紳士の哀愁
「フラれたっ? サンジにっ?」
週明けの昼休み。我が社きっての美人・通称マドンナに誘われて、二人でランチをすることになった。
いつもは食堂でみんなで食べるのに、私だけを誘うなんてめずらしい。そんなふうに思いつつ、男性社員たちの羨望の眼差しを背に、私はマドンナと外ランチへ繰り出した。
すぐに座れそうなイタリアンレストランを見つけて、中へ入る。席へ案内されてから数分後、マドンナがさっそく切り出してきた――サンジさんにフラれてしまいました、と。
「ちょ、ちょっと待って、それって――」衝撃のあまり吹き出してしまった水を拭う。「フッた、の間違いじゃなくて?」
するとマドンナは、じっくりと時間をかけて首を横へ振った。
「いいえ。フラれました」
「……」
さすがにぼうぜんとする。鳩が豆鉄砲食らったら、おそらくこんなカオになるだろう。豆鉄砲どころか、大砲でもくらった衝撃である。
あんぐりと開けた口を、とりあえず閉じてみる。それから、眉間に力をこめて、口の中だけで唸った。あの日の、浮かれたサンジの横顔を思い出す。そして、私は断言した。
「嘘だ」
「嘘じゃありませんよォ。ほんとにフラれたんです、私」
「それってほんとにサンジだった? そっくりさんとかじゃなくて?」
「あははっ、なんですか、それ」
「世の中にはいるんだよっ。眉毛だけそっくりな別人がっ」
どうしても、どうしても信じられない。身振り手振りで話していたら、マドンナはそれこそ聖母のようなおだやかな笑みで言った。
「好きな人を見間違えるはずありません。正真正銘、本物のサンジさんでした」
「……」
私は頭を抱えた。幼い頃から一緒にいるあのエセ紳士の思考を理解できないことは多々あったが、これほどまで理解に苦しんだことはない。
サンジが、女の子をフッた。しかも相手は、おそらくドストライクにタイプであろう、このマドンナ。
抱えていた頭をおずおずと上げる。情けなく下げた眉を、私は彼女へ向けた。
「なんか……ごめんね。たきつけるようなことして、傷付けちゃって」
「そんな、謝らないでください」マドンナは慌てて首を横に振った。「決して***さんのせいじゃありません。だって私、あの日***さんに言われていなくても、遅かれ早かれサンジさんにアタックしてましたから」
そう言って彼女は、照れくさそうに舌をぺろりと出した。
かわいい。同性の私から見ても。それに、スタイルもいいし性格もいいし仕事もできるし……この子の一体どこに、フラれる要素があったというのだろう。
……いや、待てよ。
もしかして――。
「もしかして……私と同じ職場の人だからかな」
「あ、いえ。違います」
「だよねっ。今言ってから、絶対違うなって思った」
そんなことくらいで、あの万年鼻の下伸ばし男が、こんなに麗しき美女を手放すわけがない。
きっと、それ以上の何か――サンジのなかで、のっぴきならない事情があったのだ。
あの日の――マドンナとのデート当日のサンジを思い浮かべる。すると、そういえば、と思うような不審な点が、少しずつ浮き彫りになってきた。
出かける前のサンジは、間違いなくいつものサンジだった。お店の雰囲気に合った服を時間をかけて選びぬき、身だしなみをこれでもかというほど整え、鼻の下をプラス三センチほど伸ばしながら、スキップで家を出ていった。
問題は帰ってきてからだ。帰宅したサンジは、やけにテンションが低かった。疲れ切っているようにも見えた。てっきり、はしゃぎすぎて喋り疲れたんだと思っていたけれど、その翌日も彼はマドンナとのデートについて、何も触れてはこなかった。
「***さんは今……好きな人とか、いないんですか?」
マドンナのその問いかけで、私は回想から現実へ引き戻された。そして、きょとんとしたカオを彼女へ向ける。
「好きな人? 私に? いないいない」
「いないんですか? 本当に? ほんとのほんとに?」
マドンナが、疑問符ごとにカオを近付けてくる。思わず私は、身を一歩引いた。なんでも見通せそうな大きな瞳が、なんなく私の嘘を暴いてしまいそうで怖かった。
「ほ、ほんとだよ。なんで?」
「……」
背もたれへ背を戻して、彼女は独りごとのように呟いた。
「だって……好きな人には、幸せになってほしいですから」
「……へ?」
訝しげな私に、彼女はただ静かにほほえむだけだった。
なんだかそれ以上は訊けず、結局その話はそれっきりになった。
*
「サンジーッ!」
玄関ドアを開け放つと、私は開口一番そう叫んだ。
靴をほっぽり投げるように脱いで、ずかずかと廊下を進んでいく。
リビングの扉を勢いよく開けば、サンジは対面式のキッチンで軽やかにフライパンを振っていた。そして、私の剣幕を見るや否や、くわえタバコのまま眉間に皺をぎゅっと寄せた。
