短編

いつか虹彩がはじけたら


雨粒の奇襲から逃れ、導かれるまま上がり込んだ年上の昔馴染みの家を俺は、随分昔に上がらせてもらった頃より天井を低く、家具を小さく感じた。アリス症候群を患ったように、眼界に映るもののことごとくを阻む様なハンディキャップとして捉えていた時代を抜け出ると、我儘にもそれらを惜しいとさえ思う。時折俺の前に現れる、やたらと彩度の馬鹿高いあの景色とは別れたのかと考えると、記憶を振り向く度に寂しく思う。
鮮やかで、他とは異なる特別なものに思えたなまえの部屋は、ありふれた内装と配置でしかない。失われた特別感はありながらも、鼻腔をくすぐる生活感は、それはそれで緊張の糸をぴんと張らせる。とても近くはない学年差がなまえの中に安堵と油断を生み出しているんだろう。子供の頃あんなにまで世話を焼かれ、構われたというのに、彼女の胸中になんの爪痕も残せておらず、存在感すら風で揺らぐ程度なのかと思うと――。
髪の毛先が抱えきれなくなった雫をついに零し、首筋に浮く骨の窪みへ流れて行く。雨のかけらの存在感が角張った意識に割り込んだ。

「よかったらこれ、使って」

洗面所から顔を出したなまえから、ぽーん、と低く放物線を描いて飛んできたハンドタオルを床に落下する寸のところで捕まえた。他所の家で個性を行使するわけにもいかず、俺は「あぁ、悪りぃ」と素直に受け取り、鼻先と額を繊維に埋めた。他所の洗剤の香りを遠くに、けれど身近に感じる。
夏の今日。俺の近所に住むなまえと昔のようにばったりと顔を合わせた。
タオルでぱたぱたと髪を拭くなまえは、「ついてないね」と眉を下げるけれど、あのままアスファルトの上での挨拶だけで終わらせなかった通り雨を俺は不運とは思えずにいて。認知の差を少し申し訳なく思う。
児童の域からはまだまだ脱しないとはいえ、膨れ上がるみたいに図体をでかくさせた俺に、変わった俺に、彼女は変わらず接する。温かくて残酷な不変だ。子供の頃と変わらずに俺に手を差し出すなまえの手は、心を掬い――救い――上げもするし、同じ心を奈落にはたき落としもする。
もうじき全寮制に変わる雄英のことは事実としてしか受け止めてはいないが、今よりもっと、なまえの肉声を耳殻で感じ取れなくなるのだ。打ち明けたとき、きっと彼女の心との間にまた認識の不一致が生まれる。寂しいと思って貰えてもその言葉の中の温度差に俺はどのみち睫毛を伏せる。彼女の反応の濃さ薄さがあっても、伝えなければならないというのは揺らぎもしない癖に。

「入学のお祝い以来で何から話したらいいのか……だけど。体育祭おめでとう、テレビで見てたよ。というか、なんだか雰囲気変わったね。表情柔らかくなった感じ」
「そう、か?」
「うん。急に大人びたけど、なんかでもかわいくもなったね」
「どっちなんだ……」
「両方」
「……」

どうしてか照れくさく、タオルを持っていた腕が一瞬固まる。視線を彷徨わせるけれど、その癖口元は綻んでいて、なんだかもう。

「ふふ、何かいいことあったの?」

従来の性格が心優しいのかもしれないし、単に俺を子供扱いしているからなのかもしれない。後者の贔屓はむっとするようで嬉しくも感じる。

「母親と面と向かって話せたんだ。あとは……雄英で友達ができた」
「――よかった」

まるで自分の事のようななまえの静やかな歓喜と、今にも落涙しそうでいる厚く膜を張った瞳に、彼女にまで負荷をかけ続けていた自分の罪を改めて知らしめられる。なまえの胸に爪痕さえつけられていないなんて、どれだけ俺は鈍く、思い上がっていたのだ。それも幸せな鈍感さじゃない。
きつく、きつく、己を戒めたい気持ちは深くあるのに、同時に誰かの心に住人だったことを知ってしまって。なまえの世界にきちんと俺が在ったことを図らずも確かめられてしまったら。

