短編

青春フルカウント




平日の夕方。車内の席は仕事帰りの大人達が占領しており、だが皆疲れ果てたように頭を揺らしてばかりで話し声などまるでしない。たまに通る車掌が人形のようになにか町の名前を言っているのを聞くだけだ。
差し込む金色が目を射る窓を流れるのは、自宅へ向かうまでの見慣れた風景。
のどかだな。と、そんな感想を浮かべた僕は、すっかり会話も途絶えたみょうじさんの横顔を改めて目に映す。
彼女と自分の帰宅路が一緒だと知ったのは、まさに今日。駅で杉野と別れた後、改札を通る後ろ姿を見かけ、偶然にも同じ電車に乗る様子だったから自分の方から声をかけたのだ。
クラスでも比較的おとなしい部類に入る彼女が目立つことはない。殺せんせーの暗殺でもサポート役を徹することがほとんどで、誘われれば殺しにかかるものの、自ら率先して暗殺に取り組む姿はあまり見ない。
それを愛想がないと嘆く同級生を何人か見てきたけれど、僕がテスト前の勉強に付き合ってくれないかと申し出た際は快く引き受けてくれたし、要点を押さえた教え方も丁寧だった。
きっと本来の彼女は、心優しい女の子なのだろう――というのが、みょうじなまえに対する渚の印象だ。
……極端に押しに弱いだけなのかも、と感じてしまう場面を目撃することも多いけど。

静けさに浸る耳に、駅の名前を言いながら通る車掌の鼻声がすぐそばで聞こえた。
西陽が床を温める車内は、ふわふわと意識が漂うような心地よさを纏っていて、身体の重心を下へ下へと奪っていく怠さに、負けじと瞼をこじ開けるとつり革を握る腕力を強める。しかしそれでも睡魔とは容赦なく襲いかかってくるもので、視界を閉ざせばオレンジ色の光に優しく覆われた気さえする。
自分が降りる駅はまだ先だ。いっそこのまま寝てしまおうか、などと考えていた時。
突如、がたん、と一際大きな揺れに目を開くと同時に、体勢が崩れ「うわっ」と声を上げていた。
咄嗟に壁に腕をついて支えると、すぐそばでシャンプーが香った気がした。鼻腔を擽る甘い匂いに頬が引き吊ったのが自分でもわかる。
どうやら、やらかしてしまったらしい。その直感は見事に的を得る。
何を隠そう、壁に追い詰められた状態で硬直しているみょうじさんに、覆い被さる体制だったのだ。

戸惑いながらに自身の腕の中に閉じ込められて、身動きが取れずにいる彼女を見れば、僅かに高い位置で視線を泳がせる瞳とかち合った。思わず、目を反らす。
がたん、ごとん。不規則な揺れが高まる心音と重なって。ローカル線のリズムが時々狂いながらも、心地よく身体に刻まれていく。
どうしよう。どうしたら。
浮かぶ言葉はそればかり。

「あの、そろそろ退いて……そこ」

真っ白になっていた頭に控えめな声が差す。
扉越しの世界に背中を預けた彼女の表情は、金色の逆光で影の色――だが、間近で見れば仄かに紅潮していることにも気がついた。
数歩後ろに下がって、沈黙が連れてきた気まずい空気を肌で感じ、敢えて目線を合わせないまま。ごめん、と謝罪の一言口にするが、それが何に対してなのかが自分でもわからない。
壁ドンしちゃった、と茶化してみようとも思ったが、両者に流れるぎこちない空気感から押し留めておく。

「みょうじさんは……どこで降りるの?」
「次の駅だけど……。渚君、もっと先?」
「うん。僕は最後の方なんだ」

にこやかにそう答える内心で、彼女の自然な受け答えとたどたどしくも会話を繋いでくれた事にほっと胸を撫で下ろす。
怒ってはいない、だろうな。反応からして。
むしろ対応に困っているようだ。その原因が自分の不注意だと考えると、責任感に押しつぶされそうになる。

