短編

ポケットに薔薇を詰め込んで、君に会いに行こうじゃないか!


※女学生シリーズ『ハニーミルキィ・ドライバー


下校の鐘が耳朶にこびりついている。以前なら校舎を出て直ぐにイヤホンを嵌め込み、聴覚だけを綺麗に現実から断絶していたが、今日から数週間は耳を休められる事になった。というのも、中也さんが暫くの間は帰宅時だけ私の為に車を走らせてくれるそうだからだ。
校門前で群れを成し騒めく生徒に疑問符を頭上に浮かべつつ。セーラー服と学ランの群に「ちょっとすみません……」と切り込みを入れ、その切り込みの中に身体を滑り込ませておずおずと歩む。

ねぇ、なんだろう、あの車。
誰かの迎えかな。
というかあれ、多分海外の高級車だよ。
えぇっ、そんな金持ちうちの学校にいたっけ。

口々に囁かれる言葉に、無くも無かった心当たりが突かれる。まさか。いや、本当にお金持ちの生徒の送迎かもしれないじゃない。中也さんは確かにお召し物は良いものを揃えていらっしゃるけれど。高級そうな葡萄酒を嗜むそうだけど。なんだかよくわからないご職業だったけれど、お伺いした限りでは収入面はお医者様並みっぽいけれど。きちんと目撃するまでは私は信じまい。
結果、中也さんから伝え聞いていたナンバーと、騒めきの源泉たる黒塗りの高級車のナンバープレートの数字とが見事一致し、私は頭を抱えたくなった。多くの視線が集中する中、一介の生徒の身で乗り込まなければならないのか。それは私のような日陰者にはあまりに酷だ。明日教室で問い詰められる未来に嘆息する。きっと紛い物ではないのであろう、輝くエンブレムに眼の奥を明滅させて。このまま突っ立って生徒たちが去るのを待っていては中也さんに申し訳がない。埒も明かない。ローファーの硬い爪先で小石を蹴り上げて、私は踏み出した。
認知して貰う為だけに高級外車の窓を叩くのは憚られたため、窓の前で会釈する。硝子越しに私を見つけた三白眼が数度瞬きをし、ウィー、と唸らせながら窓を開いた。ちなみに驚くべき事に左ハンドルなので、彼の座す運転席は私の立つ歩道側である。中也さんは淵に腕をかけてこちらに身を乗り出しつつ、

「よう、早かったじゃねえか」

と私と視線を結んだ。高級外車のお迎え、おまけに運転手は小洒落た帽子の美男ときた。背後の群れが殊更騒めき立つので、私は忍びないやら恥ずかしいやら。強酸以上の融解性を誇る注目を背に浴び続けたから、お陰で私の皮膚と背骨は融け落ちて街渠に流れていきそうだ。
「中也さんありがとうございます」私はもう一度頭を下げてから、車道側の助手席へ歩もうとした。その時、中也さんが態々一度下りて助手席のドアを開ける。

「え……」
「車来ねえうちに、ほら早く入れ」
「は、はい。すみません」

のそり、と私が座席に腰を下すのを見届けてから、ばんと扉の閉められた。姫君が受けるようなエスコートをこんなにもさりげなくされてしまったら、どぎまぎ心臓を騒がせている私が間違っているみたいだ。
中也さんが運転席に戻ると発進する。鼓膜を震撼させるエンジンの唸りが心なしか素敵な音色として耳朶に触れた。只でさえ人様の自動車で神経が引き攣るというのに、無知な私ですら覚えのあるエンブレムが瞳に焼き付き、爪先が縮こまる。果たして零は幾つつくのだろう。私が一体どれほどアルバイトにアルバイトと疲弊を重ねれば済む桁なのだろう。どうしよう、靴には泥や砂利が微量とはいえ付着したままなのに。相当ハードな日々を送っているらしく、職業柄色々なところに穴が開きやすいとか仰っていらしたけれど、こんなことで雷と鉄拳を下す方ではないのは十分知っているけれど、自分の場違い感が胸を穿つ。
考えれば考えるほど思考で雁字搦めになっていき、身動きの幅が狭まっていく。肩を萎めて小さくなり、鞄を抱えていた。

「寒いか?」
「えっ。いえ、そういうわけでは」

冷暖房に伸びかけた黒手袋の手が、ぴた、と空中で静止する。一切皺のないその手袋も、外套も、何もかも、私には到底想像できない価値が秘められているのだろう。さりげなく上質なものであることは辛うじて察しも付くのだけれど。桁に思考が至るだけで視界が眩み、考えが進まなくなってしまう。

