短編

誰も彼もが天使をさがす日


――いついかなる時も……。
――健やかに……全ての……同胞……喜びを分かち合い、悲しみを分け合い……。
――この…………民を永遠に……この赤き瞳の証と共に――――……。

シャワーの水滴を幾つか引き摺って、バスルームから歩み出た私の耳殻を風のように撫でたのは、その人の音色だった。古びた楽譜、或いは、地図。それみたいにところどころが擦れて、欠けて、でも流星の欠片みたいに麗しく鼓膜に響く。異国の言葉なのに優しく抱擁してくれる。あの人の調べだ。
ほと、ほた。ほと。と私の首筋で弾けてひとつに集っていく、先ほどまで浴びていた人工雨のこどもたち。鎖骨に落っこちてはそこの皮膚の下の繊細な神経を撫でつけているはずなのに、私は朝陽のミルク色を瞼に載せる、瞑目するクラピカに意識の全部を奪われてしまっていて、とっくり、と自身の喉が上下に蠢いていたことにさえ、暫く気づかずにいた。
たおやかに閉ざされる瞳。鼓舞の語調は雄々しくもある。
クラピカの祈りに終止符が打たれたらしいことを、ゆうるり、と持ち上げられる瞼から悟る。厳かな色彩の宿る双眸が現れて、清らかな朝の光を鏡のように反射して、反射光の煌めきのその奥の瞳孔に私の像を結んで。

「嗚呼、上がったのか」

とクラピカの唇が象る。
自分の足音の残響が、クラピカの宝珠の声音を遮蔽してしまう無礼を疎ましく思いながら、私はうんという相槌だとか、お祈りしてたんだね、とかそんなような言葉だとかを落っことして。すとん、と。クラピカが座していたベットの、持て余していると見受けられる部分に並んで座ってみる。

「ねぇ、クルタ族にも言葉があったんだよね」
「嗚呼――」

こっくり、という相槌。短い応答。クラピカから与えられたのはそれっきりで、きっと本来なら私が踏み込んでよかったのもここまでで、踏みとどまるべき地点だって、もしかしなくても此処だったのだろう。
知っている。愛を確かめたがるだなんて贅沢な真似は私はしない。少しうぬぼれて、記してみる。そういうことじゃあないのは、知っているのだ。ただ許されていないのだ。

「教えてって言ったら、」私が切る口火に、はたとして、クラピカが顔を上げる。

「……言ったら、どうする? なんて。怒るよね」

意気地なしは末尾を濁す。クラピカの見つめる景色に少しでも触れたいと願って、頭を捻り、胸から絞り、そうしてかためた勇気は、あっという間に霧散して、方々へと逃げて行った。

「怒りはしないさ」

かつて恐れられたと云う色こそ光らない双眸だったけれど、切なげに凪いだその眼は、射られたこちらの心臓が軋む。

「我々は迫害の対象とされてきた一族だ。滅びたと認識こそされているが――現実に生き残りがたった一人である以上、それも否定はできないが――……理解を深めてしまえば、君にも危険が及ぶ可能性が生じてしまう。一部の宗徒からは怪物を見るような眼を差し向けられてきた眼なのだからな。私としては、あまり勧めたくはないのだが……」

だが?
クラピカが歯切れ悪く区切るだなんて、おまけに悪戯の露呈した幼い子みたいに視線を背けるだなんて。珍しい姿に、私は首を傾げて次を待つ。

「…………教えてくれというなまえの言葉に、悪い気はしなかった……」

それじゃあ……! と、私はわかりやすく顔を輝かせてしまっていたらしい。

「今朝のところは少しだけだ」

つん、と澄ましているクラピカだけれど、明日や明後日、ともすれば今日のお昼の休息で教鞭を手に取ってくれるやもしれない。そんな滲む優しさは全くもって隠しきれてはいないのだ。
「なまえが仕事を終えていればの話だがな」そうは言うけれど。そう言うクラピカが私に容易な事務仕事ばかり押し付けてくるのだけれど。お陰様で私の素晴らしい“証”が誇りに埋もれてしまうのも時間の問題なのだけれど。
並んで座していた私達に介在していた距離なんて僅かなもの。しかしそれも座り直して詰めてしまう。それからほんの少々躰の軸を左へずらして、重心をそちらへと寄せて。半身に負荷をかけると、クラピカが早速取った紙片を覗き込む。
私は、私の知らない、この人の語に触れられるのだ。塀の外を覗くようで、背伸びしてピンヒールに手を伸ばした日の心境が蘇るみたいで、胸が高鳴る。