空気を読まない車掌の手動アナウンス。だけど今は、逆にそれがありがたい。
次の停車駅名にぴくりと反応を見せたみょうじさんは、そそくさと反対側の扉へと足を進めて。ゆっくりとホームの景色が見えてくる。ドアが開いて、屋根のない端の方に止まった6号車の前には、並んだ次の乗客の姿はないし、ここで降りるのも彼女だけ。
軽やかな足取りで電車を降りた彼女の背中はホームを立ち去ろうとはせず……それどころかくるりとこちらを振り向いて。


「私、渚君のこと好きだよ」

……………。

はい?

ぷしゅー、と閉まる扉。
息を吐くように自然に出た一言はうっかりすれば聞き流しそうになり、適当に相槌を打ちそうになったところで急に驚愕の大声を上げ、僕はその場で硬直した。花が開くような笑みが蘇り、みるみる内に顔中が湯気が噴き出しそうな程真っ赤に染まる。
言葉の意味を理解したところで、自分の肩から鞄の取っ手がすり抜けて、落下の衝撃が床から靴底に伝わった。
外の景色が横へ流れていき、夕日を背にして佇んでいた少女の姿も窓から完全に消える。
いやちょっと待て。それってどういうこと?
数々の疑問を消化できないままに発車してしまった電車内、窓に顔を押し付けて少年はだんだんと遠のいていくホームの中から、灰色のジャケットを纏う背中に見入っていた。

***

――どうしよう。
先程から、浮かぶ言葉はそればかり。
彼女の席は僕の真後ろで、いつもの朝なら通りすがりに挨拶を交わすくらいはするのだが、しかし昨日を思えばそうもいかない。机に項垂れながら、唸る僕は解決策を見出せずにいた。
“いつも通り”を装って、自然な笑顔でおはようと言えばいいのだろうか。だがそれができるなら、誰も苦労はしないというもので。
どうしたらいいのかわからない。どんな顔で、どんな言葉をかければいいのかわからない。
がらりと扉が開く音。
ああほらほら、試行錯誤を繰り返す間に、登校してきたみょうじさんの足が一歩教室に踏み込んだ。
学校生活という日常にはありふれた、何気ない行動。大きく手を振る倉橋さんに、綺麗な笑顔で返した静かな声は幾つも飛び交う話し声の中で、やけにクリアに耳に届く。鼓膜に心地よい振動を与える、あどけない声にどくりと心臓が波打った。
彼女が脇を通り過ぎると、実際に香ったのかそれとも記憶が蘇ったのか、電車内での仄かに甘い香りを思い出す。
平然とした声色で発せられた「おはよう」に、戸惑いながらも自分も返すが絞り出した声音にどこかにぎこちなさを感じて、恥ずかしさが込み上げる。
がたん、と椅子を引き、鞄を置いて腰を下ろす。

やばい、疑心暗鬼に囚われすぎて、視線を感じるような気がしてきた。自意識過剰にも程がある、そんな訳ないだろうと自分の心に言い聞かせてみるが、故意に意識を別方向へ向けるというのはなかなかに難しく。背中に全神経を集中させていたお陰で、午前の授業はまるで頭に入ってこなかった。

4時間目の終わりを告げる鐘が鳴る。
お待ちかねの昼休み、気分転換がてらイギリスまでミートパイを買いに大空へ飛翔した殺せんせーの背中は、間も無く彼方へと見えなくなった。
緑茶のペットボトルとパンの袋を開け、僕は小さく息をつく。30円引きの代物にしてはなかなかいい色をしたパンを口に入れるが、じんわりと広がったのは期待していたバターのみの無味ではなく、甘酸っぱい苺味。どうやら、こんなにもでかでかと「いちご味」とパッケージに記してあるにも関わらず、間違って買ってきたようだ。
嫌いではないし、別にいいんだけど。
何となく今日は災難だな、なんて黒板に向けた視線。視界の端で、机の合間を縫って近づいてくるカルマ君の姿が散らついたと思えば、彼は僕の席のすぐそばで立ち止まり、口を開く。

