思考回路がぐーるぐる

「あっ、そのエレベーター待って!」


 閉まりかけた扉の向こうから、慌てて声が追ってきた。


 エレベーターの中にいた私の手は反射的に動いて、「開」のボタンを連打する。


 なんだよもう、とでも言うように扉が渋々と開くと、その隙間から男性のカオが覗いた。


「すみません、ありがとうございます」

「あ、いえ」


 書類片手に現れたのは、入社二年目のユーゴくんだった。


 彼は、フランス人と日本人のハーフらしく、ぱっと見は外国人ぽく見える。


 けれど、キレイな唇から発せられる日本語は流暢で、入社二年目にも関わらず、営業成績もトップクラス。御察しの通り、ルックスも抜群。


 陰で「王子」なんてあだ名がつくくらい、女子社員の間でも断トツで人気者だった。


 つまり何が言いたいかというと、「エレベーターに王子と二人きり。ラッキー」である。


「何階ですか?」

「あァ、ええっと……あ。あなたと一緒」


 点灯した「8」のボタンを見て、彼は目を細めてほほ笑んだ。うん、今日も王子は王子だ。


 それからは特に何かを話すこともなく、エレベーターが昇っていく機械音を、沈黙と一緒に聴いていた。


 すると、8階に辿り着くまでの間、彼は不自然なくらいにエレベーターの隅っこへ寄った。私と距離を取るように、だ。


 あれっ、もしかして私、クサイのかな。


 一人ショックを受けていると、8階への到着を告げる音が鳴った。


 彼は即座に「開」を押して、手のひらを上に向けて私を先に降りるよう促した。うーん、スマート。


 ありがとうございます、とお礼を言って、私はエレベーターを出て右へ進んだ。


 彼は、左へ進んで行った。





「ちょっと***! 見ーたーわーよー!」


 社員食堂で昼食を取っていると、同僚がそんなことを言いながら隣に座った。


 そばを啜りながら「ふぁにを?」と訊くと、彼女は肘で私を小突きながら言った。


「エレベーターで王子と二人きりだったでしょ!」

「ええっ、王子と二人きりっ?」


 答えたのは私ではない。私の周りで同じく昼食を取っていた同僚たちだ。


 みんなは同じスピードで一斉に私の方を向くと、目の球をひん剥いて身を乗り出してきた。


「ちょっとそれほんとなの、***!」

「う、うん。まァ」

「何っ? 何話したのよ!」

「はっ、話なんてしてないよ」

「ほんとにっ? ひとっことも? 一文字もっ?」

「いや、そう言われると……」


 みんながあまりにも乗り出してくるので、私は王子のモノマネも混じえてエレベーターでの会話を再現した。


「はァ、なんてスマートなの……」

「王子にほほ笑みかけられるなんて、うらやましすぎ」

「8階になんの用だったのかしら」

「あとアンタ、王子のモノマネ全然似てない」


 みんなが憧れるのも無理はない。王子は、本当に"王子"なのだ。


 少女漫画にありがちな、「実は性格が悪い」だとか、「女癖が悪い」だとかが一切ない。


 女性のみならず男性にも優しいし、上司だけではなく、部下にも気を遣う。優しいだけではなく、言うべき時は厳しく指導するし、上司だろうと取引先だろうと、思ったことは真っ直ぐに主張する。


