短編

シティ・トロル


グラスいっぱいの葡萄酒よりも贅沢だろう。チェックアウトの時間を気にせず、のびのびとベッドを堪能できるのも。神経質で、潔癖症で、秘密がアクセサリですと言わんばかりのこの男の領域に踏み込んでいる現状も。
起き上がるには気怠いけれどこれから眠るには向かないくらいに脳が覚醒している。それもこれもバーボンが私の躰をいいようにしたせいだ。
むすりと頬を膨らませながら彼の姿を探してぐるりと室内を見渡すと、彼はクローゼットの前で私の服をハンガーにかけているところだった。パフ、パフ、とブラウスをはたいて皺を伸ばし、ハンガーにブラウスを纏わせる背中に、母性にも似たものを見出す。
隠し事と皮肉の男なはずなのに、ホットミルクを飲んだみたいに胸が温かくなる。
そのとき、彼が皺を伸ばしていた私のスカートから小さな影が滑り落ちて、コト、と軽やかな落下音を奏でた。それは箱だった。片手に収まるほどの小さなサイズの。
あ、それ、私の。と言う間もなく、バーボンの手が――つい今しがたまで私同様裸だった彼の手に、手袋は嵌められていない――その箱を拾い上げた。

「煙草……? あなた、吸わないですよね?」

少々口から飛び出ていた中身と銘柄を睨んだ鋭い眼差しを、彼は今度は私へと差し向けてきた。

「つ、付き合いでちょっと。喫煙者同士だと親睦深まるし、仕事の話も喫煙室で進みがちだし」
「問題があるのはどう考えても、仕事の話を喫煙室でする上、情報の共有まで怠っている相手の方じゃないですか。なまえが健康を害してまで付き合う必要なんてありませんよ」
「こ、怖い顔しないで? 正論だけど……」

バーボンに尋問さながらに詰め掛けられて心が痩けそうだ。
ね? と上目遣いに首を傾げる――そんな、他でもないバーボン自身に教わったとびきり愛らしいお願いの仕方で、場を凌ごうと試みる。すると折れてくれたバーボンが「やれやれ」とかぶりをふった。勝利の光は私の元へ差したようだった。

「あなたに免じてお説教はこれくらいにしてあげます。でも喫煙は控えてもらいたいところですね。あなたの健康が心配なのはもちろんそうですが……僕がこの世で一番恨んでる男が、ヘビースモーカーなので」

“ヘビースモーカー”。口腔で復唱したそのキーワードから、脳裏に一人の男の影を思い浮かべた。理知的な振る舞いを崩さないバーボンがいっそ情熱的なまでに敵視する、あの男を。

「とにかくこれは没収です。金輪際吸うのはやめてください」

彼のベストのポケットに消えていく煙草のパッケージ。
儀式的に唇を尖らせて拗ねるけれど、それもファッション。愛着のない嗜好品をわざわざ奪い返す気なんて微塵も湧いてこない。

「あぁ、もちろん喫煙所に押しかけたりするのもだめですよ? 受動喫煙でも運が悪ければ肺を悪くしますからね。仕事の話は相応しい場でするように」
「はぁーい」

いいお返事をした私の唇にキスが降ってくる。まるで出来のいい生徒に花丸を贈るみたいで心の中がむず痒い。

――降谷さんって悪人の顔を作っていても健康第一だなぁ。
ワイングラスを片手に夜景を眺めているのが似合う顔立ちとキャラクター性なのに、人のコップに養命酒を注いでくるのがバーボンだ。
ちなみに起き抜けはモーニングティーではなく白湯を淹れてくれる。
降谷さん、元の人格出過ぎだよ。

「さっきのバーボン余裕なかったね。そのヘビースモーカーの人のせい? やきもち?」
「……随分嬉しそうですね。お気楽そうだ」
「知らない女の香水つけて帰ってきたバーボンに私が苛々するのと一緒で、バーボンも、」
「えぇ、そうですよ。まるであなたが、香りが移るほどの長い時間、あの男と過ごしていたみたいで、苛立つんです」
「えへへ。でも、あの人……確か、ラ――」

ライ、と言い終えるより前に、私の口腔に突っ込まれていた褐色の指先が舌を引っ掴み、きりきりとつまみあげる。

「い、いひゃっ」
「ひっこ抜きますよ? そのコードネームを呼ぼうものなら、その瞬間に」

眼前、甘ったるい笑顔の閻魔。
人を煽るなら煽られる覚悟も決めておいて欲しいものだ。まったくバーボンは血の気の多いことときたら。冷静沈着と大胆不敵が売りの秘密めいた男ではなかったのか。
あーあ、怒らせちゃったなぁ。


2021/01/27

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