振り返った。

「仲直りをしに来たんですよ」

安室さんが唱えたのは私の胸に燻る後ろめたさを消し去る呪文。
だってぱっと天の雲が途切れて、天使の梯子が降り始めたように、心が晴れてしまったのだ。これを魔法と言わずしてなんと言う。

「なまえさんとこれで終わりなんて嫌ですから」
「あの、この前は本当にごめんなさい」
「ふふ、気にしてなんていませんよ。あの時のなまえさんは相当参っている様子でしたし、責めるつもりもありません」

安室さんがポットとカップを食卓に置くと、二人で席についた。
抽出時間の3分を、他愛もない話を積み木のように重ねながら潰す。

「夜は一緒に食べせんか? 僕が作ります。この前僕が置き忘れていった食材、きっとそのままでしょ?」
「は、はい」

例の衝突の日のことだ。私が一方的に苛立って彼を追い返したとき、残していってくれた食材を『置き忘れた』だなんて。真綿みたいな言葉を選ばれると、気遣いが傷口に沁みて、泣きそうだ。

「夕方までは……掃除をしましょうか。お手伝いしますよ。そのあとは洗濯も」
「すみません……何から何まで……」
「お気になさらず。元々あの日もこんな風に甘やかすつもりでしたから」

お手伝いと口では言うけれどきっと私に手出しさせない手際の良さで、全部安室さん一人でこなしてしまうのだろう。
ともすればこのずたぼろの休日を癒やすためのプランは、もう安室さんの脳内で組み上がっているのやもしれない。一任してしまっても、いいのやもしれない。
蒸らし終わった紅茶も彼がスマートに注いでくれた。赤みがかった琥珀色の紅茶をひとくち口に含むと、喉がほっとするようなあたたかさに包まれる。傷だらけの躰の芯から、包帯が外れていく。傷が癒やされていく。

「……おいしいです」
「そう言っていただけてよかった。光栄です」

私は紅茶に浮かぶ彼のぬくもりを、しかと噛み締めるのだった。


2021/02/21

- ナノ -