「なんだよ、騒々しい」
本日、お店が定休日で休日だったサンジは、黒のロンTにジーンズというラフな格好で、料理に勤しんでいたようだ。カウンターにはすでに、多くの料理が並んでいる。
不覚にも私のお腹は、ぎゅるると唸り声をあげた。
しかし今は、ご飯に気を取られている場合ではない。腰に手を当ててふんぞり返りながら、私は訊いた。
「マドンナのことっ。フッたってほんとっ?」
サンジの目がぎくりと言った。そして、バツが悪そうに、すぐに逸らされる。それは、明らかな肯定を意味していた。
私は愕然とした。
「う、嘘でしょ……? やっぱり、ほんとだったの……?」
「……」
「サンジが、女の子をフるなんて……」
「……」
「しかも、あんな美人……」
「嘘だと思いてェのはこっちのほうだぜ……」
やれやれ、とでもいうように、サンジは紫煙を燻らせた。その横顔に、哀愁まで漂っている。
「どうしたのサンジ。何があったの? 具合でも悪いの? もしかして……重い病気?」
「おまえはおれを一体なんだと――いや、まァ。無理もねェか」
首を左右へ振りながら、サンジは自嘲したように笑った。その目元に、まったくもって力がない。
私は思わずカウンターに身を乗り出した。
「そんな……一人で抱え込まないでさ。私でよければ話聞くよ?」
「だから別に、大したことじゃねェって」
「もしかして、お仕事うまくいってないとか? 経営不振?」
「おれの店に限って、んなわけあるか」
「じゃあ、前に付き合ってた人が忘れられないとかっ?」
「おれは過去は振り返らねェ」
「じゃあ――じゃあっ、他に好きな人がいるとかっ」
料理を皿に盛り付けていたサンジの動きが、おもしろいくらいにぴたりと止まった。そして、顔面がみるみるうちに蒼白していく。
幼なじみのそんな表情を見て何も感じないほど、私は鈍感ではない。ようやく事情を理解して、私は小刻みに頷いた。
「なるほど……そういう……」
「……別に何も言ってねェだろ」
「いや、さすがに分かるよ。今の反応」
「……」
サンジは下唇を突き出した。いじけたようなカオをしながらも、みるみるうちに耳まで真っ赤になっていく。
そんなサンジの様子を見ていたら、なんだかこっちまで照れくさくなってきた。まるで、子どもが恋に目覚めた瞬間にでも立ち会ったみたいだ。大人びて見えて意外と純朴なところがあるのが、サンジなのだ。
相手は誰だろう――そう詮索しかけて、やめる。サンジのこの表情を見れば、それが今までとは違う、特別な恋なのだろうと、そう気付いたからだ。
握りこぶしを口の前に持ってきて、私はわざとらしい咳払いをした。そして、「まァ、とにかく」と、不自然きわまりないトーンで前置きをした。
「そういうことなら、まァ……仕方ないよね」
「……」
「サンジも普通の人間だったってことで――」
「気にならねェの?」
「……は? 何が?」
盛り付けを再開しながら、サンジはふいにそう問いかけてきた。手元では、光り輝くパスタが皿の上でくるりと踊っている。
「だから、気にならねェのかって」
「だから、何が? って」
「……」
「ちょっと。なにさ」
「……」
サンジはトングをフライパンの上に置いた。そして、訝しげに眉をひそめた私を、腕組みをしてじいっと凝視する。
勝負を挑まれているような気になって、私も負けじとサンジを見返した。
よくよく見ると、嫌味なほどに美しい男だ。彫りの深い目元に、高くすらりとした鼻。厚すぎず薄すぎない唇。そこから発せられる声は、いつも甘ったるくて、たまに掠れる感じが色っぽくて――。
心臓が加速を始めた。そういえば、こんなにサンジの目を見つめたことはなかった。だって、見つめられたことがなかったから。
スカイブルーの瞳が、まっすぐに私を捉えてくる。海に沈められたみたいに息苦しい。なんだ。どうしたっていうんだ、サンジ。
その時、サンジの唇がわずかに動いた。薄く唇が開いて、白い歯が見える。
何かを言おうと、息を吸ったところで、サンジは止めた。そして、ふうっと、太く長い息を吐き出した。
「飯にするか」
「……へ?」
「まだだろ?」
「え、あー……うん」
「今日、新メニュー考えててな。いっぱい作ったんだ」
言いながらサンジは、盛り付けを手早く済ませて、完成させた。次々と料理を渡されるので、私はそれらを慌ててリビングのダイニングテーブルに運んだ。
フォークやスプーンを用意しているサンジの横顔を盗み見る。
煙草の煙に目を細めるその表情がどこか別人に見えて、妙に胸騒ぎがした。
紳士の哀愁[ 9/12 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]