 みんなの憧れとは少し違うが、私も彼に憧れていた。


 この感情は、初めてシャンクスに会った時の感情と似ている。シャンクスも、彼とまったく同じタイプだからだ。


 ま、まァ、思いがけず、シャンクスには下心を抱いてしまったわけだけど。


「はァ、やっぱり私たちは、王子を心の支えにしましょ」

「そうね。王子で傷心を癒しましょう」

「傷心? どうしたの? みんな、何かあったの?」


 突然、沈んだカオを見せた同僚たちに、私は恐る恐る訊ねた。


「これよ」


 一人の同僚が、自分のスマホを私に差し出した。それを受け取ると、画面には芸能スクープをランキングしてる記事。


「? これが何?」

「バカね***! よーく見てよ! 全部熱愛記事じゃない!」

「へ?」


 確かに、画面に映し出されているランキング3位から下は、ほとんどが芸能人同士の熱愛のゴシップだった。


「ついに……タクヤまであの女優の毒牙に……」

「あの人はいいじゃない。今まで何度かあったんだから。問題はリョウくんよ、リョウくん。初スキャンダルが、まさかあんな年上なんて……」


 さめざめと泣き始める彼女たちに、私はあきれ笑いを隠しきれなかった。


「なァんだ、芸能人か」

「なんだとは何よっ! 私たちがあの子達をどれだけ心の支えにしているかっ!」

「あ、そ、そうなの?」

「そうよ! 私なんて、彼氏に浮気されて落ち込んでるところに、さらにこれよっ!」

「えっ、そっちの方が重大じゃない?」

「でもやっぱり、一番の重大は1位の記事よね」


 一人がそう言うと、全員が「ああー」と口を揃えながらタテに大きく頷いた。


「1位の記事?」


 そう言われて、私は画面を上へスクロールした。


 1位の記事の見出しを見て、ひくりと頬が引きつった。


「アーティストの次は、会社経営者ですってねー」

「あれ? その前にパティシエ挟んでなかった? ほら、あの有名なホテル王の一人娘」

「はー、あの人も幅広いわねェ」

「きっと、来るもの拒まずなのよ。女もさ、順番待ちしてるのよ。その椅子が空くのを」


 そんな会話を耳にしながら、リンクされている文字を押した。


 記事には、大企業の社長と外資系企業の美人経営者の密会が報じられていた。


 言わずもがな、大企業の社長の方は、シャンクスである。


 web上の記事なので、写真はなかったものの、「高級料亭の個室で二人きり」「隣同士に座って密着」「シャンクス氏が女性の唇に触れる仕草」などなど。


 そんな内容が、ご丁寧に詳細に詰め込まれていた。


 女性の唇に触れる仕草って。なんじゃそりゃ。どういう状況よ。


 写真が無い分、逆に想像力が掻き立てられて、否が応でもいやらしい絵面になってしまう。


 自ずとむくれた頬をそのままに、私はスマホを彼女へ返した。はァ、見るんじゃなかった。しかも、パティシエの一件は知らなかった。なんて能天気な婚約者だ、私。


 自分自身にあきれながら、ぬるくなった伸びきったそばを思いきりすすった。





「……あ。」

「? ……あァ」


 給湯室に行くと、王子がいた。


 思わずもらしてしまった「あ」に、王子は笑顔で返してくれた。


「よくお会いしますね」

「そ、そうですね」


 緊張と、妙な気まずさから、私の笑顔は引きつった。わざと近付いてるとか思われたらどうしよう。


 そんな心配をよそに、王子は鼻唄を唄いながらお湯をタンブラーに注いでいる。そうだよね。そんなこと思うような人じゃないよね。


 しかし、鼻唄って。かわいいな。


 給湯室に、品の良いハーブの香りが充満する。王子、ハーブティー飲むのか。おしゃれ。


 そんなことを心の中で呟きながら、私も自分のマグボトルへインスタントコーヒーを入れた。よし、私も今度からハーブティーにしよ、


「ごめんなさい」

「はっ、はいっ?」


 突然、お詫びの言葉を投げかけられて、私は目をまるくして彼を見た。


「これ、抽出に時間かかっちゃって」

