短編

05.沙羅双樹を煮詰めたジャムで朝食を


その痛みを私は知らない。

陽炎の中で姉と弟がボールを打ち合っていた。打ち出され、放物線を描いて相手の手の中に収まる、バレーボールの真似事だ。まどろっこしい。互いに初心者、コントロールがうまく行かずにボールをあらぬ方向へ飛ばしてしまうのも仕方がない。
取って来るよ、と姉が言う。其れに対して弟が首を振った。自分が行く、と。弟が一度言い出すと聞かない性格なのは知っていた。子供のくせして浮かべるませた苦笑で送り出し、直後、走り出した背中の先に見つけたものに目を見張る。
青褪めたのは信号ではない。歩行者用の信号機は赤く変わってこちらに来るなと告げている。
だめ、と戦慄く唇で悲鳴を象るも間に合わない。
淡く儚い断末魔を切り裂いて鼓膜を貫く轟音。硝子が砕ける音の波紋が骨を伝わる。薄い金属をこすり合せるような音を引きずりかけられるブレーキの彼方、おねえちゃん――呼ばれたように錯覚したのはやはり錯覚だったのだろう。
あり得ない場の閑散さに己の心音が早鐘の鼓動を打ち鳴らす。
響く蝉の喚きは脳を揺さぶるようだった。たん、たん、と弾むボールが道路を汚す赤を広げていった。夏の夕景を彩る鮮血がただ絶望的に、悲劇的に眼を直撃した。

死の間際に彼が感じ、見ていたものを例え彼が血を分けた弟であっても、私は知らないまま。

***

昔の夢から覚めた直後はまだ掌に残る触覚を握りしめるのが癖だった。
ひく、と指を動かす。離れないで、行かないで、と悪夢の忘れ物を掴もうとする。しかしどんなに頑張ったところで、繰り返したところで触れない事は知っていた。それでも私は繰り返す。わかっていながら未練がましく過去に縋ろうとする。
指は虚空に留まらず――触れた。
神経を駆け巡る電流に人の体温を知覚する。ぴく、瞬くと同時に指先が跳ねた。握っているんじゃない、握られている。骨張った大きな手に包まれているのは私の方だ。
薄く開いた目に飛びつく赤い髪。ぎゅう、と強く握られて。かち合った相手の瞳が一瞬だけ瞼の奥に隠されると耳に馴染んだ声――しかし幾らも柔らかな声色――に呼び掛けられた。

「……真緒?」
「あぁ、起きたか」
「え、なんでいるの」
「いたら悪いか? てか玄関開けたのお前だし。不法侵入じゃねぇぞ」
「んん……そうだっけ……」
「おいおい大丈夫かよ。危ねぇなぁ」

焦点の合わない両眼に霞がかった自室の天井を映す。ウィルスの奇襲に屈したのは昨晩だったように思う。それらしい原因や心当たりといえばライブの人混みくらいだが。あぁ、それに妙な責任感でも覚えて多忙に多忙を極めた彼がわざわざ見舞いに足を運んでくれたのか。曖昧な輪郭で視界の中に存在する真緒を一瞥し、額に乗った汗を拭う。
身体が熱い。全身を内側から焼かれているみたいだ。揺れ動く重心に無知を打ってシーツから背を離す。普段以上の気怠さと重力の言いなりにはなるまいと上体を持ち上げた。

「無理すんなって。まだ顔青い」
「これでも大分良くなったよ。今朝なんて顔、緑茶色だったし」
「緑茶色……」
「やめて、想像しないで!」
「いやでも緑茶色って」
「何かわからないけど吐き気起こすとそうなるんだよ。それより真緒、なんでいるの?」
「だーから、入れたのはなまえ」
「それもだけど、違う。……私言ったよね、時間ちょうだいって。なのに、どうして来てるのかな」

軽く肩を押されてゆっくりとベッドに押し戻される。大きな手は世話焼き性のそれらしく肩まで掛け布団を引っ張ってくれる。

「風邪引くと人肌恋しくなる、って。言ってたの、なまえだろ?」

中学の頃の話じゃない、と消え入りそうな声量で零すのは自分の中に生じた恥じらいの情を誰より自分が認めたくはなかったから。
濡れた前髪を払われて、ひたり、当てられた掌が持つのは平常な温度であるはずなのに冷水にでも晒され続けたのではと疑いたくなる温度差がある。そこに重ねた自分の手、力の入らない指だったがぎゅうと握る。滑らかな肌の上から骨をなぞって、男の人の線を確かめる。