「渚君、今日ずっとぼーっとしてたでしょ。なんかあった?」

ポーカーフェイスで覗き込んできた赤い髪にほんの一瞬返答に迷った後で、「……あー、うん。ちょっとね」と主語を隠して曖昧に返しておくと、彼は。

「何々、恋でもしちゃったわけ?」
「――っ!! ……ごふっ、ごっふ」

まさか、そんな事を尋ねてくるなんて思うまい。口に含んだばかりの菓子パンが良く噛まないまま喉を通り、挙句器官に入りかけたのだから災難だ。否定を紡ごうにも咳き込む音が反論を許さず、したり顔で背中をさする彼を睨みつけることしか出来ずにいた。
これじゃあからさまに肯定しているようじゃないか。というか疑惑のかかった本人後ろにいるんだから本当そういうのやめてよ。

「へーえ、渚が? そういうことなら是非とも詳しく聞こうじゃないの」

どこから嗅ぎつけたんだ、中村さん。
脇で悪魔の笑みを浮かべるカルマ君に頬が引き吊った。
ひとまず、落ち着いてからペットボトルを傾けお茶で喉を潤した。

「そういうのじゃないよ。まだわからないし」

真っ先に食いついてきた中村さんはやはり不満気だったが、僕が口を割らないことをどこかで察したらしく、おとなしく身を引いてくれた。ほっと胸を撫で下ろす。
傍を見上げてみれば、「ふーん」と顎に手を添えるカルマ君。

「わからないなら物は試しで付き合ってみるとかすれば?」

その一言を残して踵を返す彼は、彼なりの助言のつもりで言ったのだろうが、その言葉が更に思考を迷走へと導いた。
好きだと告げたのは彼女の方からで、自分には断る権利があって。彼女のことはよく知らない。確かにずっと見ていたが、それが恋愛感情なのかはわからない。嫌いじゃないけど、好きかどうかと聞かれれば……回答に困るというものだ。
“告白されたから、試しに付き合う”。
カルマ君が言い置いたその域までに、自力で辿り着くには幾らか時間が必要で、答えを導き出すのに要する余裕はそれこそ1日では足りないくらい。

どうしよう。口に馴染んだ迷いの心をひっそりとだが、曝け出す。
窓から流れ込む風にカーテンが持ち上がり、散りや埃が舞い上がる。それが超生物の帰宅であることは、言うまでも無く。菓子パンの欠片を口に入れたところで、黒板前に姿を現した黄色い影の殺せんせーへと目をやった。
「おかえりー」と倉橋さんが声をかける。
随分早い帰宅だな、なんて思っていると。

「先生、ミートパイどうだった?」
「それがですねぇ、途中でお財布を忘れていたことに気付きまして……。にゅやっ!? 残りがたったの200円ですとっ!?」

そうだ、この超生物は給料制の万年金欠だった。とても地球を爆破させる国家機密だなんて思えないほどに、がっくりと項垂れた後ろ姿を見て、何故だかはわからない。だけど、午後の授業は幾らか気が楽だった。

***

終礼の鐘が鳴り渡る旧校舎。次々に帰りの支度を始める級友たちの流れに逆らい、僕の席で立ち止まった杉野に肩を叩かれた。振り返って、どうしたのかと問うてみれば、眉間を歪めた彼が謝罪を切り出した。

「悪い、渚。ちょっとこの後、殺せんせーに補修付き合ってもらうからさ、今日一緒に帰れそうもないわ」
「あー、うん。大丈夫。今日は一人で帰るよ」

ごめんな、と再度申し訳なさそうに手を合わせて謝ってくる彼に、「気にしないで」と言葉をかけて、教科書を詰め込んだ鞄に腕を通す。
同じように教室を後にしていく片岡さんと帰りの挨拶を交わし、いつも通りに帰宅路を進んだ。

