collar less
01.喜劇は空から降ってくる

それは、今から1年とちょっとむかしのはなし。
えらい博士にポケモン図鑑を託されて、ここマサラから二人の少年が旅立った。
性格もスタイルも瞳の色も。対極にあった二人だが、志すものにはどこか互いに通ずるものがあって。

人、街、ポケモン。図鑑完成を目指す途中、引き寄せられたかのような出会いの数だけ別れが合って、乗り越えた冒険の分だけ彼らを成長させる糧となる。
時に強者と、時に巨悪とぶつかりながら己の道を究める少年が、振り返ることは決してない。いつでも前だけを見据え、真摯に向き合い、ひたむきに強さを求め、がむしゃらにもがきながら、やがて辿り着いた最高の舞台で両者は互いの強さを認め合い、全力を出し尽くしての勝負を挑みあった。
その熱戦は多くの人間を魅了し、そして夢を与えた、褪せない伝説として語り継がれることになる。

まっすぐにステージを捉える幼馴染の薄い微笑を刻んだ深緑の双眸は、見慣れたはずの色のどこかに知らない光を宿していた。
いつの間に、大きくなったのだろう。あんなに強く、なったのだろう。長い長い冒険を経験した背中は、追いつけないほど遠くにあるような気にさせる。
一回りも二回りも大人びた彼とは対照に、私は何も踏み出せてなどいなかった。

瞼の裏に焼き付く光景、その身を圧倒するようなリーグの熱気、日常なんて奥底にしまいこんで観客たちは眼前の激戦に覚える戦慄をただ噛み締める。
あの感動は、きっと永遠に人々の記憶に留まり続けることだろう。
自分の元からいなくなってしまったあの子の事も、その辛さも、この瞬間だけはすべてを忘れていられたのだ。

***

緑の木立を風が吹き抜け、木々の隙間から零れる金色の光が目に眩しい。
マサラは真っ白、はじまりのいろ。この町を現す、短いフレーズを口の中で呟いて、少女は回想を終えて空を見る。
濃く鮮やかな、相変わらずの綺麗な青には一点の曇りもなくて、吸い込まれそうなほどの快晴は彼方まで続いていくけれど、窓枠に仕切られた室内にいては見渡すことなど出来るわけがない。
あれから一年。流れた年月を感じさせないほどに、マサラの町は何も変わらない。

きゃん、と自身の膝の上から上がった高い一声に、半強制的に意識を引き戻された。慌てて目を落として確認すれば、機嫌を損ねた赤茶の毛並みにくるりと巻いた六つの尻尾。

「ご、ごめん。ロコン…」

毛繕いを中断してしまったことに大層ご立腹な様子の彼女に自信なく謝罪を述べながら、その頭に手を添えた。
はじまりの場所とされる白の町の片隅に、他の家々より少しだけ広い家が佇んでいる。
緑目の幼馴染から紹介を受けて、彼の祖父が日々研究に励むというこの施設、オーキドポケモン研究所でなまえが手伝いをするようになってから、早いもので2ヶ月が経つ。
ポケモンと触れ合うことで少しは気分も和らぐのではないか。言葉の裏には彼なりの気遣いも存在していたのだろう。
紹介人グリーンの姉、ナナミが既にアシスタントとして働いていた研究所。なまえに与えられる役割はそんな彼女のお手伝い――つまりはアシスタントのアシスタント、お手伝いのお手伝いとなるわけで。まだまだ仕事を覚えたてであるなまえに回される仕事は限られたものばかりで、役に立っているかと聞かれれば首を傾げることしかできない。
それでもこうしてポケモンたちの身だしなみを整えてあげたり、時にはロコンだけだとはいえ、コンディションのチェックを任されたり。少しずつだができることも増えてきて、ロケット団のマサラ襲撃以来、塞ぎ込みがちだったなまえも、楽しんで日々を送るということをこの頃になってようやく思い出してきた。

「なまえちゃん、ちょっと来て!」

壁を挟んだ隣室から自分の名前を呼ぶ声がする。
どうしたのか。撫で心地の滑らかなロコンの体毛を無意識に弄んでいた手を止めて、椅子から腰を浮かせると赤茶の子狐を腕に抱いて数歩歩んで部屋を出た。

「ナナミさんどうし――ってなんですか、これっ!?」

駆け付けた途端、目に飛び込んでくるのは山のように積まれた資料の数々。
アシスタントと言えば聞こえはいいが、主な仕事は資料運びや研究材料の調達などの、それ即ち雑用係。そしてナナミが自分を呼んだということは、まさか……。

