短編

ハートトリック・モア


アカツメクサ色の巨大な巻き貝の中でクラピカはうたねねに耽っていた。読書中、ついに睡魔に意識を攫われてしまったのだろう、と胸に抱かれた常盤色の本が散りばめるヒントに導かれるまま思考を廻す。

――寝ちゃってる……。私も休ませて貰いに来たんだけどな。

賑わしく漂う幾つもの入道雲も、海面を跳ねる魚も、それを食らう巨大な鳥の群れも、何一つ嫌いなものなんてないけれど、焼かれた肌が軋み始めたし、そろそろこの陽射しから逃れたかったのだ。
海水の雫を光らせたままの四肢に防熱を期待した私が愚かだった。あのままでは総身が砂漠と化していたやもしれない。やはりキルアにチョコレートアイスを貰うんだった、なんて、そんな惨めで無念な死は遂げたくはないし、避難は賢明と云える。
貝殻の出入り口付近の片隅に腰を下しつつ、寛ぎのなかにいる先客を眺めた。パンプキンブラウンのボトムスから伸びる脚が、緩くしなやかに組まれているのだが、はた、とひとつ思うことが。クラピカがこんなにまで肌を晒している様を見かけたことは未だ嘗てない。
ひとたび潮風に触れれば痛んでしまい兼ねない造り物めいた皮膚だった。月明りの深い寵愛に包まれているかのように白く、眩しい手足に眩んでしまいそうになる。
私の赤らんだ腕やら膝やらとは明らかに異なるが、しかし。

――念無しでゾルディック家の門は開けるし、容赦なく人の顔殴るんだよね……。

乾いた喉で苦笑してみる。
そして。海水浴だというのに泳がず、脱がず、本を開いて、巻き貝の陰を陣取るクラピカに、少々、ほんの僅かにだけれど、肩を竦めた。せっかくのセパレートの水着が泣いている。あんまりだ。
私は幼稚な冤罪をクラピカに塗りたくり、その断罪をするかのように、えいっ、とはだしの足裏をくすぐった。

「ふ……、……っ、おい、何をしている」

存外クラピカは弾かれたみたいに飛び起きた。笑い声を塞き止めるためにか、手の甲を唇に押し当てながら私を訝しく眼で射るけれど、目敏い私は聞き逃していない。わはは、足裏が弱点だったのか。

「ただの腹いせだよ」

そう応じつつ、私は敷物に皺を刻み付けながら四つん這いに奥へと進み、未だ上肢を寝かせているクラピカの傍らにだらりと座してみる。それまで貝殻の宿の中央を占領していたクラピカだったけれど、その面持ちには隠し切れない呆れがじっとりと滲んでいたけれど、

「一体何に対してだ。まるで身に覚えがないな」
「私怨」
「お前……」
「苛々しないでよ。というかクラピカ、気持ち良さそうに寝てたねぇ。ぐっすり眠れた?」
「……。君に起こされるまではな」

てっきりこのままそっぽを向かれるのだろうと思っていたのだけれど、クラピカは目線を外すどころかより固く視線を結ぶように私の瞳孔を仰ぐものだから、怯んだ。怯んで、拍子にたじろいで、身を硬直させた私の、この額にクラピカの掌が宛がわれる。吸いつくように触れられ、途端に高まる密着度に、え、と刮目したのも束の間。

「熱いな」

やはり……という口振りで差し向けられた一言。よもや自分はそんなに熟れた林檎のような顔色だったのか、と思うと羞恥で血潮が集い始める。
ぱ、と手が遊離し、心臓が安堵感に包まれた。
熱くなっていくのは気温のせいばかりではない。

「熱が籠っている。水分補給を怠っただろう」
「そんなことは」
「汗で逃げれば同じことだ。とりあえずそれでも飲んでおくといい」

目配せで示される、汗っかきなグラスのアイスティーは南国風のストロー飾りが華やかで、貝の虚ろの空間を彩っている。私がストローに口付けるまでを見届けると、クラピカは満足気に小説に視線を移ろわせた。
待てよ、これクラピカの紅茶なのではないか。遅まきながらそうは思うが、いまとなっては大した問題でもないのだった。
喉を潤しても、クラピカと言葉を交えても、再び太陽を浴びる気力は湧いては来ない。
私は敷物の上に身を投げた。なんだという顔をしていたクラピカにわざとらしい笑顔で返答し、読書に勤しむその肩に蟀谷を寄せる。クラピカの骨の形状と脂質の無さを感じる。薄くも逞しい肉付きは衰えておらず、羨む。
休みなく文字を追い、駆け抜ける理知的な眼差しを盗み見たとき、ばちり、と視線がぶつかり火花が散った。決まりの悪い飼い猫のように私が睫毛を伏せる。
と、不意にクラピカの指が私の髪の流れをなぞった。撫ぜる手は幾度か往復したのち、汗と海水のせいで鎖骨に貼り付いていたおくれ毛を掃う。触れられた箇所があまりに熱を孕むので、骨が融解するのではないかと怖くなる。むねがあつい。
どきり、という私のその心音がこの人の鼓膜を震わせていたのだろうか、はたまた私達が同調してしまっただけなのか。「すまない」とクラピカ。その手は去り際、少々不可解な震えを帯びていて、私の心臓は大層愉快そうに高鳴った。

「……女性が躰を冷やすというのは感心しない」

ふわぁり、とパーカーが虚空に翻り、私の肩にそっと降りる。毛布のように私の上肢を包み、封をするそれはクラピカの照れ隠しの表れだったのだと一拍遅れて悟った。


2019/06/20
カラーページネタ。

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