――そうだ彼女とは通学路が一緒だった。

下山を終えて駅前への道に入ったところで自分の少し前を歩く後ろ姿が目に止まり、幸いなのか不幸なのか、どっち付かずの事態を把握する。
何を考えているのだろう、なんて、ちらりと隣を伺うが夕日の中では彼女の顔色など正確にわかるはずもなく、再び自身の足元に目を落とした所で声がかかった。

「ねぇ」

数メートル先で振り向いたみょうじさんに、少し遅れて自分も歩みを止める。

「あ、なに?」

馬鹿か、僕は。昨日の彼女との別れ方を思えば、この状況で彼女が尋ねてくる事柄などたった一つなはずなのに。
数歩進んで距離を詰め、目の前までやってきたみょうじさんの姿は映像をスロー再生したようにゆっくりと写り、一つ一つの動作に目が奪われる。
ぐい、と襟を掴まれて引き寄せられれば、少女の瞳がすぐそこに。
長い睫毛に、白い肌。ひとを惹きつける魅力。黄昏に色づいたスカートが揺れる。風が鳴る。甘い声が問いかけて、身動きできずにいる様は、まるで魔法にでもかかったよう。

「返事、待ってるのも大変なの」
「えあ、ごめん」
「答え出せた?」

――彼女は、いつも僕の側にいるような気がした。だけどそれは大きな間違いだったのだと、今更ながらに気付かされた。
ふとした瞬間、彼女の姿が自然と目に入るのも、隣に彼女が立っているのも――全部。それが自分の無意識な行動だと悟れば、答えなんて案外すぐに見つかるもので。

「調子いいとか、そういうのじゃ無くて……」

自分ですら本心に気づかないまま、その姿を目で追っていたのだ。
ずっと見ていた。硬い表情筋の僅かな変化を記憶に留めて置きたいという、欲があった。自分だけが知る彼女の一面が増えていくのが嬉しくて……。今だって悪戯地味た笑顔で催促する彼女から垣間見える小悪魔的な部分に、戸惑うと同時に喜んでもいるわけで。うるさいくらいに耳に入る自分の鼓動が、更なる加速を始めたのは多分気のせいではないだろう。
彼女へ抱く好意が無意識に働いての行動、“無意識”の、行動源は何だろう。
自分の心を探り出すように。
答えは単純解明。

「みょうじさんが、好きです」

あなたの側に居たいから。
導き出した回答を口に出してみれば、それは小さな箱が音を立てて開いた瞬間だった。

パシャリ、と切られたシャッター音に背後を振り返った。
携帯のムービーを回した金髪ロングのギャルと、隣では目立つ赤髪がやはり同じくカメラを構え、電柱の陰に隠しきれていない曖昧な関節の不自然な巨漢は間違いなく自分の担任で。ぐるりと周囲を見渡せば、通行人を装って自分たちを囲んでいたのは見慣れた同級生。そこには杉野の姿もあって。
息を飲む。嫌な汗が背筋を伝う。
やばい、聞かれた? 一世一代の告白を? 嘘でしょ……。

「みょうじさん」

余り見せない恥じらいに頬を染めた表情の彼女を見て、場違いにもかわいいなんて単語が浮かんだが、それどころではない。ぎゅ、とその手首を握ると、驚いたように上げられた目と視線がぶつかったので、何度も瞬き揺れる瞳に力強く訴えかけながら。
口を、開いた。

「逃げよう」
「え? ――うわっ!?」

発言と同時に腕を引き、悲鳴を上げた彼女を無視して夕日が温めたコンクリート道路を駆けだした。

暗殺スキルを無駄遣いしないでくれだとか、生徒の恋愛に首を突っ込むなとか、さりげなくメモしてしかもそれを書籍化するみたいなことは冗談でもやめて頂きたいだとか、以前にプライバシーの侵害だとか。言いたいことは山ほどあったけど。
でもそれ以上に、晴れて相思相愛になった彼女ともうしばらく二人きりで過ごしたかったんだ。


2016/04/14
ただ壁ドンをさせたかっただけです。

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