短編

いつだってきみとエキストラだけの、まるでうつくしい世界 わたしの瞳に射す光芒


南国の海から連れ去った色彩豊かな小魚の群れ。海の断面図そのものであるアクアリウムの眼を奪う紺碧。
深海の波を切り抜いたキュラソウに通じるこの色も、実年齢や透明なアクリル硝子を隔てるだけで触れさせてすら貰えないところも。カクテルグラス――なんて、つい去年までは大人びた雑誌をめぐり、眺めたくらいだけど――が並べられているかのようだ。
水槽に張り付き、悠然と独り立ちをする小判鮫が愛おしく僕らは破顔する。鬣のような吸盤で水槽に食らいつき、存在し続ける小判鮫。よくよく眺めてみると躰の側面を稲妻のように走る黒線模様は、瞳をも貫いており、途切れることなく続いていた。アクリル越しに手を宛てがっておこぼれにあずかるその子を指先で撫でてみると、淡く反射する自分の写し身と手を合わせる形になる。隣のなまえさんもまた鏡水の己と双眸をかち合わせて、見つめ直した刹那、思い出したようにはたとその神経を緊張感にぴんと張らさせる。――けれど。
手元を仄かに染む薄暗がりと、破れたステンドグラスのように揺らぐ光。そして硝子中を旅する魚達の影より、ゆうるりと巡る人々。平日とはいえ足音は常に響き、人影も翻されるというのに存外誰とも視線が交差しないのだ。
みんながみんな同じ様な視線の高低を持ち、各々楽な高さや角度から眺めているのに視線は交わらない。

「――ね。案外誰も見ていないんだ」

みたい、ですね。案外、と彼女は語尾で反芻をした。
ひとたびアクアリウムに佇めば、名前と顔を少し響かせる程度の僕くらい、視線は透過するらしい。
一生懸命潜んで、忍んで。如何に一切れの枝として樹林にどう息を潜めようかと思案していた昨日の交差点もいっそ愚かしく思えるほど、僕らは透明で、そして人の関心の淡さというものを思い知らされる。何もそこまで怯えなくたって、視線というものは心臓を貫き抉り出す狂気的な存在では無かったのだから。

「なまえさん、あっちにはクリオネもいるみたいだよ」
「本当だ。あ、ドクターフィッシュの水槽もありますよ。懐かしい……」
「くすぐったいんだよね」
「触れるみたいですが……やっちゃいますか?」
「うーん……、もうそんな歳じゃないかな」

なまえさんも僕も、もうドクターフィッシュの水槽に指先を突っ込める無邪気な歳でもなかったけれど、代わりに水族館内を時間をかけて歩いてみたり、クリオネをゆったり遠巻きに眺めてみたりをしていた。「結構かわいいね」「以外にかわいいですね」なんて笑い合いながら。

「ここ、館内にカフェがあるんだって。あとで行ってみないかい?」
「そうなんですか! お魚を見ながらお茶できるなんて素敵です。絶対行かなきゃですね」
「ペンギンフラッペがおいしいみたいだよ」

ほころびはほころびを誘う。本日何度目かの笑顔の誘発と、微笑み合い。
事前に調べることが嗜好というのは不本意な勘違いだけれど、今にも踊り出しそうな気持ちでカフェやレストランの星を数えていたのは否定はしない。なまえさんの笑窪を少しでも多く数えられるのなら――1日分でも僕が独り占めできるのなら、と。よこしまにも考えてしまって、昨夜もスクロールする指は軽やかだった。

そんな折、ぱたぱた、と足音が響き出す。疎らにいた恋人客や家族客の向かう先が同じ方向に定まり、靴の音色が幾つか連なって流れていく。

「なんでしょう……」
「どうしたんだろうね」

きょろり、と二人して移ろっていく人々を伺っていれば、頭上のスピーカーから短い旋律が降りてくる。衝動的に仰がせる――例に違わず僕らも仰いでいた――メロディに続くアナウンスが、数分後に始まるらしいペンギンのお散歩イベントを告知する。
翼をぱたぱたさせ、もっちりとした下肢で懸命に歩くペンギン達はさぞかわいいことだろうけれど。その周囲に多くの客が集うワンシーンを僕は脳裏に描き出す。馴染みのない景色さえ鮮明に想像できる心配性はリアリズムが漲り、夢見がちにはなれなくて。

「難しい、よね」

なまえさんを人の目に晒す危険性と、挑みたい気持ちが削がれる悲しさの狭間に立つけれど、天秤を揺らすまでも無かった。
喜色の光を灯していたなまえさんの目もほんの僅かに伏せられる。聞き分けのいいよいこのくちびるで、彼女は苦笑気味ながら僕に共鳴した。

「とにかくここは人が多いから離れよう。少し危ない」
「は、はい。……あっ、壮五さん、一度別れてからどこかで合流した方がいいかもしれません。少し危ない、ですから」
「あぁ、そうだね。その方がいいかもしれない」

僕のワンフレーズをリピートするや否や、彼女はそろそろと僕と距離を置き、その距離感の中に他人用パーソナルスペースを詰め込んでいく。
じゃあ、この階のお手洗いで、という運びとなり、お互い爪先を別々の方向へと差し向けた。

――なんだか、な。どうにも事がうまくは運ばない。
嘆息は、大人に許された静かな嘆き。だけれど、変装用のマスクの内側に熱い自分の息が籠ってしまって、外そうにも外せるものでもなく、鼻先と唇を突く不快感に耐える。
学生から羽化して緊張に身を焦がすことの方が珍しくても、やっぱり僕も翼を持つ特権のように浮かれていたのだ、舞い上がっていたのだ。同じ瞬間を吸い込んでいたかった。せっかくなまえさんの時間を貰うんだから、楽しく過ごして欲しいと思った――僕が彼女に笑って欲しかった。
常に全方位から目撃されている暮らしは幸運でこそあるけれど、なまえさんを晒し者にするものであってはいけない。どうしたって人眼は忍ばなければならないわけで。行き先を絞られて、諦めることも強いられる。なんだか、なぁ。
ふらりと魚と戯れに来た孤独な花粉症男子大学生の足取りを装い、回り道をしながら僕は徐々に人の波から外れていく。
そうして。ひらひらと控えめに掌を振ってくれるなまえさんと、あまりエレガンスや色香のない場所にて、本日二度目の待ち合わせを果たしたのだった。
「お待たせ、なまえさん」僕の声音を境に、温度が切り替わる。

「やっぱり、ペンギンが残念だったね」
「そうですが……でも充分楽しめましたから。壮五さんがお店を調べてくださっていらしたの、嬉しかったですよ」
「本当? そう言って貰えて嬉しいよ」
「大変だったり、しませんでしたか」
「ううん、苦じゃなかったよ。だから気にしないで。せっかくなまえさんの時間を貰うんだから、楽しく過ごして欲しいと思った――僕がキミに笑って欲しかったんだ」

「僕ももう少し格好良くエスコートとか、できたらよかったんだけど……」
「そんな、壮五さんはいつも格好いいです」
「ふふ、なまえさんは優しいね」

これでも、ね。理想の、とは言わないまでも、素敵な時間を贈りたくって頑張っていたんだ。
いたの、だけど。
なんだかなぁ。

「なかなかうまくはいかないね」


2018/08/12

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