短編

パルファムシェルター


薄紅色の花びらが排水溝の妨げになり、水流を澱ませている。
あれよあれよと連れ込まれた浴室。此処でも彼の花は咲き誇る。
私の腕の中が君の居場所さ! とばかりにマーリンの膝の間に座すことを促されて、企みの見事実ったような満面の笑みである彼に背後からゆるりと抱き竦められて――きっと逆上せるまで逃げ道は与えられないのだ、と悟った。

「すっかり花風呂になってる」
「華やかでいいだろう?」
「ま、まぁ……」

湯気の天蓋の向こうで朧げにたゆたう花筏。
けれど気が気じゃあ、ない。雫に濡れたマーリンの指が時折思い出したように首筋を這う。かかる吐息が耳朶を熱くして、声の残響もまたくすぐったく感じる。腕に閉じ込められている以上、私の鼓膜は甘んじて受け入れるだけだけれど。
はら、とバレッタで纏めていたはずの髪が一房ほど肩に落ちて、不意のことに心臓に痺れが走った。

薔薇のバスソルトとは異なる純朴な香りは、淡くバスルームを染めていた。薄紅色の花を一輪だけ掬い上げてみると、すぐに綻んで散ってしまう。しかしもったいないと嘆く間も無く、すぐに新たな花が水面に顔をのぞかせていた。
マーリンが佇むだけで咲くこの花の名前は知らないけれど、こうして水面に揺れている様は睡蓮みたいだ。

「おや、そっちの方がお好みかい?」

マーリンはとんがり耳で私のぼやきを拾い上げていたらしく、刹那の間に湯舟に浮かんでいた花を総て睡蓮につくり変えてしまう。わぁ、と漏れた驚きは私のものだ。湯の水面に波紋の一つも呼ぶことなく、ひとまたたきのあいだに魔術をかけてしまったのだから。

「全部睡蓮になってる……!」
「これくらい造作もないさ。いつでも君が好きな花を見せてあげよう。でも、そんなに目を丸くすることかい? シミュレーターで見慣れているだろう、君は?」
「戦闘中とは違って見えるよ。だっていつもはこんなに平和じゃないから」
「言われてみれば。極地礼装を纏う君には花を愛でる余裕は、確かにないものだったね」

そう。だから、これは紛れもなく綺麗な魔術だ。

「そういえばね、花臭い」
「突然手のひら返しの暴言とは酷いじゃないか、マイロード!」
「……って言われたんだよね。マーリンをお気に入りにしてるって絶対ばれてる……」
「ふぅん? なるほどね、恋人の香水の香りが移ってしまうようなものかな」

ぶくぶく、と。不貞腐れたまま湯水に顎を沈めていく私とは裏腹に彼はご機嫌である。
何か良からぬことを考えているのかな、なんて思いつつ。浴槽の中で銀色の帯さながらに浮遊している彼の髪を一束とり、手持無沙汰に編んでみる。

「言葉で警告しなくとも、誰もがこうして僕が君を抱きしめている事実を悟る。悟らざるを得ない。そう考えると花の香りも背徳的なものに思えてくるね」
「えっ、マーリンって別に私に執着してないよね。仄めかすメリットはなくない?」
「君は雰囲気を壊すことにかけては天才だな! せっかく二人きりのお風呂だというのに甘い言葉の一つも吐かないなんてのはつまらないだろう。そう、つまらないとも。かわいらしい赤面のひとつもしてくれないとは」
「だって心にも無いことを言われても」

正しくは、“心無いこと”、だろうけれど。
どれだけ丁寧にシュガーコートにくるまれた言葉であっても、誰も信じることができないのではなかろうか。
なぜって、砂粒程の情さえもかけてはくれない――どこにも、砂の一粒ほどさえも、感情を持ちえない彼なのだ。喜々としている姿も、しょんぼりと肩を落とす姿も、全て誰かの真似事をしているに過ぎない彼なのだ。
人間の傍らで人間らしさを学ぶ、否、インストールと実行を無機質に繰り返し続ける彼なのだ。
それがマーリンのさがとは知りながらも、唾棄したくなる。

「――う、わっ!?」脾腹をつつつとなぞりあげられた。
「ふふ。いい驚きっぷりだ」
「変な触り方はしないでよ〜……。変態」
「では逆に変ではない触り方とはなんだい?」
「えっ……。えー?」

以前私を腕に抱いたままのマーリン。きっと微笑みが絶えず刻まれているのだろうその顔を仰ぎ見る――上から私の瞳を覗き込んでいた彼は、本当にご満悦のにこにこえがおだ――。
一等深く浴槽に沈む。ぶくぶく、と不服に尖らせた唇から泡を立ててみる。
へんではない、さわりかた。とは。
前髪から滴る雫がみなもに吸い寄せられて、微かな波紋を織りなした。

「じゃあ、こう、とか」マーリンの濡れた鎖骨にぴとりと額を寄せて、あずけてみる。寄り添うというよりは甘えたがりの雛鳥みたいに温もりに身を委ねるだけだ。

「……かわいらしく甘えられてしまっては。辿々しく愛撫してこようものなら取って食べてしまうつもりだったけれど、これは僕も清らかに応じなくてはならなくなってしまったな――」

言葉と共に私の顳にキスを落としたマーリン。私の肩を抱く手つきは、色を好む夢魔にしてはおだやかで、このあと浴室を出ても淫らな真似はせず、私の体を優しくバスタオルで包むことくらいはしてくれそうだ。


2020/04/28

- ナノ -