短編

バッタのごとく踊りたまえ


「酷い隈だ」

つつ、と夜露が木の葉のうえを、花びらを閉ざして眠る茎を伝っていく折のような、そこはかとなく慈しみの香るうごきで頬骨や涙袋を愛でられれば。失礼な口とは裏腹の、鎖を連ねたその指の虜になり、子猫さながらにあやされてしまった。情けなくとろけた躰の芯を律するべく、心に平静を蘇らせることを試みる。不毛なりにも。

「……ずっとそばについていてくれたんだろう」

今クラピカは私を案じているのだろうか。
廃墟の草臥れた景色を力のない肩に背負い、「顔を見に来た」と私の元を訪ねてきたクラピカは明らかに疲労が未だ枷として嵌められている重苦しい足取りだったのに。大きな瞳には私よりもずっと深く隈を刻んでいて、部屋に招くのを躊躇さえしたのに。先刻目覚めた折になんて今日を5日だと狂った認識を示していたのに。
クラピカは労わるのだ。私を。

「……そうだよ、センリツもレオリオもずっと看病してた。お礼言ってね」

私は今にも亀裂が入りそうなほど乾いた唇でもごもごと云う。
クラピカとのあいだで結ばれた視線を解くと、すべからく私の頬を包むその手に溺れることになったけれど。構わずクラピカの手に輪郭を沈ませたままで、鈍色の指輪の冷やかさを深呼吸で感じ取る。揺らめき、零れる前髪の陰にこれ幸いにと自身の双眸を隠した。
しかし。

「その二人から君はほとんど寝ずにいたと聞いたんだが? 自分が体を壊したらどうするつもりだ。元も子もないぞ」

真っ直ぐに、恐ろしく透明な善意と献身で告げられてたじろぐ。
ぎくりとばかりにいちど激しく脈打った心臓の所在はこの人に割れているだろうか。そうではないと有難いけれど。

「横になってなくて平気なの?」と、行き場のない己の存在をうやむやにしてしまいたいなどと思いながら、訊ねる私。
「嗚呼、熱は下がったからな。ゴンにも同じことを言われてしまったよ」自嘲を孕んだ微笑みを浮かべるクラピカ。
「当たり前だよ……」
「心配をかけた」

刹那、この世から音という音のことごとくが消滅したとさえ思った。耳障りなものと目障りなものは全て無に化けて、今にも潰えそうな罅割れた廃墟の色相は脳に届かない。
宇宙にふたりぼっちで残されたような、そんな夢心地に酔って、唇を寄せ合った。
私の無力な腕なりに、クラピカの気怠げな腕なりに、檻として互いを閉じ込め合う。そんな抱擁が、いつしか熱を帯びる。持ち主もわからないソファに転がる――これから獣に還る、のか。怜悧なクラピカが帰結するには不相応な終着駅だけれど。
私はキスが永遠ではないことを思い知らされたくはなくて、希うかのようにクラピカを見つめた。
クラピカは吐息と一緒に自身の唇を割り、舌先に語を乗せる。同時に私の唇の線を確かめるようになぞるものだから、口移しに言葉を与えられるみたいで眩んだ。

「目が覚めて、なまえがおはようと笑ってくれた時、私は心底――」

心底――なんだったのだろう――――。私の鼓膜を震わせてくれなかったクラピカの言葉じりは、恐らく私の唇との境ではじけて、泡になって、そして失われたのだ。
そして揃った歩みで、二人して、堕落した。舌を絡めて色めいた蛇同然の駆け引きを重ねる。
ほんの一瞬だけれど、垣間見たクラピカの双眸は激しい緋色に色彩を移ろわせていた。荒ぶる炎が絶叫するその瞬間のように、鮮烈なまでに生命的に。今やこの世界で私一人だけが独占している色欲の色を認めると、瞼を下ろした。
口腔を撫ぜあい、歯を悪戯につつく。奥深くをも欲する獣の舌を甘噛みで窘めてみるけれど、裏顎を探り当てられて間もなく白旗を振った。
熱情を一身に浴びる瞬間は現実世界や真実が遠のくようでおかしくなるけれど、唇同士が剥離すると潮が満ちるように押し寄せる現実――例えば窓の外が酷く明るすぎることだとか――が肌に重く圧し掛かって呼吸を圧迫するから、それにまたキスが永久的ではないことを悲しんでしまうから、息遣いの残響を噛み締めて瞳を開かない。でも残忍なことに厳冬の現実を齎すのは決まってクラピカなのである。
瞑目したまま息を整える私の、溢れていたらしい涙を掬すと、クラピカは。

「最後まで沈黙を決め込むつもりだったのだが……私は明日発つ。最後に君の顔が見たかった」

は、と脊髄反射で瞼を開いたその先で、恋人は淡く笑んでいた。言葉に一度ピリオドを打ったのち、……それだけではすまなくなってしまったが、と決まりが悪そうな面持ちで加えられる言葉は、切なく染まり上がっていた気持ちを僅かに喜ばせる。

「今夜しかないなら、クラピカのことをちゃんと覚えさせて。ちゃんと私に焼き付けて」
「言われなくとも」

煌めきの粒子になって消え去る指輪と鎖。解放されたクラピカの手は些か余裕を欠きつつ私の首筋と鎖骨をその眼界に晒す。

「痕をつけてもいいか?」
「ん、いっぱいいいよ」

律儀な吸血鬼は私に怯えではなく胸の高鳴りを芽吹かせて牙を剥く。襟や髪が隠してくれるばしょに吸いついて。鎖骨を引っ掻くかのようにかぷりと柔らかく歯を立てて。
あかく――緋く、緋く、クラピカの双眸と同じ色で咲かせられていく自身の肌に、浅ましい歓びの滲むため息を零した。
廃墟のなかに差す光は明るくて、私達の肌を焼く道徳的なまでに明るい陽が、私達を一層乱れた獣として浮かび上がらせる。


2019/08/12

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