純愛初心者

「はァ? 合コン?」


 ネクタイを緩めるしぐさをしたまま、シャンクスは眉間の皺をベンへ向けた。


 ベンは煙草をくわえながら、数枚の紙切れと写真をデスクの上にほうった。


「会社の同僚に誘われたみてェだな」

「……」


 紙面の文章に軽く目を通してから、シャンクスは写真を拾い上げた。


「まァ、付き合いってやつだろう」

「……」

「半ば強引に付き合わされたらしい」


 そう付け足したのは、写真を見たシャンクスの表情が凍りついたからだった。


 それを見て、ベンはいくらかこの報告をしたことを悔いた。


 これはなかなか面倒なことになりそうだ。いやしかし、報告をしなかったらしなかったで、あとあとバレた時にさらに面倒になる。


 やはり自分の判断は誤っていなかったと、自らにそう言い聞かせながらベンは続けた。


「同僚にも合コンでも、***は『微妙な関係の男がいる』と言っていたらしい」

「……それはおれのことか?」

「まァ、そうだろうな」


 その表現に、シャンクスは思いきりカオをしかめた。


「なんだよ、微妙な関係って。婚約者だぞ。微妙なわけねェだろ」


 写真に写っている***の愛想笑いに目を落としながら、シャンクスは独り言のように呟いた。


「確かにアンタたちは婚約している。だが、***は周囲にはそう言わない。なぜだかわかるか?」


 ベンのその問いかけに、シャンクスは皆目見当もつかず、小さく首をひねった。


「実感だ。***には、アンタと婚約しているという実感が、おそらくはない」

「実感がない? そんなわけねェだろ。指輪もやってプロポーズもしてるんだぞ」


 自信満々にそう言えば、ベンは半ばあきれたように深く紫煙を吐き出した。


「ダメだな。そんなことで満足しているところがもうすでにダメだ」

「んな……!」

「そんなもので繋ぎ止めておけるほど、***の心は丈夫じゃない」

「ど、どういう意味だよ……」


 ベンはその問いには答えず、懐から一冊の本を取り出した。


「それから、極めつけはこれだ」


 まだ何かあるのかと、うんざりしたカオをベンに向ければ、シャンクスはベンの持っている本の記事に目を剥いた。


「げっ、なんだよこれ!」


 そこには、『レッドフォース社社長シャンクス氏、またもや熱愛! お相手は正統派若手モデル兼アーティスト!』の文字が、無責任に躍っていた。おまけに、まぬけにも写真まで撮られている。