「へ? ……あ、あァ!」


 "これ"と言ってキレイな長い指が指したのは、彼のタンブラーだった。


 すぐには意味が分からなかったが、どうやらこの狭い給湯室にいつまでも自分がいることを、悪く思ったらしい。


「ははっ、全然かまわないですよ。気を遣わないで下さい」

「ありがとうございます」


 そう答えて王子は眉頭を上げてにっこりと笑った。


 気遣いさんだなァ。若いのに。胃に穴が空かなきゃいいけど。


 なんて老婆心ながら思っていたら、彼はまた、あの動作をした。


 ぎゅうっと、まるで箱詰めにされたお寿司ように、壁いっぱいに寄るのだ。


「あ、あのー……」

「?」


 抽出を待つ端整な横顔に、私は勇気を振り絞って訊ねた。


「私……臭いますか?」

「……は?」

「あ、いや。この前もエレベーターで、その、こうやって」


 "こうやって"で、彼の動作を真似た。


 きょとん、としたのち、王子は慌てて首を振った。


「ちっ、違いますよ……! ほらっ、おれ背が高いから!」

「へ?」

「だからっ、狭い空間だと女性に息苦しい思いさせちゃうなって!」

「……」

「そ、それで……」


 そうか、そう思う人もいるのか。ダメだなァ、おれ。


 と、そこからは一人言の声量になって、王子は肩を落として分かりやすく落ち込んだ。


「なっ、なるほど! そういうことだったんですね! いやっ、私の方が察せなかったというか、なんというかっ」

「女性にそんな気持ちにさせるなんて……おれ……」

「いやいやっ、多分そんなこと思うの私だけです! 逆にすみません!」


 せっかくの気遣いをマイナスに受け取ってしまって、私は非常に申し訳なくなって、慌てて詫びた。


「いえ、ご指摘ありがとうございます。自分よがりな気遣いは、却って思いやりを欠いた行動になってしまいますから」

「い、いや、そんなことは」

「あ、ほんとに。いじけてるとかではなくて。良かった。言ってもらって」


 そう言って王子は笑った。「早い段階で気付けて良かった。うん」というプラス思考の言葉付きである。


 すごい子だ。見習いたい。


「女性ってもしかして、そんなにそういうの気にしないんですか?」

「そ、そういうのって?」

「ほら、エレベーターとか、こういう狭い空間で、こんな身体の大きな男と一緒になったら、怖くないですか?」

「あ、なるほど。ううん、そうだなァ」


 どうだろう。どうかな。いや、王子ならきっと、誰も気にしない気がするけど。


「い、一般的には分からないですけど、私とか、私の周りは気にしないと思います」

「ほんとですか?」

「はい。知らない男性ならまだしも、お……いや、ユーゴさんのことはみんな知ってるし。ほら、人柄とかも」

「そうか。なるほど」


 王子は深く頷きながら、思慮深いカオをした。


「あ、あと、実は私、知り合いの男性が結構背の高い方が多くて」

「あ、そうなんですか? 彼氏ですか?」

「えっ、あー、いや、あの……幼なじみが」


 曖昧に笑いながら、私はようやくタンブラーにお湯を注いだ。王子も、抽出が終わったらしい茶葉を取り出している。


「へェ! 幼なじみ! いいなァ。おれ、そういうのいないから、うらやましい」

「ははっ、そうですか?」

「幼なじみは何センチくらいなんですか?」

「え? そ、そうだなァ。訊いたことはないけど……多分2メートル近くは」

「に、2メートルっ?」

「ね、大きいですよね」

「じゃあ、おれなんてまだまだかわいいもんですね」

「ユーゴさんは何センチなんですか?」

「おれ190くらいかな?」

「そんな変わらないじゃないですか」

「いや、10センチの差は大きいんですよ」

「そうなんですか?」

「そうなんです」


 初めてまともに話した王子は、思っていたよりも気さくな人だった。大人っぽく見えていた外見も、実際に話すと年相応に感じる。


 シャンクスもそうだもんな。ぱっと見話しかけにくいけど、話してみると会話の中身中学2年レベルだもんな、私たち。