「……私、本当は真緒のこと好きじゃなかった」

知ってた、と声が落ちて来る。

「ごめんね」

「んで、謝んだよ……」響く声音は強く押し出すように鼓膜にぶつかった。

「――ごめんなさい」

何故謝るのかという問いに返すよりも前にまず謝らなくてもいい理由が私はわからないのだ。
ずっと側にいて、愛でも何でも欲しがる言葉を囁いてあげることが私に出来ることだと思っていた。自分は彼にとっての逃げる場所で安心毛布だと、そう思っていた。だがその前に。歪んでいたのも、寄りかかり切っていたのも私の方。私は与える人間ではない、依存される事に依存した、与えていると思いたかった人間だ。結局自分が一番彼に救われていたのだ。
ごめん、ごめんね、其ればかりを繰り返す。
戻ろうよ。今までの友達未満の関係に。後戻りができるのかはわからない。それでもこのままずるずると憂鬱を引きずり歩く無意義さからは脱せるはずで。突き立てられた針が抜けない、そんなもどかしさを抱え続ける辛さからも解放されるはずなのだ。
確かに見上げているはずの真緒の瞳が、ぐにゃり、歪んだ視界に邪魔されてそこに宿る感情すらわからない。前髪を撫で付ける手の優しさに、縋る。

「隣にいるしか出来ないってなまえ、言ったけどさ、それ、俺もなんだよ」

あの日の、少し濡れたような声音でぶつけられた言葉の続きが凪いだ声色に乗せられて私は唇を引き結ぶ。

「他人でも夫婦でも、友達でも、結局は自分じゃないんだから他人だろ。その人の深い部分までは入ってけないし、不安とかも、口で言うほど取り除いてやるのって楽じゃない」

多分それは、私ができなかった事。その人の心の奥の“本当”に届かそうと手を伸ばしたところで、触れられるはずがないのは人なら誰もが知っている。
私は私で、私は彼ではない。知っていた。そんなことは。だけど、それでも、と思ってしまった。
分かった上で大人になり切れない自分の歳に甘え、空想に生きようとしたのだと思う。変化をもたらすのは何よりも本人の意志であると分かった上で彼を助けてあげたかったのだと思う。

「迷惑かけるし、かけられたりもするだろうし。そういう、デメリットの方が多くてもさ、一緒にいたいって思えた。それがなまえだった」

かっ、と眼の奥が熱を持って視界を水膜が覆うといよいよ瓦解してしまいそうだった。

「何回でも言ってやるよ。俺はなまえに隣にいて欲しい。ずっとな」

言葉が見つけ出せなくて、声が引っ張り出せなくて。肝心な時に使い物にならない身体は役立たずの極みだ。
そっと、額に降りてくる真緒の唇が私の肌の上で、ちゅ、と軽い音を立てた。霞む意識がそれをキスとは認識させない。
眠り深くに攫われる頃には異常な熱さも心地良い真緒の体温もそっと私の元を去っていた。

***

食器が掠れる微音に意識が浮上した。
覚醒の自覚すら持てないまま、夕闇に色付けられた天井の見慣れない雰囲気を覚め切らない眼で眺め続けていたがふうと嘆息を一つして、ルームシューズに裸足のつま先を突っ込むと未だ自由にならない身体でふらりと布団を抜け出した。
母が帰ったのだろうか。珍しい、なんて思いながら自室を出、居間に続くドアのノブを捻る。ふわ、と温かな空気が香った。
そこにいた人物を目に止め、思わず私は身を固める。

「真緒……?」
「あぁ、起きたか」

腹減っただろ、とあまり使われていない母の赤と白のストライプ柄のエプロンを纏った真緒が笑む。「帰ったんじゃなかったの」そう問えば、「お前に飯食わせたら帰る」と御玉杓子を流し台に置きながらに返された。
湯気を立てる病人食のようなものがよそられた皿がテーブルに置かれる。卵粥、だ。

「期限ぎりぎりの卵あったから使わして貰った」
「病人にそんな危ないもの食べさせないでよ……」
「いや火通したし」

でもおいしそうだね。卵の甘く優しい色味と湯気がゆっくりと空気に溶かしていく香りに、思ったままを言ってみる。だろ? 結構頑張ったんだぜ。と言う真緒は外したエプロンを私の向かい側の椅子の背もたれにかけてそのままそこに腰を落ち着けた。
向き合う形で自分も座って、いただきます、と手を合わせる。スプーンで口に運ぶと全体にとかされた卵が心地良く舌に絡んで。

