短編

潜性のセレステ


甘やかされて悪い気はしないものの拒否権が剥奪されていることは遺憾である。

「喜んでもらえました?」
「す、すごく」

バーボンが秘密裏に予約していたホテルはプライベートプールとテラス付きのヴィラタイプ。夜間のいまはプールサイドが鮮やかにライトアップされており、瑠璃色の水面がステンドグラスのように明かりを乱反射している。風が吹く都度、揺れ動く水に合わせて、反射光も木漏れ日のように絶えず形を変え続ける。この光の揺れる中で泳げるなんて夢想のようだ。
開放的な造形になっているリビングルームからは、そんな幻想的なまばゆさを称えるプールサイドとテラスを一望できる。
ハネムーナーでもないのにこんな壮麗なホテルに泊まって怒られやしないだろうか。

「僕からのプレゼントです。さすがに本物のナイトプールのような場所は難しいですけど……。プライベートプールならカメラへの写り込みの心配もする必要ありませんしね」

セルフィーに勤しむ女の子たちが跋扈するナイトプールでは、いつ誰のカメラに像を写してしまうとも限らない。私たちにとって都合が悪い賑やかさを切り捨てて、静かな夜と甘ったるい時間だけを抽出して、砂糖で煮詰めた大人の贅沢。
甘やかな顔つきのバーボンは洒落たサプライズも様になる。

「でも私水着ないよ」
「ご心配無く。僕が用意してきたので」

お決まりの如く退路はない。
今日もバーボンは、喫茶店で安売りしているあの人柄のいい笑顔を刻んでいるけれど、逃げ道はちゃっかりと塞いでいるのだ。紳士は人に遠慮をさせずにもてなすけれど、この人は選択肢をじわじわとへし折っていって自分に都合のいいように事を運ぶ。

「着替えはバスルームでどうぞ」

水着が入っていると思わしき紙袋を私に押し付けると、そのまま浴室まで通された。

「着替えが済んだらプールサイドまで来てくださいね。待っていますから」
「えっ、あっ……」

有無を言わせず、寂しく閉まる浴室のドア。こんな関係性でも、異性の着替えを覗かないことを徹底してくれるとは律儀な人だ。
彼が購入したのであろう水着は、私の好みに寄せていて、抜け目ないと思った。


彼の眼前に裸足を晒すことになるなら、ペディキュアの一つでも塗っておくべきだったと足の指を縮こませる。
なんの色も載せていない爪先を床に乗せて、水着姿でプールサイドへ出て行くとサーフパンツにラッシュガードを羽織ったバーボンが――準備運動をしていた。悪の組織の情報屋が糞真面目に準備体操なんてしないでくださいよ。

「やっぱりその水着、あなたによく似合っています。気に入っていただけました?」
「うん! ありがとう。これかわいいね」
「それはよかった。それを選んで正解でしたね。まぁ、僕としてはもう少し露出を抑えたものが好ましいんですが……。それだと機能性も乏しいですし」
「わ、私はかわいさ重視の方が嬉しいかな!!」

恋人に競泳水着プレゼントされるのはちょっと……。
露出といえば。彼の肌を前にして、私はちょっとだけ心臓をくすぐられている思いだ。
ラッシュガードで露出度は抑えられているとはいえ、袖を通しているだけでファスナーは閉められていない。彼の小麦色の肌も相まって、健やかさが殊更に際立つ。覗く胸部や腹部は怯むくらい逞しく割れている。
甘いマスクに反して肉体は雄々しいとくれば、混み合っているナイトプールなんて行った夜には女性客が蜂の如く群がっていたに違いない。

「どうかしましたか? ぼーっとして。そうだ、あなたも準備運動はした方がいいですよ」
「私はそんなに泳ぐつもりないから……」
「勿体無いです。あぁ、もし泳げないなら僕がお教えしますよ。こう見えて得意なので」

