短編

スノウホワイトは華を持たせましたか


私のソファに総身を沈ませ瞳を閉ざしておいでの麗人は、下睫毛の下に大きな隈を絨毯として敷いていらっしゃり。お可哀想に、と安らがない夜を想って私は哀れんだ。
私は太宰さんにただ健やかでいて欲しいだけだというのに、その彼ときたら食事は抜いてしまうし、日頃の不健康さが祟ってかこんな風に眠りの神のモルフェウスからは見放されてしまうし。今世に何の未練も持たない死ぬ死ぬ詐欺師に文化的な人間の生活を送らせるのは中々どうして難しい。
金色の午後はぬくもりの如き穏やかな閑散が揺蕩っており、出掛けましょうかと静けさに切り込みを入れるのはやはり野暮で、嗚呼頑愚に提案など挙手しないでよかったと、空気を吸いつつきちんと読むなんて二刀流をものにしつつある自分を自賛する。
塵も無ければ輝きも無いほどほどに美しくある床に膝を折って、私が見守る事にした端整なお顔は華やかな鼻先に影を作っておいでで。肌の調子こそ荒いでいて気の毒だけれど、見事な造形である事に変わりはない。
嫉妬を呼ぶほど形の良い唇は貝殻みたいに閉じ合わされており、昼のうちに饒舌を振るい切るからなのか寝言などは一切無い。紅を引いたらお怒りになるだろうか。白く細く長い御御足にもハイヒールを踏み鳴らしてはくださらないかしらと夢を見たりはするけれど。笑みや所作こそ淑女のようでも、柔和さや欲望は男性そのものだからやんわりと拒否して逃げられてしまいそうだ。
異性らしさを象徴する喉骨を、色めいたものを盗み見るように横目で見遣り、視線をお顔へと帰還させた。
呼吸器官に迷い込んだ河の水を放つために働いたり、通りすがりの美女を引き止めたり、回る饒舌で同僚を惑わせたり悶絶させたり。咳やら甘言やら罪やらを絶え間なく忙しなく吐き出し続けている喉も眠れば閉じ切られ、静やかで。くつくつと色香を含んで蠢いたりもする、包帯を押し上げる喉の突起も今はお休みしていらっしゃる。
喉仏はその昔、地球上で最初の人間たるアダムが唆されて口へ運んだ林檎の芯を詰まらせた、その名残。罪の、名残り。
男性の証として曝け出されている罪状に、花を手折ろうとするように私は指を差し出しかけた、刹那。太宰さんの痙攣する瞼と震える睫毛に、はたとして私は手を引っ込めた。
私の息が固形物でもなかろうに喉に詰まった。
林檎を詰まらせた男はアダム、女はイヴで間違い無いのか。はたまたまた別な物語の住人であったりするのかしら。あの御伽噺の、そう恨みと毒に穿たれた、雪の色白さと血の鮮やかさを閉じ込めた美貌のお姫様。
「ん……」と、脳と喉の神経が繋がり、起動の勢い余って漏れる太宰さんの声。
何をしようとしていたのだろう。危ない、いけない、指を這わせるところだった。つつぅ、と皮膚組織が触れるか触れないかの、ほとんど浮かせた距離感で、私達を抱き竦める風のような刺激を触覚に加えて。ビー玉でも埋め込んだかのような突起周辺にそろりと円を描いてみたり、そんなことを。もしあと一歩が踏み出されていたのなら、していたのではなかろうか。
太宰さんの深みのある双眸が薄く開かれても、暫し睫毛は伏せられて虚空を貫いていた。光の代わりに虚無感を湛えた角膜は、落とされる睫毛の影も相まり、光が届かない海底らしさがより増していて、絶対零度の忿怒を錯覚してしまう。
「なんだい、先程から」
「すみません……。起こしてしまいました、ね」
「ん……、ちょっと前にはもう、意識はあったよ。あんまり深くは眠れないから」
でも、猿寝入りでは、ないよ? と戯けた微笑みが浮かべられて、ようやっと顔色を伺う必要性が消失した。
猿寝入りをしたかもしれないのは、失楽園の恋人たちではなくて、枕元で語られるお姫様だ。実はあの姫君は――白雪は、毒林檎を嚥下してはいなかった。死した時点でも尚、林檎の欠片は喉元にとどまっていたのだ。ちょうど秘めた喉骨のあたりに。
白雪を眠らせた硝子の棺が木の根に躓いた衝撃とやらで揺れ、その拍子にぽろりと喉に詰まっていた毒林檎のかけらが零れ落ち、息を吹き返したという話は、ほんの一説に過ぎやしないが、だがしかし。真実と仮定すればその場合王子様は覚醒を手伝ったに過ぎず、ともすれば幸運の訪れを予期していた白雪姫が狸寝入りをしていたという可能性すら浮上するわけで。これは、事件だ。
「猿寝入りでは、ないけれど……」
今にも詩を詠い出しそうなテノールヴォイスは、ご本人が人の脳味噌を見透かしていらせられそうなので引き継ぐ形でスノウホワイトを語っているようにも感じ兼ねないけれど、現実の文脈から御自身のことだと察する。
「それとも寝たふりをしていたら、なまえちゃんに華を持たせてあげられたかな。私が君のキスで目覚めたっていう誇りみたいなもの、与えられたかな」
王子様みたいに。自分自身が姫君を目覚めさせたのだという、自信に酷似した仮初めの華々しさ。思惑さえ知らなければ虚しさもないのだろうけれど、聞いてしまってはもう丁重にお断りしなければならない。そもそも配役が逆であるし。
「なんて、ね」
太宰さんが脚の格好を崩されたものだからてっきり起き上がるのかと思ったけれど、ソファへの沈み方を整えただけで。その長身でソファに寝転ぶのは心地悪いだろうに態々仰向けの状態になったのも、そりゃあそうだ。手段は選ばない方だから。
「いまいち頭が晴れないや。ねぇ、ちゃんと起こしてくれない?」
私の我儘なお姫様は美青年である。
手法、手段、お約束。お昼寝から解放されたがっている太宰さんへ、特別なアフタヌーンコールを差し上げる。


2018/04/16

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