「……おいしい」

粥と言えば梅干し、と信じた味と道を貫いてきた私の中で、その瞬間、新たな価値観が確かに頭をもたげた。
おいひい、ともう一度。

「んなすごいもんでもねぇよ」
「ん……人が作ったもの、ちゃんと食べたの久しぶりだからかも。ちょっと感動してる」
「夜くらいは自分で作ればよかっただろ。お前そこそこりょうり出来たじゃん」
「一人分だと余っちゃうの。親、二人とも外で済ませてくるから。無駄になっちゃうんだよね。……お母さん、ちゃんと毎日帰ってきてくれてたの小学校までだったと思う」
「そ、か」

はぐはぐと普段と比べるとスローペースながら頬張る。
手持ち無沙汰に弄ぶスプーンに落とされる歪んだ自分の姿から目を離し、しかしどこを見ることもできずにテーブルに置かれた真緒の腕を見た。ふっ、と息をつくと湯気の形を持って眼前を巻く溜め息。

「あのね、今、ちょっといいなって思った。起きてきたら真緒がいて、真緒が作ったご飯置いてあるの」
「普通は逆だと思うんだけどな。ま、素直に受け取っときますよっと」
「うん……そうかも。確かに逆だ。なんかね、付き合うって何なのかもうわかんなくなっちゃったけど……でも、それは少し、いいかもって思う。ずっと一緒にいられるのは」

頬杖をついて笑っていた真緒の表情に僅かな照れが滲んだ。自分が放った台詞の意味を自覚できないまま、私は。多分だけど、と繋いで。

「そのずっと一緒にいてくれる人が真緒以外だったら、私はそんなに幸せじゃない」

……気がする、と曖昧に濁す言葉尻。

「ごめん。頭の中ごちゃごちゃしてたの、話してたらもっとわからなくなっちゃった」
「嬉しいぞ、素直に。若干プロポーズっぽかったけど」
「それ言ったら真緒だって。隣に居てって何回も……」
「わー、言うな言うな!」

繰り返して聞かされた言葉は最初こそ消化困難な異物のようであったけれど、いつしか魔法のようにすとんと心に落ちるようになっていて。無視して通すと勝手に誓っていた本心に、真緒は私を強引に振り向かせた。

息する隙間に言葉を探す。どうしても認めてしまえない恋のたった二文字に代わる言葉を、情の名を。
もしもこれが愛なら。恋なら。
感情に引っ張られるようにして貫けばいいのだ。我楽多みたいに無駄な物まで抱え込んでしまった理由達は――言い訳は、建て前は。無駄は持ち続けても肩の荷にしかならないのだから、おろしてしまえば楽になれる。
逃げの姿勢はもうやめた。
私の為に涙を流せなくなってしまっても、私の為に壊れてしまっても、アイドルとして誰か一人の真緒ではいられなくなってしまっても、私を置いていかないで欲しい。ひとりにしないで欲しい。

「ねぇ、真緒、私と、」

彼の翠眼が私を捉える。
恋愛は理屈でするものじゃない、なんていうありがちな文句に今だけは甘えて素を打ち明けてみようか。今だけは、エゴイストになってみようか。

「私を、隣にいさせて」

ずっと――。
私が白いドレスを着るときに隣にいるのは真緒であって欲しい。真緒が神父様の元で永遠の愛を約束するときに隣にいるのは私であって欲しい。
子供染みた言葉にそんな願いを託す。

「キスしたい……」
「でもうつったら困るしな」
「うん、だから言うだけ。したい」
「やめろって。俺も、……したくなるだろ」

己の発言に口元を手で覆い隠して朱に染まり出す頬を私の目に触れさせまいとする真緒だったが、すぐにそれは無意味と気づいたようで。
致し方がないとばかりに出された真緒の手のひら。グーに握った自分の拳を重ねて、しかし意図が掴めなかった私は一言「わ、わん?」。

「いや、お手じゃねぇから。これで我慢なってこと」
「あぁ……そういう。ごめんね。多分私には真緒に格好付けさせない呪いがかかってるんだと思う」
「地味にやだな、それ」
「大丈夫だよ。かっこわる……じゃない、格好のあまりよろしくない真緒でも多分好きだったし。それに、アイドルしてると本当にすごくかっこいいから。見捨てませんよ」
「そりゃどーも」

繋いだ手と手。普段はさして意識に止めることのないテーブルもこうして間に挟んで阻まれてみると邪魔で邪魔で、大きな障壁のように思えてしまう。
ゆうるりと少し遠慮がちに絡んでくる真緒の指がくすぐるのは私の薬指だった。そこに美しい束縛の証としてリングが煌めくようになるのは果たしていつか。


fin.

2017/02/03

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