短編

アメジストは皮肉に等しい


紫陽花色と視線が絡んで、ほどけるまでにいつもより多く秒を詠んだ。

「なまえさん。キスしてもいいかな」

瞼が瞳孔を逃がそうとして、眼界から愛しい人を追いやろうとして、だけれどいちどの瞬き止まりでただ結んでひらいて揺れるだけ。こんなにも真摯に射抜かれては敵わない。余所見の詠唱も私は持たないのだから。
意図せず迫られた折には突き飛ばして逃げろだとか、破れ鐘の咆哮を絞り出せだとか、メディアや心配性の父に教え込まれてはきたけれど。不本意のそれの突っぱね方は幾らだって頭に刻まれているのに、その限りではない淑やかな承諾に関して私は無知だ。
私はどうにも恥ずかしくって唇を蕾みたいに閉ざしてしまう。困ったまま、精一杯のこっくりをして。そうして唇ばかりでなく瞼もどこもかしこも蕾にしてしまった。閉ざす事さえぎこちなく、瞼裏に結ばれる壮五さんの虚像に血潮を沸騰させる。
視覚を閉ざして、外界から受ける情報量が減らされる分、その隙間に胎内で生まれる音やら何やらが敷き詰められて、死角から撃たれているみたいだ。毛細血管の隅々にまで行き渡る拍動を耳殻から知らしめられてしまって。
自分の緊張感で手一杯になっている神経を、肌の外側から壮五さんが刺激すれば。ほんの一瞬の体温の重なりで、すべてが昇華を遂げたのだった。
恋物語を彩るキスシーンそのものだった。焦がれて憧れて、少女らしく幾度も創造に身を投じたり重ねたりをしてきた映画の住人になったみたいに。
明かりのもとでは静やかで物悲しい恋歌を歌い上げて、幕が降りれば謝辞を丁寧に述べる、その口で壮五さんは私を愛してくれたのだ。
くちびるから注がれたばかりの熱病に侵される私は、ゆうるりと、眼球の幕を引き上げていく。瞳孔を酸素に触れさせて、最初に眼界を彩ってくれる大粒のアメジストは、雨上がりに輝く花みたいに鮮やかだった。
壮五さんの瞳孔の紫陽花色を“家族愛”の宝珠に喩えるだなんて皮肉に等しい愚行であったやもしれない。けれど、あれも元は葡萄酒を注がれた水晶だ。今の私は酷く酩酊しているし、違いは、きっと、ない。
ぼんやり、と。魅入られ、魅入る。

「もう少し、いいかい?」

承諾は震えてしまったけれど、同時に零れ落ちていった吐息も声音と同じ温度で、重さで。熱くて、床にまで沈むほど重く、心にずしんと衝撃を見舞う。そりゃあもう甘ったるく。
さなかに舌が触れ合った。こんなに濡れそぼった遣り取りはもっと男性優位に貪られるものだと、卑しい私は想像力だけで恥じたり怯えたりをしていたけれど――それとも壮五さんだから、なのだろうか――同時に指先にもどこもかしこも慈しまれる。
あばら骨をくすぐられるようだった。硝子の兎を愛でるような儚げな指先だというのに、私を熱くして、色めかせる。
ざらめいた上顎を舌先に這われると劈かれるように神経が締め付けの痛みに近い感覚がした。肩と鼓動が跳ね上がる。
もうちょっとだけ、というように濡れた戯れを求められた。勢いが増し、なんだか雰囲気が変わり切ってしまって、そのまま加速して。

「苦し……っ、です……」
「あぁ、ごめんね。つい――」

興奮しちゃって。

鼓膜を震わす穏やかではないハイトーンボイスを疑った。心臓が波打つ、跳ね上がる。今の本当に壮五さんが仰ったことなの。
幻聴か否かも確かめられないまま、引き戻されて私は甘美な波に揉まれるだけだった。
撫であったり撫でられたり、啄ばみ程度に吸われてみたりを繰り返しているのは変わりは無いのに、なんだか矢継ぎ早になっていって、隙間を見つけても朦朧する意識ではその機に合わせて呼吸をするなんて真似は難しく。
酸欠、の名称が迫る中で。

