短編

その麗しくも醜いものは消してあげるよ


※裏要素を香らせる表現がございます。


人肌と体温に中和されるものはなんだろう。片頬を包む其の人の掌の寄り添う様な力加減では怖いままで、頬を擦り付けて更なる密着を図ろうとした。私の中に眠る脅威は此れで暫しの間とは言え眼醒めない。私の畏怖とは他でも無い私自身に差し向けられている。

***

「ただいま戻りました」と。自宅の錠を外す折には些か堅苦しい挨拶であったが、先住人が御在宅なのだから気も張ってしまう。ちゃり、と手中に握る鍵同士の擦れる薄い金属音。鼓膜を震わすその微音に覆い被さり、御手洗の方から耳を突き刺したのは深淵から響いて来るかのような唸りだった。言語離れした、断末魔とも感じられる其れ。微塵も言葉の形を成してはいなかったが、半壊しているとはいえ声音は良く聞き知ったもので。

「だっ、太宰さん!?」

名を叫ぶや否や、私は荒々しく靴を脱ぎ去り、足音に気を配る余裕すら鍵と共に指の間から落っことし、床を踏み鳴らして御手洗へ急いだ。

「太宰さん……!」

二度も叫んだ名前の持ち主は背中を丸めて跪坐き、便器に口を埋めて――嘔吐。やはりあの呻きはこの方の声帯から絞り出されたもので間違いはなかったのだ。自分もまた誘われた様に喉の奥からせり上がって来そうになるが、嫌な唾を嚥下して堪え。私は彼のそばに膝を折り、胃の中身を吐き散らす隙間に乱れた呼吸を挟む背中を摩る――触れた途端、すっ、と身体の何処からか力が抜けたのは私の異能力がこの労わりの接触によって封じられたからであろう――。長身故の長い美脚が邪魔そうで、曲げざるを得ない背骨は辛そうで。実際はそんな事は無いのは知っていてもひょろりと細い肢体はとても非力そうに見えてしまうものだから。今回こそついにどうにかなってしまったらどうしよう。這い上がる焦燥感が喉を焼く、そんな中、酸欠したように途切れ途切れの思考に鞭を打つ。えぇと、昨日と今朝、彼は何を召し上がったかしら。具材が賞味期限切れだと彼にばれていない時は極力私の方に入れるようにしているのだが。一体何が体内で暴発したのか。顔の作り同様に繊細な作りの胃や腸であったかもしれないのに。
太宰さんが深く息吹く。包帯と軽い震えに包まれた手がレバーに伸ばされた。水流を呼び起こして吐瀉物を流し去り、ふらりと覚束無い緩慢さで立ち上がる。帰宅するや否や駆け込んだお陰で、自分が未だに外界の香りを纏わりつかせた外套のままであることに気付いてはいたけれど。蛇行気味の太宰さんに洗面所まで付き添った。

洗面台の蛇口が捻られて、止まる水流に伴いようやっと不安も失速する心地だった。肩に降りた安堵。清潔な手拭いを差し出す。細い顎の線から滴り落ちる雫が吸水する布に移される。元より色の白い肌の下からは血色の悪い蒼さが透いて、安堵はあれど心配は消えずに増して行く。

「そんな顔をしないで。私はこの通りもう大丈夫だから。大量の薬を服用して死のうとしてみたのだけど、思いの外胃に貯めきれなくってね。どうやら粉末状にしてヨーグルト等に混ぜなければならなかったようだ」

くしゃりと私の髪に差し込まれた指先の優しさから一変、柔和な笑みを乗せた唇から、極自然に今日もまた自殺を図ったという事実が垣間見えた。部屋を分け合う人物が常に死と隣り合わせという恐ろしさ極まりない生活に半身を浸しているものだから、未遂にこそ慣れたものの腐り果てても愛した人なのである。苦しむ姿は見たく無いというもの。

「しかしね、毎度悲しげな顔をされてしまうと私も良心が痛むのだよ。なまえちゃん。私が金輪際自殺を止めると云ったら、なまえちゃんは喜んでくれるかい」
「勿論、嬉しいです。でもそんな事、本意ではないのなら仰らないでくださいね」
「おや。如何してだい。そんなに私に死んで欲しいの? 初耳なのだけど!」
「そんな……、まさか。死なずに生きて欲しいと思っています、心から。でも私が愛した太宰さんは自殺を繰り返してこそ在らせられたとも、思いますから」

先刻の問いになど恐らく意味など宿ってはいなくて。太宰さんは何かをお確かめになったのだと思う。回答を通し、私が与えられた何かなどあったとは到底思えないけれど。

***

夜。私の体温が移り始めた掛け布団をめくり上げて忍び込んで来た人物の気配も意図も息遣いも、全て背中で感じ取っていながら私は狸寝入りを貫いた。横寝の姿勢の私を背後から骨の様な腕が抱き締める。さながら羽交い締めのような。彼のまにまに囚われる。
指に絡みつく指。指の付け根に爪先を擦りつけられると喉が詰まる。瞳の奥深くに誘う、それは誘惑。

