短編

非合法ワンダーランド


――ねぇ、母さん、見て頂戴。私、さっき子犬を拾ったの。煉瓦色の毛並みのチワワの子よ。小さくて、鬣みたいにさらりとした毛流れで、だけどよく見てみて、少し目つきが悪いようなの。
この子ね、街のショーウィンドウに反射した自分の姿と向き合って、妙に人間然とした驚愕の表情にも似たお顔をしていたの。私、なんだか可哀想に思えてしまって、放っておけなくて、つい拾ってきてしまって。
きっとこの子は飼い犬なのでしょうね。品種の愛らしさにそぐわないごつごつした首輪に、フォーマル風の小洒落た帽子までちょこんと乗せちゃって。飼い主さんがいるのかと思うと、殊更可哀想よ。ね、保護してあげてもいいでしょう?
……いいの? 嬉しい!
……え? 名前? 嗚呼、首輪に金色のプレートがぶら下げてある。しー、えいち、ゆー、はいふん、わい、えー……『chu-ya』 。ちゅや? それとも、ちゅうや、かしら? 嗚呼、裏側に漢字でも記してあるわ。中也、と書くみたい。なんだか詩人か歌人のような個性的な名前ね。
暫くの間、どうぞよろしくね、中也。


夕食後、砂粒を孕んだテラコッタの毛並みのままではいけないので、私は小型犬を風呂場に連れて行く。抱かれながら洗面所に入ったまでは子犬もおとなしかったというのに、私が上を脱ぎ捨てた途端にじったばったと暴れ出した。
そんなにお風呂が嫌い? なんてキャミソール姿で微笑ましく思いながら、風呂場の摩り硝子の戸を開けかけた、その時。ずん、と腕の中の小型犬が質量を増した。瞬間的に米袋以上にまで膨れ上がった小型犬に耐え兼ね、私は臀部を強かに床へ打ち付ける。眼下にある三角耳の犬の影は陽炎を挟んだように揺らめいて――刹那。
ともすればこちらが覆い被さられているようにも見える格好で、私に抱かれる青年がいた。
「はー……マジで九時までなのか……。糞、不便だな」
「え。どちら様? え、中也? 犬がどうして人間に……」
「あ、あぁ、悪りぃな、嬢さん。迷惑ついでだ、暫く黙っててくれな?」
黒い手袋に包まれた掌を口元に押し付けられ、私は必死にこくこくと頷いて白旗を振り乱す。
一体全体どういうことなの。
蛙に変えられる昔噺でもあるまいに!
そこへ、疑問符の滲んだ母の声が投じられる。
中也だった男の人は私を連れて、摩り硝子の隙間からバスルームに滑り込む。帽子を取って不透明な硝子に浮かぶ影から特徴を消し去り、更に私を抱いて二人分の影を重ね合わせる。
返事をしなかったことが災いして、母が洗面所の扉を開いてどうかしたのと問いかけてくる。
「な、なんでもないわ、母さん。大丈夫。ちょっと中也が暴れるから、びっくりしちゃって」
あまり変わらない目線の高さからの眼光に圧倒され、言外に脅迫されるがまま平静を偽る。幸い母はそのまま引き下がってくれたけれど、困った。すごく。どうしたらいいのだろう。
などと考えていると青年がシャワーヘッドを手に取り、蛇口を捻った。ざざ、とからっぽの湯船を濡らして行く人口雨は結構な水圧で、伴う水音のノイズの音量もまたボリューミィだ。
「さて、と……」
「浴びられるんですか?」
「んなわけあるか。聞かれちゃまずいからシャワー音で極力消してんだろうがよ。――いいか、小娘。俺の手にかかればこの家をアパートメントごと潰すぐらいは造作もねえが、犬拾っただけの優しげな女学生相手に俺もそこまでしたくは無ぇ。わかったら余計な事だけはしてくれるな」
ハスキーの吠え声のように低められた声色に背筋が凍えた。


夜を迎えると溶けてなくなる呪詛で、愛玩動物は色男の姿を取り戻す。呪詛や魔法の類いの、異能力という現象の地雷を踏み抜き、彼は昼間は小型犬、夜は人間を行き来するようになったそうだが、しかし本質的にはどちらの姿でも獣に変わりない。
それも仕方がない、何せ拾ったチワワは河川敷で置かれた段ボールから拾い上げてはいないのだし、当然存在しない段ボールには『噛みません、躾の行き届いたいい子です』とは記されてはいなかったわけだから。
夜間は自室の押入れに匿っている中原中也さんは、非常にリスキーに戸をそっと開いて私の布団に潜り込んでくる。夜這い染みた状況を両親に見つかるのを危惧し、掛け布団の隙間に招き入れてお姿を覆い隠してしまう以外に道は無いのだ。
それに気を良くして中也さんは唇やその中をぺろりと舐めたり、肩や喉を甘噛みしてくる。舐めるのは犬の習性にしても、噛んだりなんだり、躾のなっていない悪いひとだ。
一度許すと後はもうとことん堕落するだけで、ショーツの奥まで踏み込まれて、それこそお互いを知り尽くしてしまった。
牙の痕跡が捺印された肌はどうやって隠そう。

「犬が噛むようになるのには構われたがってんのもあるんだぜ、ご主人様」

そんなこと仰って。毎晩あんなに触れ合っている。
扇情的な睦言らしきものを耳元で囁やいたその唇が、耳朶を食む。執拗なまでに耳紋を確かめられると、熱く濡れた舌のざらめきに、震撼。吹きかかる吐息は眩むほど甘く香っている。溢れ出しそうになる鳴き声だったが、硬い掌が口に押し当てられ堰きとめられた。
どんろり、と喉の奥で言葉が融解し、もう閨には獣が二匹しか見つからない。


2018/04/05

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