卑怯な恋心

「うわっ、ひっでーカオ」


 翌朝。起きてきた私のカオを見るなり、サンジは開口一番、そう言い放った。


 くわえタバコに腕まくりをしたシャツ。軽やかに振っているフライパンからは、バターの甘い香りが漂っている。


 かっこいい。そして、いい匂い――じゃ、なくて。


 どろりとした目で、サンジを睨みつける。


 寝不足なのだ。誰かさんのせいで。


「サンジってもしかして、この世に二人いる?」

「は? 何言ってんだ、おまえ」

「……なんでもない」


 そう答えて、私はふらふらと洗面所へ向かった。


 鏡に写った私は、サンジの言うとおり、ひっでーカオだった。腫れぼったい目の下に、青っぽい茶色い隈。肌もなんだかごわついていて、まるで乾いた土のようだ。


 やっぱり、夢だったのかもしれない。


 昨日の夜中から幾度となく脳裏をよぎっているその仮説が、先ほどのサンジの態度で色濃く現実味を増す。


 ――おまえ、おれと付き合わねェか?


 もしかして、どこどこに付き合わねェか、とか。そっちの意味だったのだろうか。ものすごいベタだけど。


 あの衝撃がすごすぎて、前後の会話がまるで思い出せない。一体、どんな話の流れでああなったのか……。


 冷水で、カオをじゃぶじゃぶと洗う。


 すると、だんだん頭が冴えてきて、途端にさあっと血の気が引いていった。


 どうして、頷いてしまったんだろう。


 真剣なスカイブルーの瞳につられて、素直に頷いてしまったことを激しく後悔する。


 だって、あれがもし、冗談とか、勘違いだったら。


 たったのあのひとコクリで、いままで大切に築き上げてきた幼なじみ関係のバランスが崩れてしまう。


 恋心をひた隠しにしてまで守ってきた、サンジとの大切な距離感だ。それが壊れることだけは、なんとしても避けねば。


 びしょ濡れのままのカオで、洗面所からリビングまでを全力疾走していく。


 リビングの扉を勢いよく開けると、サンジがその音に驚いたように「うおっ」と肩を揺らした。


「なんなんだよっ。騒々しいっ」

「サンジっ。あのっ、あのさっ」

「あ? なんだよ」


 怪訝そうなサンジのカオを、思わず凝視する。


 な、なんなの……。そのキョトン顔。かわいすぎなんですけど。かわいすぎなんですけどっ。見れば見るほど……ひゃーかっこいいっ。


「なっ……なんでもない……」

「なんなんだよ、さっきから。ちゃんとカオ拭いてこい」

「……はい」


 素直に従って、回れ右をする。


 だめだ。ひとりで考えてたら、頭がおかしくなる。早急に誰かに相談しなければ……!


 リビングから聞こえる「朝飯できたぞー」というのんきな声を背に、私はひとり拳を握り締めた。





 しまった。相談できる人がいない……。


 何往復めかわからない、LINEの友だち欄をスクロールする。


 けれど、何度スクロールしても、いまの状況を相談するのに的確な人材は見当たらなかった。


 相談するなら、サンジの性格とか、女性遍歴とか。少しでもわかっている人がいいけれど、意外にもサンジと私のあいだには、共通の知り合いがいない。ナミちゃんやビビちゃん、ロビンさんは挨拶程度しか交流がないし、ゾロくんに至っては、唯一挨拶以外にも話したことがあるけれど、知っての通りサンジとは犬猿の仲。あんなにお互いを意識しているというのに、仲がすこぶる悪いせいで、意外とお互いのことをよく知らないという間柄になってしまっている。


