短編

03.この愛情の溢れるコップから愛を抜いたら


「……?」
「……げ」

私と恋愛関係にある衣更真緒とその幼馴染は互いの家が非常に近い。私と真緒の家もまた距離はそう開いていない。それを私は知らないわけではなかった。知っていたはずだった。いや、この際脳に刻まれていたか否かは関係ない。漆黒の短髪に紅緋の瞳。真緒と同じ制服に包まれた、中学時代に幾度か目にした先輩の姿を前に思わず頬を引き攣らせてしまった。

「げ、ってなに」
「あ、すいません、何となく……」

朔間さんでしたっけ。口の中で一人語散ると、ん〜と覇気のない声音で唸るような肯定。そのまま「あんたは、……なんだっけ」と睡魔に押しつぶされそうにいる赤眼がこちらを向いた。嘆息に次いでいい加減に名乗って、へぇ、と感慨無い返事を渡される。大して人間に興味を示さない吸血鬼であることは知っていた。またどこかで出くわすようなことがあれば、記憶を持続させないこの人に今日と同じように名を尋ねられるのだろう。だったらこのまま素通りしてしまった方がよかったような気もするけれど、真緒と交際している人物が挨拶も出来ない礼儀知らずと認識されてしまうのは彼にとってもよろしくない。

「ねぇ、」
「……はい?」
「ま〜くんなんか最近疲れてるみたいだけど」

意地悪くも時間は過ぎ去ってはくれなかった。
静かに投じられた声音にぴたり、位置の揃わない爪先のまま歩みをやめた。続けざまに投げられる「気づいてる?」の言葉。跳ね上がる心臓が嫌な動悸を肋骨に殴りつける。

「知って、ます。気付いてます、けど……」

――私ではもうきっと頼ってはもらえない。
寸のところで押し留めることには慣れたものだ。
彼のためだと思ったのだ。不安定ではない、隙間ない関係に変わることが。だがそれは安らぎを打ち壊す手段でしかなくて。自らの手で作り上げた平静を自ら乱す、愚策に他ならなかった。
私に弱みを握られたところでどうともならないという可笑しな安心感があって成り立つ曖昧さは、“弱くあれば見限られるかもしれない”不安が常に付きまとう親密な間柄では崩される。
恋人が弱点であるのは何も真緒だけの話ではない。私もまた対等な関係を心からは望んでいなかった。

「付き合ってはいるんでしょ」
「え、……う、あー……どこで知ったんです、それ」
「うまくいってる? あんたと付き合い出してから、だったと思うんだけど。……無理してるかなって思うようになったの」
「答えてくださいよ……。――どうでしょうか。うまくはいってないかも。駄目ってわけじゃあ、ないんですけど」
「ふうん」
「聞いといてそれだけですか」
「あんたの答え方が悪い」
「かもしれませんけど。話させておいて? ひどい先輩」
「……俺もう先輩じゃないよ」
「はぁ?」
「だぶった」
「はぁ……御気の毒様です」
「別にいいんだけどさぁ」

能天気にふわ、と漏らされる欠伸に恋人と比べてのやりにくさを覚えた。

***

自宅玄関前で見つけたのは見慣れた赤い猫っ毛だった。

「お、なまえ。おかえり。今日は俺の方が早かったな」
「ごめんね、学校出たのは早かったんだけど。ただいま」

ぱたぱた足裏から鳴る靴音を引き連れ扉の前に辿り着く。
差し込んだ鍵を回しながら、そういえば、と真緒を見た。中学時代と比べて開いた身長差に私が見上げて、真緒から見下ろされる形になってしまい、改めて寂しさを噛み締めたのは一瞬の事。

「朔間さんに、……会ったよ」
「凛月に?」

後半、覇気を失い落下でもしていくような声色で。
そうか、あの人はりつというのか。幸い苗字だけは覚えていたので何も言わないけれど。

「あいつに、なんか変な事聞かれたりしなかったか?」
「ううん、別に。特には」

本当に? と信用できないのか覗き込んでくる翠眼に、本当に。と繰り返して言う。こう言えば貴方は安心してくれるのでしょう、と半ば投げやりな部分も否めない反応だった。
付き合っているかどうかを尋ねられたというよりは確信を帯びた声音に一方的にぶつけられただけだ、嘘はない。
引き開いたドアの中に入ってと彼を迎え入れる。と、後ろ手に素早く扉を閉ざした真緒が入室と同時に押し付けるようにキスをしてきた。通う先が違う不安と不満とそれらによる隙間を全て忘れるように、取り戻すように、埋めるように。
離れて、持ち上げた瞼から空気に触れる目と目がかち合い、熱に色づき始める柔らかそうな真緒の頬に手を添えた。ひと撫でするだけでも伝わる体温には伝染作用でもあるのだろうか。両側から端正な顔を包む手の片方に彼が手を重ねてくると、ぼっ、と私の体内で小さな爆発が引き起こされた気がした。ぎゅう、握られ降ろされて、手を繋ぐ格好にされるとそっぽを向いてしまう真緒に引かれる。

「わり。がっつき過ぎだよな。部屋行くか」
「う、うん」
「あぁいや、変な意味じゃなくてさ、俺が言いたいのはずっと玄関いるのもあれだろってことで……。人ん家来といて言い方もおかしかったけど」

一度振りほどかれてしまった手を今度は私の方から追いかけて繋ぎ直す。
そういう意味での言葉でも私は受け止めることを彼は知っているのだろうか。知らないだろう。たかが安心毛布、真緒にとっての私はライナスの毛布だ。滅茶苦茶に乱して壊しても誰も何も言わないのに。
彼と私の愛の中から依存だけを抜き取ってしまったら、後には何が残るのだろうか。


2017/01/17

- ナノ -