短編

猫脊のペガサス


無地のキャンパスのような快晴に見守られる街の中、ひとりだけ男性用の細身の蝙蝠傘を携えて歩む私は相当な心配性として道行く人々に認識されていたことだろう。これから向かう喫茶店で手放す所存でいるので、午後には無駄に心配性な人物というレッテルも綺麗さっぱり脱ぎ捨てている予定だけれども。この傘もきっと元の持ち主の元へ返還されるのを心待ちにしているに違いない。
突然の通り雨に途方に暮れていた私に「今日は送れそうもないから、せめて」と差し出してくださった太宰さんは、貸し与えてくださったときとは異なる喫茶店の窓辺のソファ席でひとり頬杖をして窓越しに虚空を眺めていらっしゃった。
聞けば先日の店は太宰さんの職場と同じ建物に入った喫茶店なのだそうだが、そんなところを休日にまで落ちあう場に選んでしまってはやはり気が滅入るというものらしい。知る限りそこまでの仕事の鬼、勤労の宗徒、という方でもないはずだし、そうならあまり気に留める事もないのではなかろうか、というのは私の意見である。執着をお持ちにならない方だとは思っていたけれど、同時に拘束され続けるのも好まない風のような性分だというのなら仕方がない。
「『うずまき』、せっかくいいお店ですのに。勿体ない」
「じゃあ平日にでも付き合っておくれよ。お昼にご飯となまえちゃんの笑顔を注入出来たら、午後もしっかりと働く糧になりそうだもの」
「私どれだけお昼休み削る事になるでしょうか……」
「あぁ……職場が遠いか。なまえちゃん、もう私のために色々とすり減らしているくれているものね。さすがにこれ以上無理は言えないかな」
今のような気遣うお言葉はにこやかに仰ったり、朗らかな感情の表現を憂う双眸でされたり、太宰さんの中には時折謎めいたちぐはぐさが目立つ。
「さて」という太宰さんの切り口は空気の香りを切り替えるようだったが、実際には和やかさがより一層濃ゆめられるだけだった。
「これから暇かい? よかったらもう少し付き合って欲しいのだけど……。どう?」
するり、と甘えるように私の手の甲を撫でてきた木乃伊の手に、喜んで、と応じる。気分はいつも舞踏会で踊り相手を申し込まれる侯爵家の娘。
帰還してしまうのが勿体ないというよりは帰路に就かせたくない、というような。ご自身が、では無くて、私を、という主語の方がしっくりくるような。それをまた喜んでもいるのだが。
なにせからっぽの週末は満たされるために残して置いたのだから。

***

キネマトグラフ、レコードショップ、その他いろいろなお店を惜しむように点々と歩いて、最後に……太宰さんのご自宅でそのまんま、だったのだっけ、昨日って。
宙を漂っていた意識の数々が一か所に集い、自我が形成される。
裸の肩にはちくちくと刺激的な他所のお家のタオルケットの逆立った繊維は、余所者の私を威嚇しているのか。
意識が浮上した刹那の、再度の瞑目を阻むような悪意を錯覚せずにはいられないタイミングで予め携帯端末に命じておいた目覚ましが響く。指で殴りつけるが如きタップで融通が利かないアラームの鎮静化を図り、アプリケーションは指一本で強気に黙らせられても勤め先を相手に取れば中々そうはいかないので、仕方が無しに背骨を敷布団から引き剥がそうと上肢を浮かせたところで、またひとつ、私の決意を揺さぶりにかかるものが。
「帰っちゃ、嫌」
傍らで覚醒したらしい太宰さんが細い腕で弱々しい羽交い絞めの抱擁を仕掛けてきたのだ。
それにしても昨夜も同じ台詞を囁かれたような、デジャヴを耳殻に呼び起されてしまったけれど、回想するあれはもっと甘やかな退路の絶ち方で、自らを焼きつけようとせんばかりの。それから一変して様子伺い気味の及び腰になるのだから不思議な方だ。ご機嫌麗しい朝と夜に引き返したがる朝を私の前でほぼ交互に口返して、大層お忙しい。
「……ごめんなさい。お仕事ですから」と起床の御許しを乞うと、物分かりよく解放してくださる背後の恋人があまりにしおらしくて。
後日の職場中から集まる冷たい視線と肩身の狭さ、それらを山羊の頭蓋骨代わりの生贄として魔法にして悪魔の有休を召喚してしまいたい衝動にクロロホルムを嗅がせ、私は這い出た。素肌に厳しい外気から、身を抱くようにして僅かでも逃れようとしながら。
夜闇の中で剥ぎ棄てられたブラウスやスカートは寂しく冷えて畳の上にくたばっていた。まだ六時を回ってすぐであるし、気力と根性を全力で燃やせば自宅で着替えて固形食をかじる時間程度は残されているだろう。このまま夜空のオリオンみたいに追い回され続ける人生なのだろうか、と月曜日を蠍に見立てて失望しつつ、袖を通していった。特に何も考えずにアクセサリー類も余すことなく身に着ける。
それでは失礼致します、に加え、大好きです、の意をその倍以上にぎゅうぎゅうに込めて、ところどころが跳ねた太宰さんの前髪に唇を落とす。今だ枕に頭を置いている彼に屈みながらそうしてみると、眠り姫に捧げるような格好になってしまった。
刹那的な触れ合いとラヴシーンのつもりだったのに、「もうちょっと……」との延長のお願いがあっては仕方があるまい。太宰さんに両方の頬を冷たい掌で包まれ、首を曲げるように促されるまま今度は唇と触れ合う。頬に添えられていた手が鬢をかき上げてイミテイションジュエルに飾られた耳を晒させて、そこから煌めくささやかな飾りを奪ってしまった。「あ……」と間の抜けた驚き方をする私には勿体ないほど美しい、ふふ、と唇に微笑を乗せた太宰さんは。
「私じゃあない。なまえちゃんがうっかり忘れていってしまったのさ」
うっかり屋さんだね、と愚かでつぶらなおめめの愛らしい駄犬でも愛でるかのように。
ご丁寧に左耳から盗み取って、女色を示す風にはさせないようにするあたり、寝起きとは信じられない抜け目の無さが窺い知れる。
「大事な耳飾りを忘れてしまったのなら、また来てくれるでしょう?」
本当はプラスチック製のイミテイションジュエルの、安物なのですけれど。一ヶ月持てばいいやという気持ちで購入した、お気に入りでもなんでもない代物だから存在さえ忘却してしまったところで微塵も気にならないのですけれど。
「いつ忘れていたと教えてくれますか?」
「じゃあ今日の夜にでも。週末に返すよ。昨日とは逆に、私からね」
彼もまた、たまに彼に訪れる、お約束ごとを結ぶのが下手な時期でしたのでしょう。


2018/04/19

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