短編

湖の底で鴎になって凍えているのだろう


靴底で水溜りを踏み割れば、飛び散る破片が裾に突き刺さり、染みていく。
真っ直ぐに降りてくるような雨が、僕の蝙蝠傘に体当たりをしたり引っ掻いたりをしていた。
家路を急ぐ人々もせかせかと動く脚を晒して濡らしているだけだ。皆顔を傘の陰に隠して、視線で何を貫いているかは秘めてしまって。僕がありのまま――大袈裟に記してみる――の姿を晒せる日も、一般市民の肩書きを捨てた今では珍しい。
車のライトもコンクリートに薄張りする湖面にひっくり返って写れば光の柱になる。目を穿つ眩さで。波紋は美しい二重や三重になって、規則的に並べられる着物の波紋柄さながら。
あの、すみません、と。ゆきずりの声が、閉じた世界だった傘の影に投じられる。職業病が磨き上げた反射神経でか、「はい、なんでしょう」と応じた僕は、声を低めていた。
傘の外から声をかけてきたその人は、この辺りでスマホ見かけませんでしたかと弾む吐息で僕に問う。失くし物を探して駆け回っているようだったが、しかし僕は携帯端末なんて大切なものが転がっているところは見てはおらず。首を振ると、傘の外の人はありがとうございましたと言い置いて去った。水溜りを蹴り飛ばして。
僕は徐に眼球を流した。眼界の隅へと視線を転じた先で佇んでいた彼女を、例え数舜でも機が重なり合わなければ僕は見つけられてはいなかっただろう。なまえさんだ、と脳裏に認識を結んでしまえば歩みも続けていられない。ブラウスの肩を濡らして睫毛を伏せる姿は、モノクロームの雨天に透いていくようであるのに、どうしてか一瞬のうちに僕の意識を盗み取る。陽光と彩りの中に住まう彼女の、何かを憂うような佇まいは僕の胸の中の判然としない感情を揺さぶり、蠢かせるのだ。
景色を逆さまに閉じ込める雫が一滴、露先から足を滑らせたかのように落ちていく。点在する小さな湖のひとつに、その一滴が落ちて砕けて、全方位に飛沫き、冠か、それか天使の硝子飾りのような一瞬を描き出し、刹那、朽ちる。――その拍子に、なのだろうか。僕らは人波の頭上の虚空で視線を交える。
傘を差す深さを前髪の長さに重ねて、人々に僕の存在についての確信を与えてしまわないように多くは晒さず、なまえさんに唇の弧だけで微笑んで見せた。彼女の方からも同じく表情の変化だけで応答を貰う。
なまえさんの元へ、人の歩む流れに横からお邪魔して突っ切らせて貰おうとすると、訝しげな口元が傘のなかから窺い知れた。怪訝がって、迷惑そうに誰もかれもがそうなのだ。だから恐らく僕は顔を上げて堂々と歩くことだってできただろう。けれど、ひとり雨に打たれる女の子を誰も認めさえしないのは哀しい事だとも思う。

「なまえさん、傘はどうしたの?」
「忘れてきてしまいました」
「朝からずっと降っていたのにかい?」
「それがどこかに置いてきてしまいまして……」
「うっかり屋だね」

雨だとみんな忘れ物をするのかもしれない。

「濡れてしまうよ。入って」
「大丈夫です。壮五さんが濡れてしまわれるでしょう。大切なアイドルに風邪なんて引かせられません」
「少しの恋人扱いも許しては貰えないかな」

はにかみ屋の頬は僕が恥じらいたくなるくらい染まり、素直さと初々しさを象徴する。でもなまえさんの生真面目さは外でのそういった行為は認められないようで黙した。

「こんな雨だから、大丈夫、きっと誰も見ていない」

それに、と繋いで。

「なまえさんが具合を悪くした方が悲しいよ」

ねぇ、入って。
墓に、無垢な百合の花束でも手向ける気分だった。
なまえさんを迎え入れれば、彼女は僕と同じ濃さの影に包まれる。なすがまま、されるがまま、僕が勝手にハンカチをその肩に宛ててもだ。すみません、と言うものだから「謝らなくていいんだよ。男物は広いしね」と返した。でももしかすると平素の僕もこんな風に感謝に先立って謝罪しがちなのかもしれない。

「こんなに濡れてしまって、寒かったでしょう」

なまえさんはいえ……と遠慮がちな微音を呟くが、顔を上げなかった。
そんな彼女の目尻に腫れの赤が滲んでいる。酩酊した兎みたいな、濡らした痕跡。

「ねぇ、なまえさん――ひょっとして、泣いていたの?」

ふるふる、とかぶりを弱く振り乱される。違います、そうじゃありませんから、と。
嘘。
もうそこにはない粒だけど、男の親指で拭うのは擦り付けるようで、繊細なその皮膚には痛そうで躊躇われた。猫背さながらに曲げた人差し指の第二関節をそっと寄せ、僕がそのとき隣で拭って上げられていたら、と乾いた跡にもしもを願う。
どうして。
哀しさを帯びた疑問符は雨音が攫って、なまえさんの耳殻には届かず仕舞いだっただろう。

「大丈夫だよ」

頭ばかりを守って下肢は無防備にもそのまんまな連中なのだ、彼等も、僕らも。
ぱしゃぱしゃと魚のように駆け抜ける人がいたところで、その人のカラフルな傘の茸みたいなシルエットを、別な誰かが傘越しに威嚇するだけで。誰も彼も自ら携えた閉鎖空間で、湿る鼻腔に幽かな苛立ちだけをくすぶらせて家路を急ぐばかりなのだから。
誰の街並みにも誰もいやしないのだ。失くし物さえしなければ、群れに取り残されることもない。
だから大丈夫。大丈夫――。

「誰も見ていない」


2018/08/13

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