「中也さんはどんなお仕事をなさってるんですか? 私いまいちわからないんですが……」
「ん、あー……、あれだ、ほら、港拠点にして、縄張り内で勝手に悪事働いていやがんのをシメる奴。……職業名言ったところであんまピンと来ねぇと思うぞ」
「都市伝説でそんなようなものがあるって前に伺った気が……」
「都市伝説か」
「異能集団でしたでしょうか。人を助けるお仕事なんてすごいです。ポートマフィアですとか、この街も物騒ですし……」

一刹那、中也さんの横顔は微かに暗雲が降りたようになった。私の失言か、それとも赤信号に車体を捕らえられたからだろうか。

「中也さん、偉い立場の方なんでしょう? お忙しそうなのに、よろしいんですか、これから毎日お迎えなんて」
「暫くこの時間は暇っつったろ。どこかでおとなしく暇潰すよりかは手前といた方が有意義ってもんだろうよ。女学生一人で歩かせるわけにも行かねぇしな」

ご友人――ではないと中也さんは激しく否定するが――に女性を敵に回しがちな青鯖な方がいると苛立った語気で聞かせてくださった事があったけれど、中也さんも中也さんで不意に心臓を乱すような一言を見舞ってくるから油断ならない。

「次の信号を右だったか」
「はい。そうです」
「莫迦、そこは嘘吐いとけよ」
「は、はい!え、すみません、でも、えぇ?」
「言わなきゃわかんねーか?」

察しの恐ろしく悪い鈍ちんと認識されるのと、自意識過剰な自分大好き人間と勘違いされてしまうのと。果たしてどちらが安らかな未来を運んできてくれるのだろう。暫しの間どっちつかずに揺らいでいた天秤は後者の方に沈んだ。
多分私は中也さんから、違う道を教えて遠回りするように誘導すれば、この時間を引き伸ばせる――と。ずるい大人の種子を分けて頂いてしまったのだ。

「次に右折した後、暫く走りましてですね……、えーっと、公園を一周してから、来た道を戻り、左折して、もう一度右折です。公園は回らずにそのままです!」
「普通に右折、直進でいいな」
「……はい」

努力も虚しく自宅へ直行の道を辿った。入れ知恵に素直になるのは愚行であると私はまた一つ学んだ。馬鹿の一つ覚えで結果など残せる訳もないのに、と諦めに入る志向の傍らで、悪女めいた時間の引き延ばしを覚えてしまったことによる細やかな欲がぽとりと落ちた。
曲がり角を一つ挟んでの停車に、家族に見つからないようにという優しさが滲んでいた。しかし今日ばかりは不在である。このまま解錠してもおかえりと投じられる声は無い。自身の足音だけが空気を揺らし、靴下越しに足裏を舐める床はきっと冷えている。

「あの、火曜日は両親が帰るのが遅いんです。なので、よろしかったらお茶して行かれたり、しませんか……?」

ぱち、という瞬きが中也さんの三白眼の元で一度だけ弾けた。沈黙が降りる車内から逃げるように「すみません、忘れてください」と下車を試み、鞄を握ろうとした手が捕らえられる。えっ、と振り向いた瞬間、首を引き寄せられて唇がくっつけられた。紛れも無いキスだった。
刹那、沸立つ血液、荒ぐ拍動、踊り出す細胞。小鳥同士の戯れかという程の触れ合いが私の中に根を張る乙女を狂わせる。
そうして自身の未成熟さと幼さを突きつけられるのだ。

「この程度で赤くなってるってのに一丁前に誘ってんじゃねえよ」
「う……、はい、すみません」

見合わない背伸びした踵の分だけ私は、しゅう、と小さくなる。
ぽふり、と黒い手袋に包まれた手が頭に乗せられ、くしゃ、と不器用に髪に指が絡められた。

「ゆっくりでも慣れていきゃいい」
「慣れてしまったら、こんな風に一喜一憂したり、今と同じように好きとは思えなくなったりが、出来なくなったりしませんか?」
「随分とまぁ可愛いこと言ってくれやがるが、それも戯言だな」

暗に、このまま恋醒めなどさせないと仰っているのだろうか。幾度も身を投じた御伽の世界の、あの普遍の恋を中也さんはくださるのだろうか。
歩道に降り立ち、振り返る。窓硝子一枚を隔てた中也さんはやや気取ったような動作で帽子を浮かせて見せ、その上品な脱帽の最中に口元を曲げた。どう返していいのかがわからなかった未熟者はぎこちなく腰を折って会釈をした。
躰の核芯が未だに熱を帯びている。足取りは羽で舞うように軽やかで。温まった手でノブを回すが、この温もりが家族の帰宅までの孤独をより際立たせるのかと考えると切なくも思えた。同時に、自分のローファーの踵の低さも。
大人になれば何かが変わるのかしら、と。いつもと同じ思考を反芻する。


2018/02/10

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