「例えば、そうだな……この綴りで“祈り”だ」
「さっきのもお祈りだよね」
「そうだ。こう読む――」

音を象るその唇。
次いで戦々恐々音を確かめてみる、この至らない唇。

「“喜ぶ”、“永遠”、“健やか”或いは“健康”……こんなところだろうか」
「これ、さっきのお祈りでも聞こえてきた」
「なまえはいい耳をしているな」
「そうかな。あ、ねぇねぇ、一人称とか二人称は?」
「そうか。すまない。それを先に教えるべきだったな。 “ぼく”、“オレ”、そして“わたし”。これらがそれぞれに該当する。それからこれがクルタの文法なんだが」
「え、……えっ。ちょっと待って」
「わかった、少し難易度を下げよう……」
「うっ、ごめん」
「簡単な動詞を用いた例文……そうだな……こんなところか?」
「……“わたしは、本が、すき”?」
「上出来だ」

尊大な賛美でも、微笑するその人は酷く綺麗なのだから憎めなくて、そんなところが憎らしい。
クラピカが控えめな凹凸の秘めた喉で奏でる声音が愛おしくて、響きのひとつから抑揚のひとかけらまで慈しみたくて、そうでなくたって、この気高い人の存在を差し引いたって、この人の生涯が閉じると共に朽ちるには、クルタの語はあまりに惜しいと思ったのだ。
退廃文学は黄昏のように傾いていく――荒れていく人々の生き様を描き出す。しかしながら、文学そのもの、ひいては言語そのものが退廃、果ては消滅し兼ねないのが私たちの生きる星で、空想なんかじゃあなく、現実だ。
朝靄に攫われてしまいそうなクルタの言葉を失いたくない、と。私は脈絡なんてものは打ち捨てて、願って、希った。
それに。


――わたしは、あなたを、あいする。


私は魔術の引き金さながらに難解なその異語で、拙く、きっと醜く、でも懸命に唱えた。
言葉が滅んでいくのを眼にするのはまっぴらごめんだったし、それに、クラピカを育んだ語でクラピカの鼓膜に触れることができたら、同じ景色を前に出来た瞬間みたいに総身が歓喜で満ちるに違いないと思ったから。
だっていうのに、この人ときたら!
クラピカは笑っていた。柳眉を下げて、唇をいつもより大きく割って、口腔の奥までもを、ちら、と覗かせて。笑っている。

「なんで笑うの!」
「……っ、す、すまない……、つい……。おかしくてな。それは男性が用いる一人称だろう?」
「えっ、間違えてた……!?」
「君が使った一人称は共通語では“オレ”にあたる」
「うそー……」
「笑ってしまったのは、私も悪かったよ」

しかし、とクラピカ。

「朝から驚かされて……いや、喜ばされてばかりだな」

え、と私がまばたきを零した刹那には、クラピカは、「さて」と凛と首筋を正していた。

「時間もなくなる。今朝のところはここまでだな」
「あ、そうだね」
「君は朝食、か。……待て、なまえ。服はきちんと着ろ。釦を掛け違えているぞ」

徐に伸ばされる、シラウオさながらに透いた白の手が私の襟を整える。そんな母親みたいなこと……と、私とは対照を成す、クラピカの整った身なりに唇を尖らせるけれど、委ねて、顎の角度を変えて、甘えて、整えて貰っているのも私だから、なんだかな。


2019/01/22

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