短編

水晶体みせて


※幼馴染シリーズ『思夏期

目当ての缶珈琲が乱雑に落とされる。自販機から吐き出された品物を取り、喉の渇きを堪えきれなかった俺はその場で開けた。ぷしゅ、と細い風の抜けるような音。
どかり、と腰を下した自販機付近のベンチにはすぐ隣に先客がいた。見知った顔の先客の手中には既に空であろう缶が膝の上で握られている。横目にパッケージは伺えないが、記憶を遡り、昔馴染みの好みを手繰り寄せれば大方見当はついた。

「手前の相手は俺らしいな」

はて、自分は警察手帳か何かを突き付けでもしていただろうか。そう錯覚出来る程の肩の強張り様を見せた後、同席するみょうじなまえは静かに「左様でございますか」と丁寧に装飾を施した言葉で受け入れた。
相手、とはつまり。
俺がなまえの処女を散らすのだ。
らしいな、などと如何にもわたしは本意ではございませんというような伝え方を敢えて選んだものだが、実際はどうだったか。
快楽に慣れさせ、また道具とするために使われるのはてっきり適当な構成員かそれ系統の事柄に精通した店の人間だと思っていたのだが。なまえ自身とそれなりに関係を持った人間に任せようと融通を利かせたのは姐さんの情けか何かで、誰かに白羽の矢が立つ前に自ら名乗り出たのは幼馴染だった俺の情けと何かで。姐さんに至っては融通以前に彼女可愛さのあまり遅延を図った張本人なのだから完全な職権乱用である。
決定付けられた喪失は早いか遅いかに過ぎない事。非力な身でありながら暗い世界に歩んだ時には既に所有物全てを武器にする覚悟と諦めは、俺達は握り締めていた。
鬱憤は珈琲共々顎を逸らして飲み干した。
「貸せよ」
ひょい、と黒手袋を纏った指先でなまえの空き缶を奪い、自分のものと同時に宙で押し潰す。作り物の無重力下で浮遊する二つの缶は指で軽く弾いてやれば屑篭の方に流れて行くので折を見て解除し、落とした。
「すみません」
「いや……」
一向に交差しない視線も、変貌し切った言葉遣いも早々に諦めた。どうせ否が応にも肌を重ねなければならない者同士だ。
「今日でいいな?」
「構いません」
「場所と時刻は追って連絡入れる。それもこっちの都合いいようにするが」
「えぇ、大丈夫です」
そうか、と相槌を打ち立ち上がる。踵を翻す俺は背になまえが会釈を送る気配を感じていた。

***

みょうじなまえとは幼少期を共に過ごしているが、あまり出世の機会に恵まれなかったあいつとの間には途方も無い、深淵と見紛う程の溝が出現していた。中也、中也、と呼んで付いて回ってきた無邪気な声は幽かな変声期を通過して女を帯びて、敬称に飾られない呼び名が象徴していた対等性は、飾り立てられ煙に巻かれて消え失せた。不変な要素なんて既に背格好くらいしか残ってはいない。女と並ぶと頭の位置に凹凸が出来ないのはもう昔からだが。
そういう用途の宿泊施設に部屋を取り、ホテルから少し離れた場所で落ち合い自動ドアをくぐった。お互い如何にも恋人です、という距離感を演じて入室まで至る。ロビーで待ち合わせをするなんてそれ系の如何わしきフレンド染みたことは避けた。
俺も金の使い道くらいは選びたい――なまえは出る頃には私が持ちますとかほざきそうだが――、やたら場所を取る寝具が視界で騒ぐが、選んだ室内は比較的簡素だった。
「使えよ。幾らかは楽になるぜ。まぁ慣らされてっから完全には効かねえだろうが」
プラシーボとやらでもなんでもいいだろう。置かれていたポーションの小瓶から重量を取り払い、宙を転がしてなまえの元まで届けた。俺のそれを司令とでも受け取ったのか、素直に唇から注ぎ、喉を蠢かせて飲み干すなまえは、俺の言葉が糸ならば立派な操り人形だ。
「あの、お風呂頂いても、」
「一々断らなくていい。好きにしたらいいだろ」
すみません、と何に対してかの謝罪を置き土産にシャワールームへ消えていくそいつの表情はよくわからない。何かの感情の形は確かに成しているのだが、それがなんであるのかはもう読み取れない。昔は喜怒哀楽の判断がつきやすい奴だったのだが……と人の事を言えた立場でもないが。
ソファに羽織らせた漆黒の外套の裾の、ドレープカーテンのような波打ち方を眺め、ジャケットと帽子を重ねた。細身のクロスタイと手袋はローテーブルに。ベストは迷ったが、これは後でいい。
どかっ、とマットレスに荒く腰を下せば、座り方の荒さと大体同じくらいの強さで押し上げられる。反発、弾力。
手持ち無沙汰に時折震える携帯端末を弄ぶ。