***

初対面の記憶の中で、そういえば彼女はどうして俺に手を差し出したのだろう。思い出は「君、大丈夫?」という日差しのような問いかけから始まっている。
その当時にはもう、その歳頃らしい明るさが目から消え去った子供だったような自覚と覚えはあって。子供の俺を偶然認めたなまえが笑いかけてくれたという物語的な幸運は考えられなくもない。
なまえの眼界と俺の守備範囲がうまいこと重なるまでの出来事は面白いくらいに抜け落ちているが、人と人との出会いなんて余程運命的でなければ、或いはその瞬間から恋でも始まっていなければ、そんなものだろう。
そもそもが余裕なしに憎んでもがいていた日々なのだ、あらゆる意味で未来以外殆ど視野に入っては来ない。
羽が生えているかのように俺のずっと先を駆けて、変わっていく、そんななまえに焦燥していた――嘲られているようだった。
自分がランドセルを背負わされ続ける間も、なまえは制服が変わって。ようやく俺が義務教育から抜けられたと思えば、彼女は既に決まりきったスカートなんて脱ぎ捨てていて、少し長く留まった華やかな場所をももうじき旅立つ準備をしている。制服のエンブレムが変わって焦った事など昔の話で、今やなまえは肩書きすら改める地点に立ってしまった。
なまえは変わらず嵐の中心のように変わり続けて行く。俺もまた気づかない間にも無意識の中でも止まってはいられない、立ち止まってはいない。
昔の様にはいられない、なんて懐古的な思考を転がしてみるけれど、思えばいつだって俺たちは爪先を揃えて同地点に立っていられたことがない。保護者代理、なのだ。
“年上のお姉さん”に誘われるがまま、笑い飛ばせるほど幼げでちっぽけな、“わるいこと”をしてみても、拙い計画が僅かにでもずれていたなら“お姉さん”ではなくなっていたかもしれない。夏の匂いで満ちた夜に家から抜け出した日、もしも誰かに見つかってしまっていたら。その悪行はなまえに『保護者失格』の焼き印を押し、二度と会わせないための超えられない柵を立てられてしまっていたとしても、不思議じゃあない。
さすがにそこまで気の廻った子供でもなく、人並みの罪の意識を片手にその夏は家を出た。
あの夏に俺が掻き立てられたのは、「内緒だよ」と唇に人差し指を寄せての誘いにならそそのかされても構わないくらい胸が躍ったから、ではなくて。その時のなまえの微笑みが総身の血潮を沸騰させたからだ。

「じゃあ二人でこっそりやっちゃおうか。でも怒られそうだからなぁ、絶対に――内緒だよ」

やはり何がきっかけで「じゃあ」と代案が立てられたのかは抜け落ちているが、大方俺が同級生と花火大会に行けないのだと何とはなしに話したのだろう。
自身の財布を開いてコンビニ花火とライターとバケツを買ってくれたなまえは、ひょっとして今の俺よりも幼かったんじゃないか。

「見てよ。綺麗でしょう」

溢れる花火に彩られるなまえの笑顔は、貰い笑いを誘い出してくれる華やかな笑みは、ノック音のように臆病者を厚手のドアの奥から引き上げる。
けれど。とても自分が笑っていていい人間だとは思えずにいたあの夏は、すぐに喜色を顔から追いやってしまった。なまえは俺に対して笑顔こそ崩さなかったが、その瞬間を境に帰路に就くまではずっと眉を下げた謝るようなもの哀しげな面持ちだった。

***

「なまえ」と。口ずさんでから、微塵も敬っていない呼び名は放射してしまった以上、口腔で舌をもぞつかせてもどうにもできない。象りたい感情を表す音の形状を丁寧に丁寧に改めようかとも考えたけれど、今更余所余所しく接するのも馬鹿らしく。

「後々言わねぇとと思ってたんだが、寮に入る事になった。冬に挨拶ぐれぇはしに来てぇけど……当分は難しいかもしんねェ」
「寮? いいな、楽しそう。でも、そっか、それなら寂しくなるね」
「たまに電話してもいいか?」
「いいよ。そういえば今まで全然使って無かったねー、会える距離だったし」

……それは俺がいまいち踏み切れずに電話をかけられずにいたからじゃないだろうか。

「さぼっちゃったときはいつでもおいでね。また花火とかやろう。紅葉狩りでも雪だるまでもお花見でも、映画見るのでも。いつ君のために休んでもいいように大学の出席日数稼いでおくから」

霞のかかる逃避行の終着点を眼界に示して、旗を立ててくれる存在の有難さといったら。


2018/06/19

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