短編

カクテルの味なんてわかりはしない。ただ、あなたに会う暇と言い訳がほしかった


からん、ころん、とドアベルが俺の頭上で歌う。良質な革靴で踏み込んだバー店内はちらほらと客が点在しており、アンティークランプの上品な灯りに天井が彩られていた。空気の香りに惚れて以来気の向くままに足を運んでいるが、来店をそれなりの頻度にしているのは何も雰囲気や酒の味だけでは無い。
「あら、中原さん。いらっしゃいませ」
会釈するホールスタッフのみょうじに合わせて「よう」と脱帽して見せる。
どうぞ、と行儀良く手を翳すみょうじに導かれるまま平素から利用するカウンター席に腰を下した。座して座高を低めた俺に対して、彼女はやや腰を屈めて目線を等しくして語り掛ける――高身長の野郎相手に同様の事をやられる事がままあるので苛立ちが蘇ってくるが、どうにか抑えて――。
「ご注文、いつものでよろしいですか?」
「いや……。今日は、なんだ、お前の好きなやつ。無ぇか?」
「ございますけれど、甘いですよ?」
「構わない」
「かしこまりました」
何となく視線で追いかけたその後ろ姿の中で、鼓膜に蘇る過去の声音が手元に照準を当てさせた。以前絆創膏だらけだったみょうじの掌を見て何があったのかと尋ねたところ、練習中にアイスピックでぐさりとやってしまったとの事だったのだ。一応は女であるし、陰ながら気にかけてはいたが元の真っさらな肌に癒えたようで何よりである。
やがて出されたのはアイリッシュコーヒーだった。若い女の層に向けたパルフェ風なのか豪奢にクリーム類で飾り立ててはあるが、口にしてみれば甘やかさの中にもウィスキーベースらしい大人びたものもあり。
「今日はアイリッシュコーヒーですけれど、中原さん普段は葡萄酒を召し上がるでしょう? アジアーゴってご存知ですか? 日本酒にもぴったりだと思うのですけれど、お供にいかがですか?」
「アジアーゴって……あの米麹みてぇなチーズか?」
「そう! それです。ご存知でしたか」
「あれは確かに中々だよなぁ」
甘酒の元である麹に酷似した味で、アルコールのような煙たさのある香りと風味がもわり、と紫煙のように胃袋の上部に溜まるような、それこそ大人の味覚というような。記憶の蓋がノックに応じて開かれて、味蕾に味を、鼻腔に香りをそれぞれ錯覚する。
この甘やかなパルフェ風コーヒー然り、みょうじはそこらの女と同様に女らしいものを好むようでいて、案外酒豪めいた舌も有するらしい。というか好きなものをと頼んでアルコールを差し出されたのだから、そういえばこいつは飲める年に達していたのか。
「そういや手前、学生なんだろ? 学年は?」
「1年生ですが」
現役大学生なら19歳になる年、だろうか。俺も元相棒もかなり早い時期からアルコールと煙の染み込んだ体だったが、あくまで道徳に背を向けた人間の話だ。
みょうじは丁寧でおっとりとした好印象に流されがちだが、会話を重ねる毎にそこはかとなく図々しさの匂い出すやつなので、留年するほど抜けているようにも伺えない。などと考えていた矢先。
「勿論院生ですよ」
頬に淡い朱色を添えてはにかみながら打ち明けられた初耳の肩書と、その後に続けられた齢に、「歳上だったのかよ……」と舌打ちを散らす。
「みたいですね。中原さんはお幾つでいらっしゃるんですか?」
「22」
「わぁ、新卒ですか。いいですねぇ、お若い」
狂った生い立ち故に学業には満足に専念していないのでそんな馬鹿高い学歴なんぞ携えてはいないのだがな。真実は流石に伏せて、濁して。現役で大学院までのし上がった己が実力と、背後からの押し上げが当たり前のように存在していた、一般市民より幽かに恵まれたみょうじには周囲以下の人間、ましてや俺のような人間の事情に想像など及ばないだろうが。
「……そんな変わんねぇだろ」
「まぁ確かに」
「だからさん付けやめろ。むず痒い」
「では中原君? ……中也君?」
「おう」
「流石に冗談です、私の方がむず痒いですもの」

「いいだろ――なまえ。これでおあいこだ」


さぁいつになったら、お客様扱いはよしてくれ、と打ち明けようか。
纏め上げた後ろ髪の尻尾を揺らし、新たな客を招き入れに向かっていくなまえの後ろ姿にまたしても視線を馳せつつ、注文品を口に運ぶ。不慣れなクリーミィさも美味には違いない。
「なまえ」
「はい。中也君、なんでしょう?」
客から注文を取り終え、再びいっときの暇を掌で転がしていたなまえにここぞとばかりに呼び掛ける。ちょいちょい、とこちらへ手招き、傷の治癒し切った手に手帳を破いて文字を記し折っただけの紙片を握らせる。
「え……連絡先、ですか?」
「嗚呼、暇な折でいい。いつでも連絡くれ、待ってっから。っつーか、この後どうだ? 一緒に」
「え、えっと、はっ、はい。早く上がれるか伺って参りますね」
あたふた、ぱたぱた、と消えていくなまえの追ったり案じたり見守ったりばかりであった背中を今度は愛おしむ。これでもう客では無いのだから敬語も必要無えだろう、と外させる口実も上手い具合に拵えられたと、恋慕は密かにほくそ笑んだ。


2018/04/02

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