短編

ヱスケイプ・ゴート


鼻腔を擽り回す空気の香りは明らかに自室のものではございませんでしたので、嗚呼そういえば泊まったのだ、と。私はそこからひとつひとつ記憶を目覚めさせて行きました。
ここに留まり続けたくはないという気持ちは胸にありつつも、寝床を出ようという意志がきちんと固まるまで大分時間を要しました。明滅する眼球の裏や、鉛のように重たくなった頭や、絶えず痛みの信号を発信する首などに障らないように、極力慎重に、意図して緩慢に背中を敷布団から浮かせました。外に這い出ると、冷えた床がついた腕を突き刺すものですから全身の毛穴が引き締まります。乱雑に畳まれていた自身のブラウスを拾い上げ、腕を通しながらひとまず私は取り敢えずの逃げ場として洗面所をお借りする事と致しました。家主の太宰さんはまだ夢の中のようでしたから。太宰さんの閉じ合わさった睫毛の影が朝日によって薄く目元に落とされていらっしゃいました。
喉を潤すのが一番健康的なのでしょうけれど、体内を巡り巡ってようやっと眼まで届くのをなど待てないせっかちは洗顔ついでに瞳を濡らします。蛇口から流れ出る水を両掌で掬して、手中の小さな水溜りを揺らさないよう、そうっと睫毛の先まで運び、ばしゃり、と顔に打ち付けるのです。枯れかけていた涙の水膜と外界の冷水とが溶け合って、暫くは目の隅っこの方に染みますから瞬きをしたくなりますが、数瞬間も経てば眼界は晴れやか。睫毛の先にぶら下がり、景色を逆さに閉じ込める雫の一滴すら視認出来る程です。透いた視界で台の鏡に視線を転じまして、私は驚愕致しました。向き合う自分のあまりの醜さにでございます。浮腫んで平素から大きさの変わった顔面、四方八方に飛んで行った毛先。食らいつくように自分を覗き込みますが、とうとう見るに絶えられなくなり、わぁっ、と真新しいハンドタオルに顔を埋めて醜貌を覆い隠してしまいました。
ですけれど、きっとこれなどは引き金に過ぎません。私はよく存じております。人の天井の元で覚醒した私の中にはもう何かから逃れたいというような気持ちが根を張っていたのです。手遅れでしたのです。そうです、このような出来事などきっかけか理由程度にしか成り得ないのです。
輪郭を滴る水を吸い取り、色を濃ゆめたタオルは洗濯籠の貝塚へ重ねて。
スカートの正面の留め具をする間に私はきっと目つきを変えました。悲しきかなとんだ鈍足ですので、弾かれたように、とは参りませんでしたが、脱兎に扮して太宰さんのご自宅を去りました。逃げ出してしまったのは逃げ出してしまいたかったからに他なりません。
のちに太宰さんから始めに着信を頂いたのは七時を回った頃で、以降立て続けに受信し、受信し続け、私の携帯端末は鞄の中で震え続けておりました。あまり動く事のない通話履歴はあっという間に太宰治の氏名で埋まり、幾度もスクロールを重ねなければ母親の字が拝めないまでになりました。太宰治、太宰治、太宰治、太宰治……どこまでいっても太宰治、太宰治、太宰治。見る者にそこはかとなく狂気と執念深さを感じさせます。背筋と二の腕の皮膚を粟立たせ、寒気を纏って、くわばらくわばら。
私は汽車に乗り込む心算でおりました。自宅方面の路線を選んだのは、何故でしょうね。このまま一人旅の真似事と洒落込んでもよかったでしょう。むしろその様に致しました方がこの細やかな逃避行もより其れらしさに磨きがかかるというもので、背徳感に鼓動を高鳴らす事も出来たでしょうに。
早朝のホームのベンチに腰を下し、踵で地をぱたぱたと叩きながら思考を巡らせます。
幾度もしつこく申し上げますように、私が逃げた理由は逃げたかったというだけ、それ以上でも以下でも御座いません。ですけれど、果たして脱獄犯は脱獄をしたいがために脱獄をするでしょうか。何か外界に後ろ髪を引く物や存在や、もしくは惹かれるものや何かがあったから――それを手にするという目的の為に、牢獄を破るという手段を取るでしょう。革命児は改革した先の光を求めて革命を企てます、革命を起こしたいが為の革命では無いのです。勇者もまた姫君を救い出す為に剣を握り、魔王に挑むのです、そちらもまた決して魔王討伐のための挑戦ではありません。
それではさて私は何のために逃げ出したのでしょうか。単純明快、逃げ出したかったからです。ではなぜ逃げ出してしまいたいなどと考えに至ったのでしょうか。そこまで思案した刹那、暗雲で空が閉じてしまいました。陽光の手助けが無くてはこの眼では答えなど見つけ出せません。
私の胸中に於いてもどこかですり替えられてしまったのやもしれません――過程が、目的と化してしまったのやもしれません。本当はどこかに行きたくて行きたくて堪らなくて、或いはどうにかなりたくて、そのために逃避に走るという手段を選んだのやもしれません。どこか、って何。どうにか、って何。空白に入る概念は一体どこに落っこちているの、どうやったら拾えるの。曇天思考の下、はまぐりの巣を探す人々のように私は必死に睫毛が地べたに触れるすれすれまでこうべを垂れて本心の捜索に励みます。
目当ての車体が陽光のカーテンの向こうに見えましたので、私はそろそろ並ばなければと立ち上がりかけました。ですが。

