嵐の前のなんとやら

 "さっそくのご返信、誠にありがとうございます。セキュリティの面に関してお問い合わせを頂きましたが、今回の案件に関しましては万全を期s"


 メールを作成していたタイピングが止まる。


 期s……きす……キス……。


 その瞬間、ゼロ距離で見た、あの赤い瞳を思い出した。


 伏せられたまつ毛。半開きの唇。艶を含んだ息遣い。頬に触れた前髪の感触。皮膚の匂い――。


 私はデスクの上でまた身悶えた。"また"というのは、本日何度目かの、という意味である。


 ……キス。キスした。私。


 ……シャンクスと。


 声にならない声が出る。思い出すたびに毛穴という毛穴からは汗が噴き出して、カオは燃えているかのようにかっかかっかと熱をもった。


 落ち着け私。あんな触れるだけのキスで取り乱してどうする私。


 まったく仕事にならないので、己で己を叱責した。


 結婚したらあんなの日常茶飯事だし、キスだってきっともっとすごいのするし、それ以上も――。


 私は額をデスクに叩きつけた。逆効果だった。


 困った……心臓がもたない……。


 デスクに突っ伏したまま、私はついに白旗を上げた。


「***? それ何打ってんの?」


 ちょうど私の横を通り過ぎようとした同僚が、私のデスクトップをひょいと覗いてそう声をかけてきた。


 その声に、慌ててカオを上げれば、画面には「記す 鱚 kiss 接吻」と、とんでもない単語が羅列していた。


「なっ、なんでもないなんでもない!」


 誤魔化すように笑いながら、バックスペースを人差し指で連打する。


 同僚は首を傾げながらも、「今日社員食堂行く?」と訊ねてきた。


 行く、と答えると、じゃあ後で、と言って、彼女は去っていった。


「仕事しろ、自分……」


 メールを打ち直して、私は仕事を再開した。





「あれっ、***さん。お疲れ様です」


 同僚たちと昼食を取っていると、頭上からそんな言葉が降ってきた。


 カオを上げると、そこにはお盆を両手で持った、笑顔のユーゴくんがいた。


「あ、ユーゴくん……お疲れ様」

「***さんも食堂来るんですね」

「……私は割と食堂が多いかな」


 会話の途中で、同僚たち――それどころか、食堂全体から突き刺さるような視線を感じて、私は思わず声を潜めた。


「へェ、そうなんですね。おれ、いつも昼遅いから、今まで見かけなかったのかな?」

「そ、そうかもしれないね」

「じゃあ、今度お昼一緒しましょうね」


 周りの視線に気付いているのかいないのか(多分気付いてなさそう)、ユーゴくんは爽やかに笑って去っていった。


 じゃあ……と蚊の鳴くような声で返して、その背中を見送る。おそるおそる同僚たちを見渡せば、皆一様に鬼の形相をしていた。


 先手を打とうと、私は右手でみんなを制して言った。


「まっ、待って……! 説明させ」

「ちょっと! どういうことよっ、***!」

「どうして王子が、***に声かけてくわけっ?」

「しかも、『***さん』って! 『お昼一緒しましょう』って!」

「うらやましいこと山の如しいいい!」


 先手の甲斐虚しく、みんなは私の言葉をさえぎって私に詰め寄ってきた。


 実は、あの給湯室での会話以降、ユーゴくんとは社内でカオを合わせるたびに会話を交わすようになった。


 でも、会話の内容は他愛のないもので、天気の話だとか仕事の話だとか、ものの数秒で終わるような会話ばかり。もちろん、連絡先も知らない。


 私はそれを、誤解を招かないよう、詳細に順序だてて説明をした。


「だから、特別仲良くしてるってわけではなくて……」


 そう締めくくろうとしたら、みんなの目が途端にギラついた。


 あ、まずい。と感じた時には時すでに遅し。同僚たちは私の両手を握って、声を揃えてこう叫んだのである。


「合コン開催してっ!」





 困ったな……。


 マグカップ片手に社内の廊下を歩きながら、私は頭を悩ませた。


 先ほども回想したように、私はユーゴくんと特別仲が良いわけではない。無論、連絡先も知らない。


 それに、社内ですれ違うとは言っても、二、三日に一度くらいの割合だ。その上、ユーゴくんは高い確率で幹部社員と一緒にいる。とても気軽に声をかけられる状況ではない。(しかも内容が合コン)


