短編

涙ぐむシンク、二人の呪文


『夜何食いたい?』なんてメッセージが吹き出しにくるまれて私の端末に投げ込まれていたものだから、気まぐれな寄り道の計画を頭から追いやって私は自宅に飛んで帰った。電車を急かし、停留所で止まる律儀なバスに苛立って。

「零君、おかえりなさい!」
「ははっ、逆だろ。――ただいま。おかえり」

玄関を開錠するや否やの開口一番。逆じゃないです。私は鞄と外套をコート掛けに任せ、抱擁をねだる。逞しい懐に鼻先を埋めながら「ただいま」とたゆんだ声で応じる。
利き手ではないとはいえ、飾られた指で料理はやり難いだろうに零君の左手薬指には淡いシルバーが煌めていた。背を撫でられた折に神経を伝う、骨とはまた違う金属由来の硬さを瞑目して噛み締める。
詳しい事までは訊かされてはいないけれど、夫は現在中性的で挑発的で仄かにエロティックな人物像に化けているらしい。そんな仕事中にまで特定の相手の存在を知らしめるアクセサリを身に着けているわけにもいかないから、玄関をくぐると同時にころりとテーブルに置き去りにされてしまう寂しげな銀色なのだけど。外される――別人格を纏う、或いは本名を脱ぎ捨てる――瞬間を目にすることこそあれど、嵌めるシーンに立ち会ったことは未だない。気づく間もなく当たり前に私の前では降谷零なのだ。当たり前のように。

「帰ったはいいんだが食ってまたすぐ出るんだ。ごめんな」
「ううん。顔見れて嬉しかった」

鬢に差し込まれて、くしゃり、と朝整えた毛流れを崩す小麦色の大きな手。そこに自分の手をまた重ねて温度をわけて貰い、猫のように頬擦りをしてみる。どうせすぐに手放す体温と存在感なのに。距離を寄せられれば結局キスを受け入れて、愛しさと寂しさの高低差を自ら広げてしまって、短期的な利に惑わされがちで、単細胞。
不意に見遣ったシンクには菜箸の一本も無く、おまけに洗浄済み、雫の一滴に至るまで徹底的に拭き取られて、磨かれて輝いている。どこにも落ち度が見つからないパーフェクトなひとだけど、たまには私に尻拭いさせてくれるような、抜けているところがあってもいいくらいなのに。

「お皿くらい私が洗っておくよ」
「料理と菓子作りは後片付けまでだろ」

遠足の鉄則を模して覗かせる生真面目さ。
でも美しさや清潔さや手間だけでは測れないものは幾つだってあるのだ。床から塵を取り除かれて、杓子も鍋も使う前より綺麗な状態で仕舞われてしまうと、再び出て行ってしまった時、本当にいっときでも昼に帰還してくれたのかさえ、事実さえ、記憶さえ、揺らぎそうになる。そんな風に煙に巻くような去り方は見たくない、知りたくない。されたく、ない。
何も食器を使いっぱなしで放置するだらしなさだけを望んでいるわけではなくて。
零君の笑顔は信じられても、瞼裏に焼き付いた笑顔の記憶の持ち主は私に他ならず、信じきれない。椅子やシーツにせめてものぬくもりを置いて行って欲しい。
いや、そうではなくて。
部屋を無機質にしないで――。

大人になれば自然と描けるようになると思っていた平和な食卓図は想像もしなかったけれど、自然と出来上がる代物ではなければ、ほっぽっておいたらすぐに腐敗してしまうほど、繊細だ。お仕事に断じられ、すれ違っては仲違い。日常は時折しか現れない。
何も思い出と現在をひっくるめて額縁に閉じ込めたいとは望んでいない。ただ二人のリビングをそっくりそのままソファに転がして、手の届く永遠ならと不意に思うのだ。
あったかいおうちはなぜこんなにも刹那的なのだろう。
おいしいね、零君のご飯が一番好きだよ、と伝えられたから今日は幸せだ。
週末からすでに月曜日の朝日に怯えていたのは学生時代で、今は数日後か数時間後に紡ぐ“いってらっしゃい”の付き纏う“おかえりなさい”に睫毛を伏せている。


2018/06/07

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