「寝てしまった?」

仄かに色めいた吐息が耳朶にかかると、吸い付かれてもいないのにそうされたかのよう。たった一問だけで顔色を熟れた林檎に変えられた私は観念し唇を開き掛けるが、この昂りが声音に滲んでしまうやもと引き結ぶ。かぶりを振ると髪と枕が擦れてざらついた音を奏でた。己の肩越しに見つめた太宰さんの首筋に――就寝時すら守られたままのそこに、包帯越しに浮かび上がる骨の在り処に、色香を見つけた。
嘘下手の分際で私は欺こうとしたというのに太宰さんはよかった、起きていてと余裕を孕んだ囁き声で仰る。我慢ならず生唾を呑み下せば喉は鳴り、きっとそれで悟られた。背後の蛇は鼠を前に密かに舌舐めずりをしているだろう。事あるごとに一体人生を何度やり直したのですかと尋ねたくなる程の悠々自適さと、それを生み出す先見の明、其れ等に反して太宰さんは妙齢だから。布団を2人分並べて敷いたところで使われるのはどちらか一つというのもその為だ。
背中を抱き竦める太宰さんを首だけで振り返ったまま、唇同士が縫い合わせられる。深淵そのもののような太宰さんの双眸に魅入っていたのをおねだりと捉えられたのやもしれない。結果として喜んでいるから勘違いにはなり得ないあたりが、この方の罪深さだった。処女でも少女でもない癖して、いつまでもおずおずとしているのは私だけのようだった。幾度か啄ばまれ、程無くして唇を割られる。しかし急いでしまったが為の無理な姿勢は色々と可笑しい。反り返る首は妙な角度であるし、何より。そう、何より、舌先を出し入れして擽られるだけの口吸いに満足感が得られる訳もなく。それだけで埋められる不安であるはずも無く。とっくのとうに私の異能力など掻き消されているだろうに。肩に掛かる手に浮上する期待。掴まれて、強いられる形で太宰さんの方を向くことになると、すぐに求めた。

「どうしたの? 今日は嫌に積極的だね」

息と肉の何処かに隙間を見つけて仰る太宰さん。彼が熱くした耳に触れる音色がまた、熱を煽る。
恐らくこれで異能力由来の悍ましい眼光も消えてくれたはず。非人間の象徴は一時的に白紙に返され、私は刹那的に真人間の自分自身を久々に得た。
貞操喪失して間もない頃のように、私の身体を開く許しを乞うような事はもう仰らなかった。「ふふ」と鼻歌ににた笑みを幾つか零すだけで。
割り開かれた寝巻きの胸元から忍び込んできた太宰さんの悪戯な手を制止させる理由は何処にも無い。

思うに初めのそのまた初めのプロローグの頃から狂わされていたのだ。
道すがら青年に突然手など握られようものならば振り解くのだが、この方に対しては同様の意識が働く事はあれど、拒否を行動で表すまでは至らなかった。それは私自身が他の誰より自分の異能力を脅威として捉えていたからである。指先同士、一瞬でも、接触さえ起こせば抹消される彼の力。真人間の頃の自分に焦がれる私が太宰さんに接触を許さないはずがなかった。些か過度な愛撫染みた触れ合いすら私の心を凪がせてくれる安定剤と化するから、恥じらいは持ちつつも拒否どころかもっとと求めてしまう。そうして拒み方を忘れさせられた上で、安堵材料として接触を許し、太宰さんに手ずから皮膚に毒を塗り込まれて狂わされてしまったから。感覚は麻痺を起こして、他人だった頃に手を握られても突き飛ばさなかった――突き飛ばせなかった。
嗚呼、もしも。もしもこれが生まれた頃から体内に宿っていた力であったなら、元々くっついていた脚や口と同様に歳を重ねる中で操る術を独自に見つけられたろうに。そうあり得ないもしもを夜道で探して惑うのは無意義だと知っているが。このような人間離れした力を植え付けられずに済んだ“もしも”は、思う事はやめたのだから。

私の異能力は後天的なものだった。

……と云うと少なからず語弊が生じてしまう。正確に述べるならば、“他者に自らの特性を与える”繁殖と似通った異能力の影響下に、私はいる。繁殖と言い表すのも、一時的な複製では断じて無い為だ。類稀なる後天性異能力者として得体の知れぬ力に覚醒し、状況把握さえままならないというのに流されるまま職は変わり家も変わり。今尚日常に落とされた影に私は怯えている。

敷布団に組み伏せられた上で唇を押し付けられていた。痩せ型とはいえ自分と同等以上の太宰さんの体重でのしかかられては骨が軋む。息を整える機会を申し出ようにも全身が軟体みたいに力めない。口腔を侵されて舌を嬲られる。上顎に先端が擦りつけられると痺れる脳髄。胸の芽にまで刺激を加えられればもう堪らない。秘めた場所の潤む自覚は既にあった。

「あの……、まだ、でしょうか」

おねだりなんて母に飴をねだる時以来だ。

「正直な子は好きだよ、私」

額で弾ける小鳥のキスの後。
骨を繋ぎ合わせただけみたいな指が引き抜いた薄い包装の避妊具を眼前に突きつけられ、視線を晒そうとするも許しは頂けなかった。「開けて?」と可愛らしくありながらも有無を言わせぬ太宰さんのお願い。避妊具を口に咥えさせて、恥じつつ従う私に自ら封を切らせるとご満足頂けたらしく刻む笑顔を深くした。びり、という破損音に、直後の繋がる事を強烈なまでに知らしめられるのは些か扇情的過ぎて、今すぐにでも掛け布団を引っ張り上げて覆い隠してしまいたい衝動に駆られる。これから熱に浮かされるのだ。

共にいると怖くなる。触れていれば安堵できる。傷つけてしまうのではないかと考える要因は絶たれ、思考の隙間にも愛情を注がれて埋められる。結ばれた時こそが極上の安堵を得られる瞬間だった。
いつか、って。馬鹿げた思考を一つ転がす。
いつか拍動を終える時、この方が側に居てくれたなら。触れて居てくださったなら。いっそ息の根を殺すのがこの方であるのでもいい。私は人として天寿を全う出来るのだろう。そう、触れて頂いて、初めて。


2018/01/21

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