――不服ながら幼少期にあいつを泣かせたのは一度や二度の可愛らしい回数ではないのだが、あの一度の事だけは鮮明に焼き付いている。なまえの脆かった涙腺を食い千切ったのはなんてことはない、俺がなまえの髪飾りを割ってしまったというだけのことだが――有機物どころか人命すら簡単に捻り潰すようになってしまった今でこそそのように言うが、幼子にとっては一大事に他ならなかった――、要因というべきか手段というべきか、それが問題だった。誤発動した俺の異能が華奢なアクセサリを粉々に粉砕してしまったのだ。
彼女が重力が操られる様を見るのはあれが初めてでは無かったし、所有物の紛失或いは消失ごとき、買い直せばいいのだから涙する程の衝撃足り得ない。しかし個々では怯えるに値しない二つのものが融合し、奇跡的に脅威のキマイラを誕生させたのだ。
突然の消失により空っぽになったなまえの脳を、俺の異能は鮮烈さを以って恐怖で満たした。普段は敵をなぎ倒し、なまえを守るために使われた事だって幾度もある、間違っても彼女を傷つけたことの無い異質な力は、その瞬間だけは確かになまえに差し向けられていたのだから。

気配を眼界の隅に知覚し、視線を持ち上げた先。シャワーの水滴を下睫毛に溜めたまま表れたそいつに肋骨が罅割れそうになった。なんて折に現れやがる。俺の脳味噌の巻き返した回想と重なって、一瞬泣き姿と見紛った風呂上がりの姿に舌を打つ。
さすがにすぐにはいどうぞとは行かないらしく、なまえはブラウスとスカートは着直している。それぐらいの羞恥心を備えている女の方がまぁ好感は持ち易い。
「入らないんですか」
「シャワー室借りて来た」
「左様で」
いかんせん発育の遅い女児であった為、多感だった時期の俺でもなまえに色香を見出した事は一度たりともなかった。それ以前に近しい少女のスカートの深奥なんてところは最早ある種の聖域に等しく、邪な考えすら戒めて打ちとめていたのかもしれない。
なまえはどこかで俺の偶像だった。
それが、それなのにそれを俺が今どうにでも出来てしまうのだから世の中というのはどうなっているのだか。
駆け引きも文脈の留意も躊躇いも不必要だ――俺の眼前に棒立ちしていたそいつを自分の下に引きずり込む。わぁ、とかいう、悲鳴。絹糸の濡れ髪が孕む、他所のシャンプーの香り、他所の水の気配。馬乗りで見下ろして、さていつ噛み付いてやろうかと企んで。

「キスは抜きでいいだろ」

鼓膜に息吹くような耳打ち。自戒でもある鉄則。今のこいつならばもう言われるがままされるがままに成り兼ね無い。どこかで何かを隔てなければ。
弾き飛ばしたボタンはきっとこれまでの境界だったのだ。