「うん……、苦しいよね、辛いよね、ごめんね」

謝罪する唇を再び寄せながら、やめる気配はない。
平素の柔和な、或いは柔弱な物腰を押し退けるようにして今垣間見えるものは、真実で違いないのだろうか。仄かに儚い色素と肩の華奢さはともすれば中性的ですらあるのに。幻惑でもされておかしくされているのではと疑いたがっている自分は、どれだけの信頼を壮五さんの背に肩に預けていたのだろう。星空のカーテンはひとつの認識を砕けるだけの影響力を備えていたのか。
欲で砕け散った意識の、欠けら程度で私は驚いていた。熱を孕む壮五さんの双眸にも、その熱量に置いてけぼりを食らっていない自分にも、だ。求められる事を喜んで、その上同じくらい求めていた。お互いに相手の熱に比例して熱くなり惑わされていくから、咎めるものも不在の今はどんどんと急上昇していくのだ。
大変な事をしてしまっている、のだろう。そうなのだろうな。でももう、罪はただ重ねるに過ぎなくになってしまった。

鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす、に留まるばかりだと思っていたけれど。細かな心配事ほど語り、反して大事件は口籠る――重ねて、独り爆弾を抱え込んだままどこからか身を投げて自分だけを滅ぼそうとする。
優しくて律儀でけれど何より壮五さんは冷徹なまでに合理主義的でもあるのだ。悪いようになるのが自分だけであるのなら、甘んじて受け入れようとすらしてしまうし、自己を中心に置かない損得勘定のその先では、ビルヂングからだって身を翻せる。狂っている度胸と、それの凄まじさに私達は幾度となく救われてきたけれど。
風向きがおかしくない時だって危うい肝っ魂は歩幅や呼吸に滲んでいる。少しノックを繰り返して、大丈夫だと確かめてからようやっと進む、吊り橋だって叩いてからというところだ。“慎重”のひとことで片付かないのは、例えば。少し今までの積み重ねが崩れると、もういいや、とどんな失敗も過失もなんとも思わなくなってしまうような。旅行企画中に数十万なんて馬鹿げた予算が示されてしまうと、旅行先での数万規模の浪費もささやかに感じられてしまう心理に、少しの危うさが織り交ぜられて壮五さんの中にある。
塗れたキスは罪深いからと、何かが吹っ切れてしまっているやもしれない――それは勿論、私達二人お互いになのだけど。
壮五さんは、沢山の制約が猫の毛のように絡んだ真面目な性分で、やや潔癖で極端だ。
そして私も、平均的な勤勉さで生きてきた以上、彼の人間性に通ずる部分は少なからず持ち合わせているわけで。
誰のものになってもいけないにも関わらず、こうして私と触れ合っている――みんなの逢坂壮五さんにも関わらず、視線を独り占めして触れ合っている。
もう自分のちょっとしたペンキ汚れなんかは意にも止めてはおらず、今ならきっと、どうでもいいや、と泥沼に身を投じられる。


「本当に、いいんだね?」

頷く――優しい人だ。容貌や印象との不相応さが恐ろしくなるくらい剥き出しにして、双眸を爛々とさせているのに。
真珠色の鬢に指先を差し入れた。指で掬い取ってみると、一瞬とどまるもやがてはするりと落っこちて逃げていってしまう、癖の僅かなメインクーンの髪質。逃避だってままならない。

「壮五さん……。私、壮五さんなら、いいんです。どうにかされてしまったって構いません。大好きですから」

「ありがとう、身を委ねてくれているんだね」と切なげに微笑した後で、「だけど」と躊躇う彼の息吹が降りてきた。

「今ならまだやめてあげられる。僕はなまえさんを傷つけることは何があってもしたくない――でもできそうにない。それに、やっぱり……僕は――。ステージにいたのでは庇うことも難しいから」
「――壮五さん」

肉付きの薄い頬を両の手で包んで、真っ直ぐに。角度も肯定も違わせずに私は視線を結ぶ。

「……壮五さんがお優しいのは充分存じていますし、大好きです。でもこのままじゃあ私ひとりが悪女になってしまいます。自分のマネジメントするアイドルをたぶらかした魔性の女、って」
「……そうだね。僕たちは共犯者だったね」

一緒に悪い事、しましょう。
おてて繋いで、赤信号を超えるのだ。


2018/08/09

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