「困ったなァ、もう。どうしよう……」

「***さん。なにかお困りごとですか?」


 私の盛大な独り言を聞きつけて、マドンナがしずしずとやってきた。手には、かわいらしい大きさのお弁当が収まっている。


 そうだ。休憩中だったんだった……。


「ここ、よろしいですか?」

「あっ。うんっ、もちろんっ」


 社員食堂の端っこのほうに座っていた私は、目の前の空席をどうぞどうぞと勧めた。


 マドンナは可憐な動きで着席すると、お腹空いちゃいましたね、と笑った。


 その微笑みに、ぽーっと見惚れてしまったのは、私だけではなく周りの男性社員たちもまた然りだ。


「どうかしました? ***さん」


 男性社員たちの視線に気づいているのかいないのか、マドンナはその麗しい眼差しを私にばかり注いで、そう訊ねた。


 うーん。ちょっとした優越感……。


 にまにまとしながら、なんでもないよ、と答える。


 マドンナは、天使の輪の上に疑問符を並べて、キョトンとしていた。


 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。


 マドンナのキョトン顔をみつめていたら、ふと、その比喩表現が浮かんだ。


 見れば見るほど、サンジのドストライクだ。この機会を逃したら、一生出会えないのでないかと思ってしまうくらい、ド真ん中なはずだ。


 だめだ。やっぱりだめだ。


 こんな女性を振ってまで私を選ぶ理由が、自分で言うのも悲しいけれど、まっっっ、たく思い浮かばないっ。


「サンジさん、お元気ですか?」

「……へっ。あ、ああ。うん……」

「そうですか。ならよかった」


 ふんわりと笑ってそう答えてから、マドンナは「いただきます」と丁寧に手を合わせた。





 帰路に着いていると、スマートフォンが着信した。ディスプレイに表示された名前を見て、げっ、となる。母だ。


 母からの電話はきまって「きちんと生きてるの? サンちゃんに迷惑かけてない? サンちゃんに追い出されないようにちゃんとしなさいよ」のお小言三セットだ。話しをするのはいいけれど、毎回これを言われてはさすがにうんざりする。


 気乗りはしないものの、いらぬ心配をかけてサンジのほうに電話されても困るので、私は通話をタップした。


『ああ、***? きちんと生きてる? サンちゃんに迷惑かけてない?』

「……***です。生きてます。いまのところかけてません、多分」


 多分ってなによーあんたはもうー、と、やたら高いテンションで突っ込まれる。


「どうしたの? なんか用だった?」

『うちの畑で採れた野菜、送ったから』

「ほんと? わーい。ありが――」

『サンちゃんにちゃんと渡してねっ。あんたが管理してたって、腐らせるだけなんだからっ』

「……へーい」

『へーい、じゃなくて、はい』

「はーい」


 まったくもうこの子は、と、受話口から呆れ笑いが聞こえてくる。


『サンちゃんがいなかったら、今頃どうなってることか。ほんと、あんたのこと、サンちゃんにお願いして正解だったわ』


 独り言のトーンで呟かれたその言葉に、歩いていた足が止まった。


「サンジにお願いって……なに?」

『え? ああ。あんたが一人暮らしするってなったときにね。サンちゃんに、あの子のことお願いねって頼んだのよ』

「……」

『あんた、一人暮らしなんて初めてでしょう? ほっといたらコンビニ弁当ばっかりになるんじゃないかって、お父さんと心配して――あっ。お父さん帰ってきたわっ。じゃあね。サンちゃんに追い出されないように、ちゃんとしなさいよー』


 いつもの、最後のお小言を口にして、母は忙しなく電話を切ったのだった。





「おお、遅かったな」


 家に帰ると、サンジはまたフライパンを振っていた。パラパラと、卵に包まれたお米が宙を舞っている。


「……チャーハン」

「ああ。飯まだだろ?」

「うん」

「残業か?」

「うん」

「お疲れ。ほら、着替えてこい」

「……うん」


 自分の部屋へ向かおうと、のそのそと足を動かす。


 けれど、歩みは数歩で止まって、私はサンジのほうへ振り向いた。


「……サンジ」

「んー?」

「あの……」


 口を開いては、閉じる。


 私、なにを言うつもりなんだろう。


 いま、頭の中に浮かんでいる言葉すべて、一つでも口にしたら、夢から醒めてしまうのに。


「***? なんだよ」

「えっ。あー……おっ、お母さんが、野菜送ったって!」

「おー、ほんとかっ。そりゃ楽しみだな」


 サンジは、うちの実家で採れた野菜が大好きだ。


 子どものように肩を弾ませて喜ぶサンジを見て、余計に胸が痛くなった。


「きっ、着替えてくるねっ」

「おお。冷めるから早くな」

「はーい」

「返事を伸ばすな、返事を」


 サンジの小言にクスクス笑い返しながら、部屋の扉を閉める。


 そして、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。


 言えない。


 私の世話なんていいから、ほんとに好きな人のところに行って。なんて。


 だって、せっかく恋人同士になれたのに。そんなことを言ったら、終わってしまう。


 大丈夫。このまま知らんぷりして、一緒にいれば、きっと――。


 サンジの鼻歌を背中で聴きながら、私はひとり、膝を抱えた。


 卑怯な恋心


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