短編

ハローハロー、ぼくのかなしい心臓


※ふんわりとトリップ設定でございます。

虚ろに等しい、光を見失ったような双眸をそのまま、向ける先を俺へと転じ、彼女は。嗚呼、轟。と虚無感を纏わりつかせた佇まいのままで、俺を見つけ出す。

「私、帰れなくなっちゃった」

街に。国に。
事故で線路が塞き止められて。チケットを紛失して。雪片に空路を絶たれて。
次の休みは両親に顔を見せる事を諦めなければならない、などという、いっときの断絶ではないのだろう。半永久的な別離、追放、或いはそれ以上の残忍さを突き付けられた者が象る声色だった。
みょうじが背負う背景を何等分かに切り分け、そうして分けた内のほんのひと粒や二粒。朝露程の理解しか持たない俺ではあったが、幾粒であろうと彼女の秘めたものを垣間見た身であることに違いは無い。
ただ彼女が飛び越える覚悟でいた“境界”というものが、この超常社会の常識すら逸脱した領域だということだけ、俺は知っている。多分こいつは異星人みたいなものなのだ。

***

在りし夜。
太陽が眠りについてどれくらい経ったか。星明りが届かない畳の隅角に溜まる夜陰から俺は眼を逸らすが、その後の視線の置き場所に困った。畳の目に覆い被さり、濃く濃く落ちた家具の影は今にも好き勝手に動き出し、にっかりと笑いかけてきてもおかしくはない。あちらこちらに闇の水溜りを見つけ出しては何かが潜んでいそうだと空想する。

――眠れねェ……。

そんな、脳の冴え切った真夜半だった。
実家と異なる面持ちの天井を一心不乱に見つめ、時折睫毛を羽ばたかせては平淡な視界を一定時間置きに遮る。延々とした生理現象のリフレインに耐え兼ねた俺は薄っぺらい嘆息のあと、緩慢な蠢きでドア枠を跨いだ。
エレベーターの軽やかな電子音も平素は控えめに感じるが、深夜帯では煩わしく受け止めてしまう。やや忍びながら下ってゆけば、共有スペースに仄かな電光が灯されていることに気付く。蝋燭同等の光量は決して眩いものでは無かったが、夜目を穿たれると幽かな痺れを覚える。申し訳なさげな灯りのもと、ひとりちんまりと座していたのはみょうじだった。

「お」「あ」

淡い驚愕が奏でる短音が二人分重なった。
曰く、彼女は悪夢に叩き起こされたのだそうだ。嫌な思いを詰め込んだ箱を夢の中でひっくり返され、散々ぶちまけられ。その後すぐに枕に頬を埋め直す気にはなれず、こうして過去形とはいえ賑やかだった場所を求め、降りてきたのだと。
蛇口を求めて食堂の方へ足を運んだところで、みょうじに俺の方はどうしたのかと問われた。

「目、覚めた」

やや強めに捻り過ぎた蛇口からは勢いづいた水流が溢れ、幸いすぐに止めたものの今にも溢れ出しそうなところで、ぷっくりと肥大化した水面がぎりぎり水面として保たれている。表面張力。
グラスを仰ぎ、浴びるようにして喉を潤したときだった。

「帰りたくない」

気流の揺らぎと共に俺の耳殻まで届く、誰にも宛てられていないひとりごとは、夜闇のひとかけらだ。
先刻、悪夢を彼女の物語る姿は物哀しく投影的ではあったが、いささか憑依しすぎた読み手の語りの域を超える事は無かった。しかし今はどうだ。帰還を拒むことばは、魂を宿し爪弾かれた。彼女自身の言葉であると、心であると、俺が心に肉薄したと思い違うほどに、熱く。
一体全体どのような脈絡で彼女は独り言散たのだろう。応答は控えつつも、ぼんやりと霞がかかった彼女の心情の輪郭を確かめたくなり、ついそちらを一瞥する。すると視線が結ばれ、彼女の方から気まずそうに逸らされ千切られた。

「ごめん、なんでもない……」
「お前も週末実家に顔出してんだったか」
「ううん、私は……その、遠くの方からだよ」
「あぁ、そうだっけか。わりぃ。――俺はそろそろ戻るが」

どうする、と眼差しに問いを乗せて彼女を見遣ると、うん、じゃあ、という風に席を立った。私も、とその口から聞くと。揃って踵を逆方向に翻し、互いに互いの安寧を祈り合う。

「私、別な世界から来た人間なんだよ」

弾かれたように俺はみょうじを振り返った。開いた俺の瞳孔は驚愕に満ちていた。冗談を明るく笑い飛ばす性ではない。窓硝子の向こう側の深まった闇が、スペースのすべてを炙り出さない弱い光が、疲弊した脳には毒だった。突如鉄球を投げつけられ混乱を極める俺の頭に、みょうじは尚も鉄球や鉛玉を連騰する。

パラレルワールド、だよ。

否、俺は拒んでいる、わかろうとしていない。

「帰る頃には気も変わるかな……。――おやすみ、轟」

消灯したのはみょうじだった。
おやすみ、と彼奴はいとも容易く紡いだものだが。
今まで当たり前に関わって来た人物が夢現つな異分子そのものだったと聞かされ、夜はそれを俺に信じさせる。俺の眼界でも展開されていた彼女の物語は、刹那的な白昼夢として終止符を打ち付けられる運命にあるのだ。それも異世界に吸い込まれるかたちで。

***

「……結局気は変わったか?」
「どうかな。可能性が本当に潰れたっていう事実を惜しんでいるだけかもしれない」

ほら、どんな人間でも、例えそれがどんなものであったって失うことは一丁前に恐れるものでしょう、と微笑みの隙間で自己を嘲り。

「それに本当ならもっと悲しんでてもいいのに」

どうしてまともに、自分の現世に等しい場所を憂うことさえできないのだろう、と。悲しめないことを悲しむことはできるのに、と。天涯孤独の身として立ち尽くすはずだが、みょうじは無情を崩さず己と対峙している。それは必ずしも冷静沈着とは相成らないが。

「帰らないん、だろ」

どこにもいかないのだろう? ――甘美に肯ざれることを望んでいた。

「もうどこにもいけないよ」

叶えられる欲の在り処は、間違いなく。


2018/10/14

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