短編

甘い酸素を吐いている


鼓膜を引っ掻く水流の音にぼんやりと耳を傾けていた。湯船の淵に腕と顎を乗せていると使用中のシャワーの飛沫が私の頬にとんでくる。が、それを気に止めることはせず、否、できずに私はただ眼前の真緒を見つめるばかりだった。
手を伸ばせば触れられる距離にいる少年から、括り付けられてしまったように視線が反らせない。滑らかな乳白色の肌の上を伝う雫の一滴すら人を惑わせる魔力を秘めているようで。つう、と緩やかに降りていく水の筋を追いかける。剥き出しの、しなやかに肉付いた腰や背中は細身で、でも逞しくて。そこに色気を見出してしまうのは私の目が彼をいかがわしく見てしまっているからだと思うと何だか居た堪れない。視界の所々に浮かぶ湯煙が裸体を直視することを許さず、それが残念なような逆にありがたいような。
今目の前にいるのはアイドルの衣更真緒でも学生の衣更でもない。いささか長過ぎとも思える前髪を雫と共に額に流して、一糸纏わぬ――そう、生まれたまんま、なのだと。使い古した言い回しを胸中に転がしてみる。
きゅう、と蛇口を捻る音が上がり、はっとそれに引き戻された。

「なまえー。入るぞ」

温かく湿った浴室内で放たれた彼の声は形を歪めて耳元に届く。
波紋が広がり、波がここまで寄せてきた。弾ける水音に、膝を抱える私はいっそのこと消えてしまいたいと背を丸めて少しでも身体を小さく見せようとする。大して質量のない胸が膝との間に挟まれ、ぐにゅ、と潰れた。
一般家庭に設置されているような極々普通の湯船では男子高校生と共に浸かるには狭すぎた。というのは表面上の言い訳だ。真緒に背を向ける形で隅の方に身を置く私の脳を埋め尽くすのは恥じらいのたった4文字だが、この恥ずかしさは何百何千の文字をもってしても言い表せないに違いない。

「どうした?」ゆわん、と浴室の空気に形を変えられ後ろからかかる声。

「ん……、別に、なんでも、ないよ」
「なんでもなくはないだろ。恥ずかしがってるのか?」
「そりゃあ私だって人並みの恥じらいぐらいありますよ……」

もごもご、と消え入る語尾。背後から大雑把に息を吐き出す音が聞こえた。

「一応言っとくけどな、俺は冗談だったぞ。……一緒に風呂入るとか」

ざぶ。真緒が姿勢を変えたのか、音に伴って波の形に水面が動き。肩に重みが預けられた。緋色の糸に耳を擽られ、瞬時、真緒の頭だと理解する。首筋の線を唇になぞられ、ぞく、と肌が粟立つ。背後から触れてくる胸板の感触に、腰に回された腕に、吐息の近さに――くらくらと目眩が起こる。

「触りたい」
「――。っ、……もう触ってるよ」
「それはそうなんだけど。もっと、触りたい。駄目か?」

駄目か、なんて訊かれて私が拒否を紡げない事を知っているはずなのに其れでも問ってくるのだから彼は本当にずるい人だ。なまえ、と呼ばれて横目で真緒を見やると見た目によらず硬い手に顔を抑えられ、ちう、と唇に吸い付かれた。音を立てて頭が爆発する。
満ちる湿気とは裏腹に乾燥しきった喉の奥から声を引っ張り出すと、それは不自然に響いて濡れた空気を揺らした。

「もっと、って……それだけ……?」

ちっちゃい子供じゃあ、ないんだからさ。
後ろを振り返りながらという妙な体勢で、もう一度。


2017/04/03

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