学生時代に水泳のジュニア大会で全国に行ったとか言わないですよね、降谷さん。
言い兼ねないから恐ろしい。
彼の指導力の高さも知っているけれど、こんな優雅な大人の遊び場を水泳教室に変える方が勿体無い。どうにか躱せないだろうかと頭を捻って算盤を弾く。

「私はバーボンが泳いでるとこ見たいな」
「ふふ。ならご期待に応えられるような泳ぎを披露しなければいけませんね」

そして私は彼の凄まじい泳力に息を呑むことになる。彼のことだからどうせ水泳も上手く熟すのだろうと予想を立てていたけれど、そんな「どうせ」という気持ちを差し引いても、見惚れてしまう泳ぎだった。
無駄のないフォームはさながら教材の手本。魚も驚くくらいに、悠々と、伸び伸びと、自由に水中を行き来する彼の影。
飛び散る飛沫も彼が纏うと真珠のアクセサリのようだ。
浮上する潜水艦のように、ザブン、と顔を上げたバーボン。シャンパンブロンドの髪や逞しい背筋を大粒の雫が這って、揺らぐ水面に落ち、母体であるプールと一体化する。細やかな水滴は彼の上肢に貼りついて離れず、小麦色の肌に煌めきを添えていた。
そんな水も滴るいい男が、瞳の先に私を捉えて微笑んだ。

「まだ、自分は泳ぐつもりない、とかつまらないことを言うつもりでいます?」
「えっ、いや……」
「前言撤回。あなたにも濡れてもらうことにしましょう。これじゃあまるで僕だけはしゃいでいるみたいで、癪じゃないですか」

伸びてくる手によって、強引にプールに引き摺り込まれるのか、と覚悟のつもりで目を固く瞑った。だというのに一向に水音も浮遊感も息苦しさもやってこない。ようやくふくらはぎに水の感触が僅かにあったが、「心臓から離れた場所から少しずつ水をかけて、慣らしていきましょうね」というバーボンの能天気な声で気が抜けた。

「……健康オタク。紳士」
「あなたは悪口のセンスにはいまひとつ欠けますよね。まぁ、かわいらしいとは思いますが」
「バーボンは煽りが多彩だよね」
「お褒めに預かり光栄です」

褒めてない。怖いよ、煽っている時のバーボン。じっとりと見つめる。
私は自分の手でプールの水を掬って腿や腕を濡らした。学生時代以来の、あの久しい塩素の香りが水と共に自分の四肢にまとわりついていく。

「さぁ、もう入っていいですよ」

水中に自身の体を腹上ほどまで沈めると、バーボンの腕が支えるつもりなのか腰を抱く。危なくもなんともないとは思うけれど、この場はおとなしく抱かれておくに限る。
経験者として語らせてもらうと、大抵、争えば争うほど砂地獄のように絡め取られていくのだ。

「足、底についてますよね?」
「ついてるけど抱っこしてほしい」
「普段からそれくらいのかわいげを見せて頂けません? 僕なら浮力に頼らなくても、姫抱きでも俵抱きでもしてあげられますから」

腰にぐるりと回る手に抱き上げてもらうと、踵が底から遊離して、よりプールの浮遊感を堪能できる。
自分の目線よりも下に位置している彼の額を見下ろして、なんだか偉くなった気分だと、濡れてしなったブロンドの前髪を指で払う。

「浮き輪あったら引っ張ってもらったのにな」
「僕に引かせる気ですか? 嫌ですよ犬ぞりの犬の役なんて」
「断るなら違う犬連れてきてね」
「困ったお嬢様だな」

頬の輪郭を半分ほど隠す、癖のある金色の鬢を流すようにして耳の裏にかければ、露わになった耳殻をなぞりたい衝動に駆られる。片耳だけ。たったそれだけの露出にも胸が高鳴ってしまうのはどういうことだろう。
愉悦を湛えたブルーの瞳で私を仰ぐバーボンは、己の躰を私に好きにさせながら私の様子を観察している。
この男がしていることは毛糸玉とじゃれる仔猫を遠目に愛でているようなもので、折を見て覆し、支配体制に入るつもりなのだ。けれど私もいつもとうとつに毛糸玉を取り上げられる仔猫に甘んじているつもりはない。

