短編

キネマトグラフィカ・リトル・オードリー


映画館内を染むポップコーンの甘ったるい香りに後ろ髪を引かれる心地であったけれど、果たして私はそこまでの映画好きだっただろうかと顎を撫でつける。なまえちゃん一人だけなら自宅に引き込んでしまえば明日の朝まで睦言も語り合えるわけで、寂しがる必要性も存在しない。彼女のブラウスの襟を乱す瞬間を脳裏に投影すると、スクリーンからもポップコーンの匂いからも惜しさや関心の波は引いて逃げてしまって、なるほど、これでは色魔呼ばわりも仕方がない。
「偶のキネマもいいものだね」
「キネマ?」
「キネマトグラフ――シネマのことさ。“死ねマ”では不吉だろう。私は嬉しいけれど」
「素敵ですね。……って太宰さん中盤爆睡していらっしゃいませんでしたか」
「物語なんて大抵ラストシーンが全てだよ。恋物語やミステリなんて躊躇だろう」
「過程や演出を楽しむのがエンターテイメントというものでは」
「ならば私は相当に向いていないようだね。聞いておくれよ、この前もプロローグで寝こけてしまって起きてみたらエピローグで、異星人が来て帰って行ったことしかわからなかったんだ」
「もっと頑張りましょう」
「通信簿みたいなこと言わないで欲しいな。それに私にとってのヒロインはなまえちゃんだけだもの。隣の愛らしいリトル・オードリーで十分さ」
「最近ちょっと気障さが雑です。口説いてくださった頃みたいに本気で挑んでください」
「ちぇっ、ばれたか」
「そういえば昔は同じスクリーンで同じ映画を一日中ぶっ続けで流してくれていたんですよね?」
「そう。頭痛さえ堪えれば見逃してもおとなしく座して待っていればまたすぐに次の上映があったのだよ。あの頃は良かったなぁ」
過去を慈しむのは死ねなかった余生の嗜みに、と考えていたけれどこればかりは、ね。と、作り慣れた微笑を表情として幾つも複製する。心底惜しまずにはいられない。私が温めておける体力も限りは近しいもので、体力の底も浅い場所に位置しているが、反して若い肉体はあまり痛まない。上映時間の半分を起きてもう半分を眠って、次の上映の半分を眠りもう半分を鑑賞できれば、ほら、元が取れるではないか。
「でもそれっていつのことなのですか?」
「ん……、なまえちゃんは知らないか。私がうんと若い頃さ」
「今もお若いですよ」
「そうなのだけれど。じゃあ、幼い頃?」
「太宰さんにも少年時代なんてあったんですね……」
「当たり前だろう。私をなんだと思っているの。かの大神ゼウスでさえ親を持っているんだよ?」
それもそうなんですが、となまえちゃんは口籠る。ここまで戯けて笑って見せているというのに、そうか、私の振る舞いは道化の域を出ないのか。だからといって神かあやかしか精霊のように私を神聖視する瞳というのも珍しい。昔育てた子供も強い執着を寄せてはくるが、憧憬の念に留まったままで、というか大抵は猫か亡霊のように怪訝な視線を浴びるのに。
「なんでしょう……そんな風にみたいにぱっとゼウスとか仰いになられてしまうところ、ですとか。それこそ敦君も言った役者さんみたいで。そう、役者です。正直太宰さんが平素から舞台役者のような振る舞いだから、今日も私、あまりフィクションとしては楽しめませんでしたよ。太宰さんがちらついてしまって」
「そうかい。ではなまえちゃんのキネマライフのために当分は慎もうか。ついでに、勿論気障ったらしいお姫様扱いも」
「えっ……そうは申してないです……。それまで慎まなくったって……」
「やだもう、暴食。欲しがりなんだから。……嘘、嘘。そんなお顔はお止し。どうせなら赤面が愛らしかったよ。……じゃなかった、そんな顔されてしまったら私も悲しいもの。本当だよ。神様にだって誓える。君は素直に愛を受け取ってくれるから私も嬉しいのだよ。それとは別にちょっと加虐性が目覚めかけるだけで……」
「虐めてくるのは嫌いです……。饒舌だから刺さりますし」
「賛美、光栄だよ」
「そこじゃなくて!」
「うふふ、ごめんったら。私、今日はなまえちゃんを引き止める気でいるのに。お願い、機嫌直してよ」
小さく柔らかい拳を解いて自身の指を絡みつかせる。クレーンが荷を下ろすように首を曲げ、拗ねた顔を覗き込む。仄かに染まる鼻先や柳眉はとうに不機嫌でも何でもなく、寧ろ照れの滲み始めたおしゃまさんのもの。
お姫様扱いそれぐらい、何度だってしてあげるから」

だから今日はその路線を使う必要もないでしょう? 私と同じ帰路で十分じゃない?


2018/04/09

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