 けれど、ユーゴくんとお近付きになりたいというみんなの気持ちもよく分かる。ユーゴくんは、女性幹部社員たちのガードが固くて、なかなか平社員はお近付きになれない。私なんかはごく稀なケースだろう。


 困ったな……どうしたもんか……。


 うんうん唸りながら、給湯室に入ろうとして、ぎょっとする。


 そこには、今まさに頭を悩ませていた、ユーゴくんの姿があった。彼は、鼻歌を歌いながら、あの日のようにタンブラーにハーブティーを淹れていた。


 ……私に気付いてない。


 ノリノリで鼻歌を歌うその背中を見守る。ノリノリって。かわいすぎか。


「……お疲れ様、ユーゴくん」


 声をかけると、ユーゴくんはびくんと肩をはね上げた。もう少し見ていたかったが、これ以上はセクハラになりそうだ。


 振り向いたユーゴくんは、カオを耳まで真っ赤にして、金魚のように口をパクパクさせた。


「なっ……! いつからいたんですかっ、***さん……!」

「いやっ、今だよ今」

「……」

「……三十秒前くらいかな」

「声かけてくださいよ……恥ずかしい……」


 照れ隠しなのか、手の甲で口元を隠して、ユーゴくんはそう訴えた。


「ごめんね。ノリノリだったからつい」

「うわあ、すっげェ恥ずかしい……」


 彼はついに、その大きな手でカオを覆った。カオが小さいので、すっぽりと隠れて表情が見えない。


「大丈夫。誰にも言わないよ」

「……絶対ですよ」


 みんなが知ったら、もっと人気出そうなのに。


 そんなことを思いながら、私はユーゴくんの隣でマグカップにお茶を淹れた。


 やはり、ユーゴくんのハーブティーは、抽出に時間がかかるらしい。


 チャンスは今しかない。私は一つ、咳払いをしてから、話を切り出してみた。


「ユーゴくんって、彼女――欲しいとか、ある?」


 本当は『彼女いる?』と訊こうとしたが、これももしやセクハラになるのではないだろうかと、すんでの所で押しとどまった。


 ユーゴくんはというと、きょとんとしてから、「えっ」と照れたようなカオをした。そして、


「ほっ、欲しいですっ。もしかして、紹介とかしてくれるんですかっ?」


 と、クリアブルーの目を輝かせたのだ。


 えっ。ユーゴくん、彼女いないのっ? そして、欲しいのっ?


 予想外すぎる"王子"の反応に、私は思わずどもってしまった。


「し、紹介っていうか、ご、合コン、なんだけど……」

「合コン……!」


 目のきらめきに加えて、ユーゴくんは頬をほんのり赤らめた。そして、


「おれっ、合コンって初めてなんです……! 学生の時も、社会人になってからも、なかなか声がかからなくって」


 と、私の誘いを歓迎するかのように言った。


 おそらく、いつの時にもユーゴくんの陰では"ユーゴくんはみんなのもの"協定でも結ばれていたのだろう。男性からすれば、こんな絶対的にモテるであろう友達を合コンには連れて行きたくないだろうし。……人気者って大変。


「じゃあ、私企画するね。ユーゴくん、男性の知り合い何人か声かけられる?」

「かけますかけます。大学の友達とか、彼女いないヤツ何人かいるんで」

「ほんと? じゃあまた日取りとか……あ、連絡先とか訊いても迷惑じゃない?」

「全然かまいません」


 そう言ってユーゴくんは、いそいそとスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。


 メッセージアプリで連絡先を交換すると、ユーゴくんはタンブラー片手にうれしそうに手を振りながら去っていった。


 ……かわいい。モテるのに、合コン初めてで、楽しみにしてるとか。


 なんとか、いい出会いに繋がるといいな。


 合コンの幹事は初めての経験だが、両者に良い出会いがあればと、尽力を尽くすことを決意した。





 あれから二週間後。合コンは予定通り開幕を迎えた。


 類は友を呼ぶとはよく言ったもので、ユーゴくんの友人たちはみんな人柄も良く、外見もユーゴくんに引けを取らない、所謂イケメンだらけだった。(それでもユーゴくんが一番カッコイイ)