「これをおじいさまの部屋まで運ぶんだけど、私ひとりじゃさすがに無理で。手伝ってくれる?」
「は、はいぃぃ……」

お母さん、アシスタントというものは予想以上に大変なようです。

「それじゃあお願いするわね」

優しい笑顔で渡された紙束だが、洒落にならない重みに初っ端から腕の筋肉が悲鳴を上げていた。

「うひぃぃ〜〜……さすがにきついよ……」

ぱたぱたと足音を響かせながら、研究所の廊下を行ったり来たりを繰り返す。
何度目かの運搬作業ももうそろそろ終わりを迎える頃だろう。ほっとしたとき、気を抜いてしまったらしくうっかり零してしまった資料の一枚が、はらはらと虚しく宙を舞う。しかしここでしゃがもうものなら両手に抱えたものを床にぶちまけてしまう運命は目に見えているので、黙って足を進めることに専念する。
最後の山を運び終えると、落としてしまった紙を拾いに部屋を出た。
オーキド博士と何やら会話を交わした後で、戻ってきたナナミが背後からなまえに声をかける。

「ありがとう、助かったわ。よかったら晩御飯、食べていかない?」
「嬉しいんですけど、今日は……」
「そう。残念ねぇ、グリーンも帰ってくるから一緒に、って思ったのだけど」
「えっ、グリーンが?」
「ふふ、どうする? 8時前には帰るって言ってたけど、顔見るついでにご一緒しない?」

幼馴染が、グリーンが帰ってくる。
突然に舞い込む嬉しい知らせになまえは言葉が出て来ない。こくこくこく、と何度も頷いて、それが肯定の意思表示として伝わるように努めた。

***

「おかえりなさい!」

久しぶりに触れた自宅の扉を押し開けたら、出迎えてくれたのが幼馴染の少女であったこと。それから開口一番、新妻のような輝かしい笑顔で「おかえり」を言われてしまったこと。二重の意味で驚かされたグリーンは、あまりの驚愕にぎこちない「ただいま」を答えるのが精いっぱいだった。

「ここ、オレの家だよな? なんでお前がいるんだよ」
「お手伝いしたらって紹介してくれたの、グリーンじゃない」
「そうじゃなくてだな……こんな夜遅くに、普通帰ってるだろう」
「グリーンも今帰ったよね?」
「……もういい。飯食ってくんだろう、入れ」

珍しく困った様子で眉を顰めて靴を脱ぐグリーンの後について、なまえも居間に入る。

「おお、グリーン! 帰ったのか」
「ただいま。おじいちゃん」

奥の研究室から顔をのぞかせたオーキドと挨拶を交わし合う。荷物を置いて、身軽になって。親子水入らずならぬ祖父孫水入らずの談笑を一歩下がったところで見つめていると、不意に。

「もう1年か」

小さく呟くグリーンの眼差しが向けられるテレビ。ニュースの音声と共に画面に映し出されているのはヤマブキシティの町並みと、その中に佇んで黒煙を上げているビルの映像だった。
同方向を見ていたなまえは悲しげな面持ちで押し黙る。

「グリーン」
「……悪い」
「ううん、いいの」

まだ、すべてが元通りになったわけではない。皆、心のどこかに見えない傷を隠している。日常に埋もれたはずの記憶は、ほんの小さな出来事を引き金に呼び起されてしまうのだ。全てを忘れて前を向くのに、1年という期間は短すぎて。
歪んだ笑顔はそれだけで彼女が無理をしていることを感じさせる、痛々しいものだった。

「なまえ、旅で聞いた情報なんだがな」
「え?」

いつになく真剣なグリーンの声色に、なまえは思わず身を固めた。

「シオンタウンに身寄りのないポケモンを引き取り、世話をしている施設がある。そこの家主とオレは一度会っているんだが、ここ1年の間でロケット団による強盗被害に遭ったポケモンが多く保護されているそうだ」
「そこに、いるの……?」
「あくまで“可能性”の話だ。イーブイがいるとも――仮にいたとしてそれがお前のであるとも限らないし、無事であるとも限らない。どうする?」

選択肢をこちらに委ねる緑の眼。
わかっている。慎重にいかねばならないことなど。旅先で聞いたという確証のない噂話に踊らされ、幾度となく期待を裏切られてきたのだから。
仮に見つけることができたとして、無事である保証なんてどこにもない。
恐れ知らずのトレーナーに挑戦状を叩きつけられ、現在は留守にしている赤目の友人のイーブイ、ブイがいい例だ。彼のように実験台になることを強いられている可能性。暴行を受け、人間に不信感を抱くようになってしまった可能性。
それは多くの“被害者”を目の当たりにしてきたなまえの知る、悲惨な現状だ。
もう絶望なんてしたくはない。悲しい思いもしたくはない。なまえが拒めば彼一人で事実であるかを確かめに行ってくれるのだろう。
それでも……。

「いく。行きたい」

――それでも、期待をせずにはいられないのだ。

喜劇は空から降ってくる
開幕の合図はすぐそこまで迫ってる


 

[ back ]
- ナノ -