短編

薬指にコメットキック


※幼児化。

湯船の水面に中也さんの子供体躯を差し込んだところで、自分の薬指に煌めく銀色をつい今しがたまで忘れていたことに気づき、これはいかんと指から抜き取る。風呂場を出てすぐの洗面台にひとまずは置いて、不透明に光だけを漏らす硝子戸を閉めた。
指輪はあまりに肌に馴染むものだから、そのうち融解と接着を遂げて皮膚の一部にまでなってしまいそうで。外してみるとそこが空っぽになったように虚しく、久しい平常こそが異常のように感じられる。
「なんでいっつもそれ、お姉さん指につけてんだ?」
孔雀色をした小鳥の瞳にはふよんと疑問符が浮かんでいる。疑問符を昇華させてやるための返答を与える前に、「中也さ……中也君、熱くない?」と都合良く崩れない敬体を度胸の弾丸で撃ち抜き、精一杯の幼稚園児扱いをしつつ。自分また浴槽に身を浸す。
「あれはね、好きな人に貰ったの。結婚の約束に、って」
「けっこん?」
「ちょっと難しかったかな。好きな人とずっとに一緒にいる約束事のことよ。幸せになるためにすることなの」
「ふぅん。じゃあおれたちもう“結婚”してるな!」
「えぇっ、してないよ?」
「なんでだよー。おれなまえのこと好きだし、ずっといっしょにいただろ? あと、すごい幸せ」
そういうことじゃあないのよ、という真っ当な突っ撥ねは、薄く貼っただけの子供の皮膚には絶対零度に等しいだろう。私が仰いで慕う、中原中也さんが縮んだだけの眼前の中也君とて、現在は一介の幼子でしかない。現実の膜を用いての、子供の優しい包み方を学べなかった私は、そうだね程度しか舌で象れる言葉も無く。
「そう、だね。でも結婚は一人としかできないから。それにまだ君は結婚できる年齢じゃないの」
やんわりと、申し上げる。
孔雀の雄の雛の瞳から逃げるように考えるのは硝子の外の婚約指輪だ。銀の輪に、頂には翡翠の石飾り。言うなれば、常盤色に、常葉色。どちらも永久不変の象徴だけれど、それは意図して宿らせた願いだったのかしら。
「なまえが結婚すんの、どんなやつ?」
「私のお仕事の、偉い人。強くて乱暴で優しくて、帽子が似合って、あと、お酒と煙草と香水のいい匂いがするの」
ふぅん、と鼻を鳴らすおしゃまな納得の示し方は、ひょっとしてこの頃だったのだろうか。彼はあまりご自分の過去は語らないから、実は神様の子でした、ともすれば神様そのものでしたなんてこともありえそうではあるけれど。あの桁外れの強さを考えれば無きにしも非ずだ。
「そんなにいいやつ?」
「うん、とっても。……あぁそうだ、小柄なのを気にしていてね、そこが可愛らしい」


風呂を上がり、寝間着を着せてやると中也君はそそくさと寝室に向かってしまった。もう寝るのね、お昼寝の時はあんなに嫌がっていたのに、と不可思議に感じながら、風邪を召されないようにと毛布を肩が隠れるまでかけてあげる。その点について問うてみると、
「だってはやくでかくなりてーしっ」
とのことだった。微笑ましく思う私はつい論拠もなくおまけに未来永劫叶わない甘言を囁いてしまう。「ちゃんと眠ればきっと伸びるよ」と。途端に輝いた目に胸の罅がずきりとする。
「早く大人にもなれる?」
「中也君は大人になりたいの?」
「うん」
「そっか。どんな大人になるんだろうね」
「強くて優しい奴」
「わぁ、かっこいいね」
「酒飲めるようになるんだ。で、なまえとおんなじ仕事する! なまえより偉くなる! 絶対なまえよりでかくなる」
ごめんね、君は永遠に私と同等の目線の高さだよ。それが宿命なんだ……。
「ちっこいやつよりそっちの方がかっこいいだろ? ぜったい。おれのほうが!」
どうかその無垢な一言がいつかブーメランとして彼の後頭部を直撃しませんように……。
「でさ、なまえ」
「うん?」
「でかくなって、そしたらさ、なまえのことさみしくさせるやつなんかより断然おれのがいいだろ? だから、おれと結婚しようぜっ!」
――一息分を嚥下する。
ごくりと喉を鳴らして沈んでいく私のひと呼吸。

いいよ。君の、18年後になら。私達の、ではなくて。君を逆魔法少女みたいにしている呪詛が消え去り、また22歳に戻れた朝にでも。

おやすみのキスは約束の承諾も兼ねていた。

***

もぞ、と胸に抱いたテラコッタ頭の蠢きを知覚してはおりながらも、閉じきった瞼は朝日から逃れることを諦めてはいなかった。胸元に埋まった瞳がしぱしぱ瞬く気配を察知し、これはもう誤魔化しも不可能そうだと二度寝は諦める。
昨夜までは幼稚園児帽子ですっぽりと包んでしまえるほどのおつむだったというのに、呪詛はフェアリーゴッドマザーの施しのようにそれは消滅してしまって、私が眼下に抱いている旋毛も今ではもう成人のそれだ。あの大きな瞳は恋しいが、覚醒を遂げてからというもの視線の合わない三白眼もまた愛おしい。
おはようござ……、とまで紡ぎかけた私の唇を大人の人差し指がぴとりと戒める。
「寝坊させろ」
あくまでも自分は起きてなどいない、とそう仰っているのかしら。
こちらの背を抱き竦めてまで、ぐりぐり、と頭を押し付ける中也さんは夢に引き返そうとしていらっしゃるようなので、黙って見送る。やがて腕の中に気持ちのいい角度と場所を見つけ出すとそこに収まった。
こちらはすっかり目が冴えてしまっているのですけれど。瞼を閉ざせど眼球の膜に滲む光と外気。とても夢想に洒落込めるステイタスではない。
仕方が無しに中也さんの煉瓦色の襟足を指で絡め取ったりをして、瞬間を押し潰してゆく。
水中が如き静けさに、「そういやァ」ぽつり、落ちる音色。
「…………変な夢見たわ」
「……どのような?」
「子供になって手前に世話焼かれる夢。手前、結婚するってさ。相手は小柄で優しくて強い上司なんだとよ」
するり、と。毛布の真下、挑発的に私の手の甲を撫ぜる手は、薬指のシルバーを結ぶ第二関節付近を責める。
もぞ、と幾つもの布を擦り合わせて音を奏で、私を仰いだ中也さんは背骨を丸く曲げるように促しながら、私の顔を抱き寄せて唇を寄せてくる。
もう二度寝はよろしいのやもしれない。
「すぐに成長しちまう、移ろいやすい餓鬼よか俺の方がいいと思うがなぁ?」
大人になっても尚彼は幼げで愛らしい独占欲を垣間見せる。自分に秋空のような移り気はないと瞳で仰りながら、枕の高さまで這い上がって私と目線を等しくした。やはり彼、トキワの意をご存知の上でアクセサリの形状に閉じ込めたのではあるまいか。


2018/04/08

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