「あっ、ピアス落としちゃった」
「……。僕を潜らせて、何を仕掛けるおつもりで?」

そんなものしていませんでしたよね? 犯人を攻め落とすときのあの憎たらしい笑顔を浮かべ、バーボンは挑発的に私を射った。ぐりぐりと私の耳朶を強く揉みしだく彼の指。悔し紛れに歯噛みして。
引き締まったその胸板をめいっぱいの力で押せば、後ろに倒れた彼の背中が、水面を割り砕く。抱き合っていた男を孤独に突き落とすのではなく――二人で沈む。
あのバーボンが女の一押しで水に沈むわけがない。考えるまでもない、敢えて私に沈められたのだろう。
ベルベットのような深いラピスラズリ色の水の中に、月と星と照明の光が雨のように降り注ぐ。光の雨に透いたシャンパンブロンドが一等輝いて見えた。
外界の音という音が全て遠のいた瑠璃の空間で、群れを成して舞いあがる泡の残響を鼓膜に浴びる。果たして閑散としているのか騒がしいのか。
――水中で行うキスは息苦しくて叶わない。重なっている唇の角度が変わる度、隙間からは白い泡があふれて登っていく。
ぬるい水と人の肌の熱にあたっていると、羊水に浸かりながら恋に耽るどうしようもない人間になった気分だ。
眠くて苦しい。指の関節を伸ばすのも曲げるのも億劫だ。こんなことするものじゃない。
たゆたうブロンドが美しいばかりで何の利もない。
溺れるならシーツの海にしておくべきだと文明の理に甘やかされた現代脳で思った。

浮上する。鯨みたいに二人で白い泡をたくさん作って。ザブンッという波の生まれる音を間近で聴く。波を感じる。
頭皮が空気に触れる。髪の毛先を雫が降りていく。
瑠璃の水より少しだけ淡い色に光る、彼の双眸とかちあった。逸らすか、否か、少しだけ迷う。けっきょく、視線同士をきつく結んだ。

「……ごめんね?」

一生許さないとか何とか、憎まれ口の代名詞の男からはそんな言葉が返ってくると思っていた。

「いいえ?」

あれれ。

「僕は僕を困らせるあなたが堪らなく――」

科白の後半は彼の口の中に置き去りだ。バーボンはザブザブと水を切ってこちらに歩み寄り、私の口にキスで蓋をした。
時に挑発的に人を煽り、時に睦言を囁き、先程は私を甘言で誘惑したバーボンの、その唇が、今は私の唇とぴたりと合わせられて、あまつさえ口腔を丁寧に嬲っている。
「堪らなく」の続きはなんだったのだろうと考えた矢先、考えを巡らせていたはずの頭が蕩けて落ちていた。

「ふ……あ……、さっき、なんて言ったの?」
「悪戯っ子は目が離せないから退屈しない、ですかね」
「そんなんじゃなかった〜もっと優しいニュアンスだった〜」
「仕事は読み通りに進んでくれた方がありがたいですが、あなたとのことまで予定調和である必要はないので」
「んっ……」

またしても押しつけられた唇。招いてもいない舌が押し入ってくるのを許す。私も満更でもなかったからだ。
悪趣味なバーボンの手に首を固定され、普段外気には晒さない場所を熱い舌に荒らされる。舌先に歯を立てられて嗚咽に似た声が喉の奥で弾けた。
火を点けられてしまった今の身体は、バーボンの首筋から優雅な香水ではなく、市民プールのあの庶民のにおいが漂ってくることをも興奮の薪にできてしまう。
唇が離れると、栓を抜かれた酒瓶のようにとくとくと言葉が漏れた。

「バーボン、塩素の匂いがする」
「お互い様ですよ」

なんて言うバーボンが吸いついた私の鎖骨からも、あの夏の庶民の匂いがしたはずだ。


2021/02/01

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