 シャンクスのことを思い出したら、あの記事までおまけに思い出した。


 記事、というか、勝手に妄想が暴走して、イチャついてる映像しか想像できない。


 急に気持ちが沈んで、小さくため息が出た。


「実は、おれの憧れの人も、背が高いんです」

「……へっ? あ、そ、そうなの?」


 少し考え事をしていたから、反応が鈍った。


「憧れの人って、男の人?」

「はい。憧れっていうか、もう雲の上で。尊敬してる人なんですが」

「へェ、そうなんだ。ユーゴくんにもそういう人いるんだね。お父さんとか?」

「いえ。あっ、もちろん父も尊敬してますけど、その人は経営者で」

「経営者かァ」


 そういう人を尊敬するあたりがやっぱりすごいな。ユーゴくん意識高そうだもんな。


「実はおれ、これ自慢なんですけど、その人と話したことがあって」


 ユーゴくんは、身を乗り出して、内緒話のトーンで教えてくれた。


 目がキラキラしている。本当に心から憧れているらしい。


「そうなんだ! でも、ユーゴくんが憧れるくらいの人なら、有名な経営者なんじゃない? どこで会ったの?」


 二人とももうすでにタンブラーの準備は出来ていたが、話が尽きなくて壁に寄りかかりながらおしゃべりをした。


「それが、フツーの居酒屋!」

「へェ! 有名な経営者なのに?」

「おれもすっごいびっくりして! だって、めちゃくちゃ有名なのに、変装もしないでカウンターにすわってるからさ!」


 その時のことを思い出しているのか、ユーゴくんは次第に興奮して子どもみたいに身振り手振りで話をした。


 相当好きなんだな、その人のこと。


 しかし、有名な経営者って居酒屋が好きなのかな。シャンクスもよく行くし。


 思い浮かべたシャンクスは、知らない女性と笑いあって、頬に触れていた。


 シャンクス→あの記事、という思考回路にクセがついてしまって、私の心は忙しなく揺れた。


「あの時勇気出して話しかけて良かったって思ってるんです。じゃなかったら今のおれ、きっといないから」


 興奮してた自分が恥ずかしくなったのか、ユーゴくんは頬を赤らめて照れくさそうにそう言った。その様子が、なんともほほえましい。


「どんなこと話したの?」

「それが、仕事のこととかはあんまり。そりゃ、言えないよね。経営者だし。精神論とか聞きたかったんだけど。でも、そういうことを軽く口にしないところが逆に良いっていうか」

「ははっ、もうユーゴくん、その人にベタ惚れだね」

「そりゃそうですよ。この目も、彼と出会えて初めて好きになれて」

「目?」


 ユーゴくんは、自分の瞳を指差した。そして、覗き込むようにしてカオを私に近付けた。


「おれの目、青いでしょう?」

「う、うん。ハーフ、だもんね?」

「昔ね、よくこれでからかわれたんです。一人だけ目が青かったから。」

「そうだったんだ……」

「流れでそんな話になった時、彼がこう言ったんです」


 "おれの赤とおまえの青で、なんか信号みてェだな!"


「そう言って、豪快に笑い飛ばしてくれたんです」

「……」

「それから、なんだか彼とワンセットだと思うと、すごく誇らしくなって」

「……」

「それからは逆にこの目が自慢に」

「あ、あのさっ」

「?」


 突然話を遮った私に、ユーゴくんは目をまるくして首を傾げた。


 有名な経営者。居酒屋が好き。赤い目。おまけにその中学2年レベルの切り返し。


「ユーゴくんの尊敬してる経営者って、もしかして……」


 そう言うと、ユーゴくんは照れたように笑って言った。


「レッドフォースの、赤髪のシャンクスです」


 頭の中で、シャンクスが知らない女性にキスをした。


思考回路がぐーるぐる


そっか。さすがに誰でも知ってますよね。……あれ? もしかして知らない?


……いえ、(よく)知ってます。


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