***

不意に視線同士がかち合う。火花が散るのも刹那的な事で、直ぐに眼球を転がしやがった阿呆によって心臓が動くいとまもなく千切れた。
「なまえ」呼び掛ければ再び視線の行き先をこちらに戻すのだからまだ利口だ。
「な、何ですか……。中也、さん……」
――。
上顎から喉にかけてを鋭利な冷風がかっ切った。
「なぁ、手前、いつから……」
いつからだ、一体。こいつの眼差しが遥か上空でも見据える様なものに変わったのは。俺を仰ぐようになったのは。果たして。ならばそんな俺の声音は今どんな風にしてなまえの耳朶に触れているのだろう。
先の『いつから』に続かない言葉は一度黙して区切って。

「昔は。こんなんじゃなかったろうが」

首筋に噛み付こうとしていた胸中の獣が、しゅう、と萎んですっこんだ。
「……本気ですか?」
「……あぁ?」
「どれだけ、立場が違うと……。わかっていらっしゃいますか、どれだけの反感を買うか。あんな風に気安く接する訳には参りません」
「咎める奴ならいねーよ。今は」
盗み見の異能者であろうともまさかこのプライベート空間に好奇心と勇気だけを携えて行使したりなどはしないだろう。
「命じてくださるなら、お呼び致します」
いつからこんなにしがらみだらけになったのだ。命じれば従う、従順についてくるこいつに優越を感じていたのは確かにそうだが、それもほんの一時期。弱い幽かな薬で満腹感を繕い続けるはずがない。崩さないままでは駄目なのだ。
「それじゃあ意味が無ェ。手前に呼んで貰いてぇんだ、俺は」
何か言おうと開きかけた唇の中に小さい前歯が窺い知れた。が、すぐに閉ざされる。また開いた。はく、はく、と酸素を噛んで。噛み締めて。
「私達は、大人です。……ですから、幼児返りはしてはならないんです、中也君。戻れません――」
恐らくは精一杯なのであろう君付けは提示する。
死んだ人間は生き返らない。
壊れた髪飾りは復元しない。
切れた縁も繋ぎ直したところで以前と同じ形状のままのはずがない。
百八十度転換した絆は見限って、新たに築く他ない。
来た道を断たれたのなら進まなければならない。
「……戻れねぇ、よなぁ……」
俺の反芻が宙で酸化した。
立場は変わり、溝は深まり、幼馴染を神聖視し続ける魔術も解術された――こんな風になってしまったのだから。
俺たちは一糸纏わないで、獣に退化してもつれ合っている――こんなことになってしまったのだから。
ただ眼下には人間の女がいるだけだ。絶対的な庇護下の存在の、聖女ではなくなった女。従順に付いて回り、イェスと肯定を紡ぐ下僕染みた役職から解き放たれた女。何の変哲も無い、少女から少し大きくなったくらいの。俺の肋骨からは流石に出来ちゃいないが、こいつは女に違いない。
友情の残骸は薪にもなりやしない。だが、それでも、と。
ぐだついたモラトリアムごときで酩酊し切れないのは知らしめられてしまったが、それでも。
元より下僕は、本日からは聖女も、こいつ相手には望んでいない。純情な幼馴染も高麗鼠の下僕も、今の俺には、俺たちには不相応だ。今までの関係性をなぞって興じるのはもう不可能だ。
そんな風に、過去を捨てて新しきを願望するならば、新天地を見つけるしかない。
嗚呼、ならば。どうせなら、結ぶのなら。鳩の心臓のような、果実の柘榴のような色の糸がいい。

***

済ませるために迸らせ、後はそそくさと去る準備を始めるというのも、今宵限りの使命だったというのに本当にこれだけの関係を続けていくようで何処か侘しい。辿り着く先が交尾だなんて全く持って笑えない。これは速やかに梃入れせねば。
「飯どうするんだ」
問えば一度家に帰るつもりだとなまえは応じる。
「それなりの店を知ってんだが、一緒にどうだ? これから」
冴えない食事の誘い文句に、俺は胸中自分で自分に幻滅していた。どうやら相当自惚れていたらしい。俺自身はもう少々口説くのが上手い人間のつもりでいたのだが。


2018/03/05

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