短編

オレンジマーマレード墓標


白黒2つの軍勢の対峙する小さな戦場の遊戯盤を挟み、プレイヤーたる私達もまた対峙致します。
休息にと探偵社の応接テーブルの上に広げられた簡素なチェスセットは手頃なプラスチック製でしたけれど、彫り込みの模様は拘り抜かれたもののようでした。
太宰さんのお相手を仰せつかった私でございましたが、対戦も奮闘も、それらはあまりに刹那的なものでした。
「はい――チェックメイト」
何とも呆気なく。ジャム瓶を開ける折の奮闘のような、ほんの戯れのような戦いを挟んだだけで、もぎ取られる自陣の王の首に、あぁ……と落胆の生温い声が出てしまいます。私の王様の駒をひょい、と骨と皮だけの指が奪い去りました。
「はぁ……、負けました。将棋みたいに相手の駒を取れたらいいのですが……」
「うふふ、それだと私が君の分を全て掻っ攫って、吸収して、最強の帝国を築けてしまうね」
「そう、ですねぇ? 尚更勝ち目が無くなってしまいますね」

――太宰さんが仰るには、チェスは国家戦争の縮小にはなり得ないとのことで御座いました。力尽くで相手の所有物をふんだくる事の許された極東の盤遊戯であれば、まだ合戦の縮小であるかのように語れたやもしれませんけれど。
通常、戦争とは相手の手札は不可視であり、ジョーカーの在り処も切り札の存在もわからないまま進められ、時には終えられることすらあるのです。チェスは駒の残数も位置も全てが晒された状態で、戦況は透明化され、知能一つ携えただけで戦わなくてはなりませんし、加えて互いの手札は完全なる平等、公平、フェアプレーです。カードゲームにおいてシャッフルというのは基本中の基本でございましょうが、このチェスというものは随分と異なっていて、それがございません。自分に与えられた選択肢は大抵相手側にも提示されたものですし、相手が実行出来る作戦は同じように自らも行えてしまいます。

「そういえば昔は白黒ではなくて紅白に別れるものだと思っていました」
「鏡の国はそうだったものね」
「はい。……あっ、ハンプティ・ダンプティが太宰さんみたいかもしれません」
塀に腰掛けて足をぶらんぶらんさせ、下肢に絡みつく浮遊感を楽しむ、膨よかな卵紳士は些か堪忍袋の尾が切れやすい怒りっぽい人物であったような記憶もございますが。
「いやいや、彼は落ちることができるじゃないか。私はこれまで一度たりともぐしゃりと地面にキス出来た試しはないよ」
「ではチェシャ猫なんていかがですか?」
「私に首だけ空に出現させたり、なんてことは出来ないさ。それにあんな風に厭らしくにたにたしていない」
「えっ、していらっしゃいますよ」
「……」
「考え始めるとかなりチェシャ猫と似通っている気がして参ります。想像もつかないですけれど実は定住なところですとか」
「おや定住なのかい?」
「えぇ、あの子は公爵夫人の飼い猫ですよ」
華々しいダッチェスの爵位をお持ちの夫人ですが、大々的に映画化された折に夫人が登場するエピソードは押し退けられてしまい描かれず終い。それ故に認知度が低いのですが。
ふぅん、と感慨深そうにも無さそうにも感じ取れる表情で太宰さんはご自分の顎を撫でつけました。そして一言呟かれます。
「妙ちきりんやあべこべや基地外の代名詞のようなあの国も、案外社会システムはしっかりと作られていたりもするのだねぇ」――くつくつと喉仏で笑みを転がしながら。
「しっかり、していますでしょうか」
「しているとも。なまえちゃんはこういう話を知っているかい――王様一人に対して他全員が奴隷であると、奴隷達は団結して王様の首を取ろうと下克上を企てる。けれども王様に一人に対してその下にデューク、そのまた下にマーキス、さらにそのまた下にアール、ヴァイカウント、バロン、ここまでが貴族で、最下位に平民……と爵位を授けてやると、一定以上の爵位の者は一定以下の者を虐げるんだ。つまり王様が首を狙われる心配は低まるというわけ。
公爵夫人がいるということは不思議の国にも爵位が存在するはずだろう? 女王様の蛮行が罷り通る割にアントワネットのようなことにならないのは、少なくとも一つ以上は、きちんとシステムが機能しているということ。――中世ヨーロッパのあれを、社会システムの完成形とは私も言わないがね。心理学に則った支配及び掌握の一例さ」
一つまともが存在し、かつ国家が崩壊も破綻もしていないというのだから、まともに廻されている機能は隠れた部分に存在しているはずと考えるのは確かに至極自然な事でございました。
「ところでなまえちゃん、こういった遊戯において無敗でいられる絶対的な戦術を知っているかい」
「そんなものがあるんですか?」
「うん、こうするのだよ」
ざばば、とプラスチック素材が床やロゥテーブルや駒同士でぶつかり合う無機質な悲鳴が卓上に轟きました。目の筋肉の限界まで刮目した私は、無残にも散らかされた駒達と、美男の微笑みを湛えておいでの太宰さんを交互に見比べてどこかに転がっているやもしれぬ応答を探します。
「でも私がひっくり返してこそですのに、これでは太宰さんが勝った事実が消えてしまっただけですよ。よかったのですか」
「いいのいいの」
ご自分の勝利さえ無かったことになさってしまった聡明もとい狡賢さのアーヴァターラさんは、私から奪える勝利など願えばいつでも手に入れられる勝利でしかないと仰るのでしょうか。
それは、反則にして混沌。最低にして最期の一手に他なりませんが、子供の癇癪を真似れば御免の軽々しい一言でも許されやすいですから。
アリスが迷い込んだ先のあべこべの地でも、バンダー・スナッチを放ってでも大地の盤を滅茶苦茶に掻き乱してしまって、全てをまっさらな白紙に、無に還してしまえば良かったのでしょうか。
目には目を、歯には歯を。その理論でしたら横暴には横暴で突き返しても、理不尽に対して理不尽を見舞っても許される事になってしまいます。
「なまえちゃん、なんだか紅茶が飲みたくなってしまったな」
「はい。では直ちに」
「散らかすなと文句言われるのも永眠妨害になるし、チェスセットは私が片付けておこう。億劫だけど。あぁ、ねぇねぇ、なまえちゃん、」
さらりと安眠妨害の字を物騒かつ不謹慎なものにすり替えていらっしゃる太宰さんは連続して私に問いを投じられました。
「マーマレードってあったっけ?」
「探してみます。御紅茶に添えれば宜しいですか?」
「そう。それでお願いね」
爽やかに香る柑橘類のジャムは甘みの中にも大人びた渋みが混じり込んでおりますから名探偵様のお気には召されないでしょうし、残量もそこそこのまま残されているはずです。ならば茶葉は同じ柑橘系統の果物を用いたアールグレイが最適かしら、ベルガモットってそうだったわよね、と味蕾を気づかいながらソーサー付きのカップとポットを戸棚から取り出しました。
地下世界の住人に紅茶とくれば気の違った帽子屋と同様に気を狂わせた三月兎ですけれど、それを話題にしてしまったら太宰さんが相当嫌悪していらっしゃる御帽子の方を想起させてしまいますかしら。機嫌を損ねてしまわれるのは私としても本意ではありませんでしたし、大人しく黙して置く事と致しました。


2018/03/29

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