短編

モーニング・ラブ・コール 未だ夢の中


淡い悪夢を千は瞼裏に投映していた。意味深な油絵が描かれたトンネルをゆったりとくぐり抜ける自身と、兎穴の地下世界のような景色――刹那、それら全てが弾け飛び、真夜半のベッドルームで千の自我は再構築される。

――……目、覚めた。いつもは起きられないのに。

語と思案の狭間で千は思った。
冷たいシーツに放られた四肢が嘆く。焦点の定まらない眼界をゆうるりと転じていき、順繰りに寝具の現状を確かめる。カーテンの隙間から忍び込んだ月光に照らされ、煌煌とするシーツの海原。しかし光と影を別ち、皺の畝りを描き出していた。そんな皺の数々は高波さながらに思え、今にも迫ってくるようにも感じられたが、なんてことはない、これは引っ掻き傷である。彼女が、彼女の呼吸と共に乱したそれ。情景と、そして傷跡。
瞼を閉ざすなまえを暫し見つめた後、彼女の裸の肩に、千もまたその様な肩で身を寄せた。緩慢ながら慈しみ深い所作で抱擁する。
白銀の月明かりに濡れるなまえの輪郭線を視線でなぞる。肌をぴたりと重ね合わせ、境を押し潰す。
なまえの幼げな体温も髪の香りもこれまでの人生では腕の中に存在しなかったはずだ。千の、従来の気に召したものしか手元に置かず、愛した人間に愛されていれば構わないという人間性――決して美しき寡欲などではない――を抜きにしては、考えられないが。
夢の続きに浸るように千の脳裏では回想が呼び覚まされる。自分の中に棲まう幾つもの未知のなかの、一体どれがこの子を抱き締めさせたのか。
憂鬱と倦怠を孕む美貌故、周囲は千に無我ではいられない。好きなのだと告げられる機会に巡り合う数も常人からは逸脱していた。なまえの告白も、千の行きずりに不意に花束を贈られるかのような生き様の延長線上に、新たな通過点を配置されたに過ぎない。風が一陣吹いた所為、或いは風が一陣も吹かなかった所為で彼女に触れてみる余力が呼び覚まされたのだろう。なまえのこの丸みのある頬で、いやに水晶色の涙が煌めいていた覚えはあるが。

――どうしてこの子だったんだろう。

千の異性像こそ綺麗な人物だが、しかし片割れと酷く愛くるしい存在には強くは出られない性だ。自分のことである、可愛げな仕草に揺らいだ一瞬があったのやもしれない。さながら子犬の無垢な瞳に乞い願われたように。
どうして。
かわいらしいということの意義や定義を虚空に問っているわけではない。事実、相方にラブリーやキュートといった形容詞が相応しいことはよく知っていた。
なまえの柔らかな髪に鼻先を沈める。手ずから閉じ込めた彼女はこどもの太陽のように温かく柔らかく甘やかだった。ふうわりと扇状に枕に散らばる彼女の髪を毛先から辿れば、頂きの渦にまで登り詰める。曲がりなく渦巻く素直さがかわいらしく、重ねてくちびるのほころびには既視感があった。
ごめんなさい、千さんが好きなんです――あの日なまえは小さな体躯に秘めていた恋慕で千を撃ち抜いたのだ。冥府に独り置き去りにされたような悲愴な双眸が痛ましい光り方をしたことは地震の仰天と共に忘れていない。

――そうだ、この子ったら。僕はまだ何も答えていなかったのに。

にも関わらず彼女は失望で瞳を濡らしていた。
一方的に告白を吐き棄て、押し付け、逃げ去ったなまえとまともに顔を合わせることができたのは数週間後の共演の折。真っ先に頭を下げられ、実に辞令的な謝罪を、感情を剥き出しにして震え切った声音に乗せられた。
偶像として王座に就く千は、勢いだけを携え単身海原に漕ぎ出すべきではない身分だが、あの時は。床に額を吸い寄せられたように深い辞儀。差し出された旋毛がどうにも愛おしく、微笑が零れ落ち、斯くして。
秘密を分かち合あった。
デジタル時計は無機質に表示を切り替えてゆき、千が再び瞼を閉ざした現在、午前3時を少々回ったことを誰に知らせるでもなく、臨機を学ばないまま淡々と時を刻み続けた。


「千さん、起きて。起きてください、朝ですよー。千さん」

なまえは安らかに眠る恋人の低体温な肩を揺すり、覚醒を求め続けていた。対する千の眠った脳は、そんななまえの声音さえ判別できず、スヌーズにしては気遣いのある音とだけ認識していたのだが。やがて意識も浮上し空気に触れ、徐々に解凍されていくとハミングの音色のような肉声で囁かれているのだと解した。霞んだ脳を廻し、更に首をも回し、睫毛を震わせる。

「おはようございます、千さん」
「ん……おはよう……」

乾燥した眼球を転がし、なまえの像を目の奥で映し出した。

「朝ご飯、ご用意したんです。千さんほど美味しいものじゃあありまけんけれど……。召し上がってください」
「ありがとう。早起きだね」
「いえ、そんな。朝はすぐに食べられないのでしたっけ。あっ、その前に起きられますか?」
「うん、なんとか」

千は気怠げに上肢をベッドから遊離させ、次いで両の足裏の皮膚を床に密着させる。重心を預ける先をしっかりとさせた後、漸くの起立を遂げた。 整えられた銀髪はひとまず指で梳き、くあ、とあくびをひとつ。一つの動作を行うにつき1度は必ず欠伸か嘆息を挟み込みながらも、彼は洗顔を無事終えた。
テーブルに並ぶ若草色の品々は拘り抜かれてこそいないものの、千の嗜好に寄り添われた手料理だった。それらを一瞥し、グラスの水を控えめに一口分だけ口に含む。
なまえが、千の所有物のエプロンを定位置に戻して舞い戻り、席に着く。どうぞ、と清々しく微笑まれ、思い出したように彼女と共に手を合わせ、「頂きます」の声音を重ねた。
ふたくち、みくち、と咀嚼し終えたところで千が言葉を奏で始めるのは常である。彼はそういえば、と口火を切り。

「そういえば、今日は僕の方が早く起きたんだよ」
「ふふっ、そうなんですか?」
「そう、3時頃だったかな」
「寝られました?」
「すぐに寝てた。それから、そう、いい頭の形をしてるなと思ったよ」
「私がですか?」
「うん。特につむじのあたりとか」
「あ、ありがとうございます……?」
「いいえ」

睫毛を伏し目がちに千は箸を流麗に操り、はくり、アボカドを食む。


2018/09/08

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