短編

きらきらと失意が唄っている


ここからは少々離れた酒場と聞き及んでいるけれど、その賑わいが私の元まで届いて、仄かに酸素を揺らめかせている。そんな幻想が一滴だけ零れ落ちた。
クラピカの夜にアルコールが溶かされる折には、私は車と共に夜道を駆ける。血潮と酔いをその健やかとは言い難い華奢さの総身に巡らせ帰還するその人を迎えるべく、運転席でひとり、しんと待つのだ。

――私の個人的な関わりだ。断ってくれて構わない。
――都合がつくのなら頼まれてくれないか。

クラピカの雪像みたいな唇から告げられている様に謂わば任意で、特別な相手の存在も特別な夜の用事も蒸発してしまった私が拒まずにいたから、なんとなく、河を流れる木の葉がどこかの岩陰に行き着くみたいになんとなく、送迎役が板についてしまったという、そんな運びだった。「今夜も君に頼めるか?」と、飲酒運転には断固として身を堕とすまいと誓っているとみる若頭。私は決まって快諾しているわけだけれど、やはりクラピカの勤勉な人物像はあまりにも現職に不相応だと再認識するばかりだ。アンバランスで器用な綱渡りめいたその生き様は酷く愉快で、しかしながら淡くとはいえ事情を伝えられる私は心臓を擦られている心地がする。
ジャックの豆の樹が如く育ちそうになる同情心に瞑目すれば、義務感や報酬の枷無しに軽やかにハンドルに触れる事の出来る、静かな機には違いはない。

今夜は協会の人間の集いの席、十二支んの歓迎会、と教えられたとき、私は心底安堵した。逆説的に綴れば、私が神経を炙られるような相手との席に、過去にクラピカが幾度か座しているということとなり。その折は、あの人ときたら顔色を疲弊の蒼白さに染め上げてもどったものだ。
おひらきの時刻までもう少々猶予がある中、私は回想録の蓋を開いてみる。


――いつかの夜、厳かなオーラのどこかでこころの不愉快さを奏でながら、ドアを開けたクラピカは胸のうちを密やかに垣間見せた。

「……あまり、いい味ではなかったよ」
「そっか……」

そっと落とされたクラピカの独白の、その落下音はそれほど強くは耳朶に触れなかった。
人体収集を嗜む、或いは左様な薄気味悪い嗜好の持ち主と繋がっている、脳の欠け落ちた人間との取引だなんて、クラピカにとってすれば嘔吐感を呼び起こす席以外のなにものでもないんだろう。このひとが躰が引き千切れるのも厭わないほどに切望する奪還には、醜さがどこまでも纏わりつく。
不安感の荒波が空腹に狂って、この世のことごとくを貪り尽くさんという勢いで私に迫る悪夢を錯視しそうになった。
眼差しを伏せて俯くクラピカに、歩を進める自動車の揺れが降りかかった。けれどなすがままのクラピカはくたりと蟀谷を窓硝子に触れ合わせて、振動のままに前髪の形状を崩した。
雨露の潤いを帯びたように艶やかに、また麗しく、首筋を流るるクラピカの稲穂色の髪。悲哀に彩られる美貌は皮肉めいた魅力で見る者に迫る。
鋭さを欠いて虚空に注がれるクラピカの双眸。なんとはなしに盗み見たその眼に、私は血の色を見つけた。

「クラピカ。眼、赤いよ」

大丈夫? ――と、続け様に投げかけようとする私に先んじて。
クラピカは。は、と呼吸を弾ませ瞳孔を開いたかと思うと、左手の指五本で眼窩の周辺を抑え込む。今度は疲弊し項垂れるのではなく、第三者の眼界から遠ざけようと、確かな意志の管理下で俯く首筋。

「ごっ、ごめん! 充血しかけてるよ、って意味……です……。本当にごめん、その意味じゃないの」

己の心臓も、果ては車体までもが委縮する思いで、私は慌てて訂正を紡ぐ。変な方角へ舵を切らないように、ハンドルを握る事にも神経を残しつつ。

「いや……いいんだ。私が過敏になっているんだろう……」

薄気味悪いことを見聞きした後だからと、夜闇に沈められた重々しい響き。残響を掬い上げようと、鼓膜で追いかけようとしたけれど、振り切られてしまった。きっと言葉は深淵に向かったのだろう。
窓硝子の外を走り抜けていく街灯が一瞬浮きあがらせたクラピカの輪郭は、眼を奪うようだった。
私が変わってあげられたらいいのに、と烏滸がましくも無謀を望む。そのよるばかりじゃあなく。もう何度も。これからきっと永遠に祈るのだろう。


――こんこん、と窓の外側ではじけるノックが、私の回想を閉ざした。
真夜中に迷い込んだ白昼夢を断ち切って、外界に佇む金髪の人物を迎え入れるべく錠を外す。ドアが開かれると長らく密閉状態だった車内に鮮やかな外界の香りが流れ込んでくる。

「すまない。思った以上に遅くなってしまった」
「平気。そういうものだよ」

真空管から解放されたみたいだと思った。香りと声と誰かのオーラがこぼれるからやもしれない。
助手席に腰を下したクラピカを横目にエンジンを覚醒させる。唸らせる。発進だ。
クラピカの凪いだように綻んだ口角と、悲しみの色が遠のいたオーラが気になってしかたがなくて。潔癖な印象の強いこの人から香るアルコールに私の拍動はすっかりリズムを変えてしまって。車道の流れに乗った頃、私はひそりと問ってみた。

「もしかして飲み会結構楽しかった?」
「嗚呼――一部のおかげでやや品を欠いたが、たまにはいいのかもしれない。そういえば、レオリオがなまえに会いたがっていたな」
「えー……今更恥ずかしい。煙に巻けないかな……」
「何を恥ずかしがるんだ? 君たちは随分と仲が良かっただろう」
「同期だっていうのにみんなと差がついちゃったし、二人に至ってはもう立場が違うから」
「柵の多い立場になっただけだと思うがな」
「私弱い方だったじゃない。そのうえさらに、だよ。会ったらきっと悲しくなるよ」
「私はいいのか?」
「え、いや、うん。同期と職場でも同期になって雇い主にまでなっちゃったからねぇ。もう驚かないよ」

ふ、と涙を耐え忍ぶまばたきを散らした刹那のことだ。ひかりに眼界の隅っこをくすぐられた気がして、視線の欠片だけをそちらに馳せる。眼にとめたのはクラピカの鎖が蒼く白く淡く輝く花びらに攫われるように消滅した、その瞬間だ。
悟られないため、見せつけている五本指の鈍色――真意を悟られないために、真実の一片を見せつけている。
クラピカの指に鎖が光らないのは、隔離的なシャワールームやベッドルーム、あとは一人きりの空間か親しい人間だけの空間に限る。何にせよ第三者が存在する以上、この人の神経は棘を生やしたまま咲き続けるのだ。
私は。警戒心を紐解くことを許せる何かを紡ぐことができていたのだろうか。信頼に値する人間であれたのだろうか。

「……嬉しそうにしているが、何かあったのか?」
「ん、ちょっと――。ちょっといま、ね」


2019/03/24

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