「みぃつけた」

人の良さそうな笑みをぶら下げて佇む美青年は癖の多い短髪を風にくねらせていらっしゃいました。
みぃつかって、しまいました、けれど私はちっとも惜しく感じてはおりません。
太宰さん、とお姿を視界に入れ、反射的にお名前を唇に乗せましたが、失速しながら私たちの元までやってきた電車の騒音と風に声音は絡め取られてしまいました。音を奪った風は太宰さんの黒髪をも激しく踊らせます。
そろそろと人々が下車し、乗車し、流れ始めます。私も乗車するはずだった電車は私を迎え入れる前にドアを閉ざし、唸りながらまた旅立ってしまいました。
「なまえちゃん、私に何か言う事があるだろう」
「おはようございます」
私は頓珍漢に会釈しました。
「おはよう。で?」
「すみません」
こんな時は謝罪に限りますけれど、そういえば別れの切り出しにも同じ言葉を用いる場合もございます。
「私は、ひょっとして本格的に振られたのかい?」
悪戯心が私を沈黙させました。左様ですよと肯定して差し上げれば今にも非道に走り出しそうな危うさがちらり、ちらり、と垣間見える眼前の麗人は酷く愉快で。私の黙殺が長引くにつれて感情が削がれていくポーカーフェイスなど実に滑稽で。返答次第で潰され兼ねないような、命の決定権すら握られているような空気は誠に美味で。
私は打ち止められた逃避行を惜しんでなどおりません。打ち付けられた終止符を恨む事も致しません。何せ私は先程から、頭がかち割れそうなほど、歓喜していたのですから。

「そういえば、だけれど、なまえちゃん。線路に一人が飛び込むだけでも何本も電車は遅れてしまって、その上遺族になんらかの罪で鉄道会社からお金が請求されるそうだよ。正義感の強いなまえちゃんも、人に迷惑をかけるのは嫌でしょう?」

悪い子は引きずり込んでしまうよ、と絵本にでも登場する様なトロール染みた脅迫を言外にお伝え頂きましても、私自身に別離する気がないのですから別れ話を木っ端微塵に砕く脅しに屈する理由も御座いせんでした。
「そんな事一言だって申していないじゃありませんか」
「そう。ならいいんだ。どうして突然消えたりなんかしたんだい。不透明なままじゃあ私のこの小さな胸など簡単に押し潰されてしまいそうだよ」
ふふ、という小さな私の微笑。笑い方が心なしか彼に近づいた様な気が致します。
太宰さんがそう問ったのが今このタイミングでよかったと心から思います。もし彼と対面せずに電話口で尋ねられていたら、これほど私は喜びで満ちてはいなかったでしょうから、つまり私は理由を作り出した黒幕にいつまでも気が付かずにいたかもしれないのです。
理由が理由なのですもの。そりゃあ逃げも致します。容易に見つかる帰路の路線も選びます。おんなじお部屋にいたのでは到底叶いませんから、逃避行だって行います。

「迎えに来て欲しかったんです」


2018/02/27

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