 私の同僚たちも、合コンには目をギラつかせがちだが、みんな気のいい、明るい子たちばかりだ。


 そんなメンツの揃った合コンだったので、場は大いに盛り上がった。


 よかった……。みんな喜んでくれて……。


 一歩引いたところでその光景を眺めながら、私はまるでお見合いの仲人のようにほほえましく頷いた。


「じゃあ、みんな"赤髪のシャンクス"に憧れてるんだー!」


 私の同僚の一人が、突然そう言った。


 私は、ビールを吹き出しそうになった。


「そりゃあそうですよっ」

「男であの人に憧れないヤツはいないよなァ」

「カリスマ性あるし、人望も厚いし、思いきりもいいし……」

「経営者にありがちな、ズル賢さもないよなっ。堂々と勝負してるっていうか」

「もう、男の憧れをそのまま詰め込んだような人だよ」


 最後に言ったユーゴくんの目は、あの日のようにキラキラしていた。今は、アルコールのせいで、少し赤みも増している。


「あの会社は、副社長も有能だしね」


 どういう会話の流れだったかは分からないが、私は思わずそう補足した。実際そうだし、シャンクス自身も、自分が褒められた時は必ずそう付け加える。


「***さん、よく知ってますね」


 ユーゴくんが、ぱっと私の方を振り向いて、うれしそうなカオをした。


「そうなんだよなっ。あの会社って幹部社員も有能な人多いんだよ」

「特にベンベックマンは、レッドフォースの頭脳って言われてるし」

「見た目も渋くてカッコイイんだよなァ」


 男性陣の話を聞いていた私の同僚たちも、ベンベックマンの存在に興味を持ち始めて、スマートフォンで検索を始めている。


 そうだよ。ベンさんもすごいんだよ。


 私は満足したように頷いてみせた。


「そんな有能な人達を束ねてる"赤髪のシャンクス"! やっぱりすごいよなァ……」


 そう言ったユーゴくんは、うっとりとさせた目を宙に浮かせた。


「王子って、意外とかわいいところもあるんだね」

「ほんとっ。近寄りがたいイメージだったから、ますます好印象だねっ」


 私の隣で、同僚二人がそう内緒話していた。


 見ると、何人かが連絡先を交換したり、二人きりで話が盛り上がったりしている。


 ユーゴくんのイメージアップにも繋がったし……開いてよかったな。この合コン。


 私は一人、達成感を感じていた。





 合コンがお開きになると、偶然方向が同じだったユーゴくんと、二人で駅まで歩いた。


「人生初の合コンはどうだった?」


 そう訊ねると、ユーゴくんは頬を少し赤らめて、


「とっても楽しかったです。女性と話す機会もそうそうないから、勉強になりました」


 と、うれしそうに言った。


「なら良かった」

「またあのメンバーで飲みたいですね」

「うん、また集まろう」


 そんな話をしていると、ユーゴくんが独り言のトーンで呟いた。


「"赤髪のシャンクス"も、恋とかしてるのかなァ」

「……えっ」


 思わずぎくっとして、私はユーゴくんを見上げた。


「最近の彼、なんだか穏やかな表情してませんか?」

「……そう、かな」

「うん。おれには分かる。なぜならファンだから」


 そう言ってユーゴくんは、右手の拳を固く握った。


「でも、あの人も相変わらずの女性遍歴だからねェ。例え結婚したとしても、一人の女性に収まるってのは、なかなか無理だろうよねェ……」


 酔った勢いで、思わずシャンクスの愚痴のようになってしまった。


 いかんいかん、喋りすぎ、とか思ってお口にチャックをしていたら、ユーゴくんが「いや」と言った。


「あの人は、一度『この人』って決めたら、揺るがないと思う」

「へ? ……そ、そう?」

「はい」


 やけにきっぱりと言い切るので、「根拠は?」と訊いたら、「なんとなく」と照れ笑いで返された。


「最近は、居酒屋で遭遇しないの?」

「最近どころか、あれっきりですよォ。お店変えたのかなァ」


 ユーゴくんは、心底落ち込んでいるような素振りを見せた。


 本当に憧れてるんだな……。なんか……申し訳ない。幼なじみなんだから、会わせてあげることもできるのに。意地悪でもしてるみたいだ。


 ……今度、シャンクスに相談してみようかな。


「ユーゴくん、なんか……ごめんね」

「? 何がですか?」


 かわいらしく首を傾げたユーゴくんに、私は「なんでもない」と答えて愛想笑いをした。


 まさかこの日の出来事が、後日シャンクスとの喧嘩の原因になるだなんて、夢にも思っていなかった。


の前のなんとやら


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