「これは余計だったな。***の不信感を募らせるには十分だ」

「こんなのでたらめじゃねェか! 具合が悪いって言うからただ支えてやってただけだぞ! 車まで付き添ってやって、それきりだ!」

「***はそうは思わない」

「おれより、こんなどこのどいつが書いたか知らねェ記事を信じるってのか?」

「この写真を見て信じろというほうが半ば無理な話だ」

「たかだか手つないでるだけじゃねェか! キスしてるわけでもあるまいし!」

「しつこいようだが、***はそうは思わない」


 シャンクスは言葉に詰まって、ベンの涼しいカオを睨みあげた。


「さっきも言ったが、高価な指輪や婚約者という肩書だけでまっすぐ立っていられるほど、***の心は丈夫じゃない」

「……」

「今の***の心は、幼児の抜けかけた乳歯よりグラグラだ」

「……なんだよその例え」

「ククッ、わかりやすいだろ?」


 ベンはいたずらに薄く口元を歪めたが、すぐに真顔に戻って言った。


「そこに、この報道だ。いくら鈍感なアンタでも、***の今の心情が読み取れるだろう?」

「……」


 シャンクスは、再び手の中の***の写真に目をやった。


「……悪いが、お小言はまた明日頼む!」


 そう言うと、シャンクスはデスクに放っていた上着と車のキーをひっ掴んだ。


 「小言はもういらんようにしてこい」と、背中でそう声がした。





 数回のコール音の後、控えめな声が耳に届いた。


『……はい?』

「……おう、おれだ」

『……おう』

「まだ眠ってなかったのか。夜更かしだな」

『シャンクスに言われたくない。あ、そっちは夜じゃないの?』

「いや、夜だよ。おまえ夜に下着干しとくのやめろよ。下着泥棒に狙われるぞ」

『……』


 しばらくの沈黙のあと、明かりの漏れているカーテンがゆらゆらと揺れた。


 小柄な影が慌ただしく動いたかと思えば、カラカラカラと古くさい音が夜の住宅街に響く。


 ひょっこりとカオを出した***が、あんぐりと口を放ったままシャンクスを見下ろした。


「よォ!」

「……なに、してんの」

「さっきパリから戻ってな。ほれ、土産」


 そう言って、シャンクスは持っていた大きな袋を見せつけるようにくいっと持ち上げた。


「ちょ、ちょっと待ってて。今下行く」

「おう」


 くるりと踵を返すと、***は影ごと部屋の奥の方へ消えた。


 数秒してから玄関が開けられて、くたびれたパジャマを着た***がおずおずと現れる。


 それを見たシャンクスの頬は、自然とゆるんでしまっていた。


「よォ。悪いな、こんな時間に」

「いや、もう慣れたよ」

「だっはっは! そうか!」

「いつ帰ってきたの?」

「ん? ついさっきだよ。0時くらいか?」

「そっか、おつかれさまね」

「おう」


 少しの沈黙の後、シャンクスは軽く咳払いをして手に持っていた袋を差し出した。


「これ、おまえに土産」

「あ、ありがとう。見てもいい?」

「あァ」


 そう答えると、***はがさごそと袋の中を探った。


 中には、パリで有名な菓子と、犬のぬいぐるみが入っている。


「あっ、かわいい」

「おまえ好きだろ? そういうの。いい歳して」

「一言余計なんですけど」

「だっはっは! 悪い悪い!」

「あ、このお菓子知ってる。テレビでやってた」

「そうなのか? なんかうまいってあっちの社員に聞いたからよ」

「わー、楽しみ。ありがとう」


 心なしか目を輝かせて、***はいつまでも袋の中を覗いていた。


 シャンクスは小さく咳払いをすると、さりげなくこう切り出した。


「あー……あのよ」

「うん?」

「いや、あー……あれ、見たか?」

「? あれって?」

「だから、ほら、その……おれの記事」

「記事? ……あァ」


 合点いった様子で、***は小さく頷いた。


「あー……あれなんだけどな」

「いいよ」

「え?」

「だから、いいよ。何も言わなくて」


 シャンクスが弁明しようとしたのをさえぎって、***は言った。


「いや、いいっておまえ……」

「だって、気にしてないもん」

「……そうなのか?」

「だって、これからだって、きっとああいうことあるでしょ」

「いや、まァ、それは……」

「そのたびにいちいち気にしてたら、しゃっちょさんの奥さんなんて勤まらないでしょ」

「……」

「モテるダンナ様で、結構結構!」


 そう言ってシャンクスの肩をぽんぽんと叩くと、***は、にひっと歯を見せた。


「まァ、おまえがそう言うなら……」

「うん。もうその話はいいよ。あ、食べる?」


 いつのまにやら土産の袋からお菓子を取り出して、***は一つ頬張っていた。


 ***の手から菓子を受け取ると、シャンクスもそれを口に放った。


「おいしいね、やっぱり」

「あァ、そうだな」

「こんな時間に食べたら太るね」

「じゃあなんで開けたんだよ」

「食べたかったから」

「おれにくれたら取り分減るぞ」

「私だけ太るのはいや」

「おれを巻き込むなよ」


 くだらないことを話しながら、いつものように笑い合う。


 今までは、これだけでよかったのかもしれない。よかったのかもしれない、が。


「シャンクス、明日も早いんでしょ? 私は休みだけど」

「ん? あァ、まァまァな」

「わざわざありがとうね。早く帰ってゆっくり休んで」

「……」


『もう少し、一緒にいたいんだ』


 そう口を開きかけて、やめた。


 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。


「んじゃ、またな」

「うん。気をつけてね」

「あァ」


 シャンクスは車に乗り込むと、エンジンをかけた。


 助手席側のウィンドウを下げると、シャンクスは「おやすみ」と声をかけようとした。


『そんなことで満足しているようじゃダメだ』


 ベンのその言葉が、なぜか思い出された。


「? シャンクス? どうし」

「写真」

「え?」

「送るだろ、最近。写真」

「え? あ、うん」

「なんでかわかるか?」


 そう訊ねれば、***は大きく目をまるくした。


「いや、わかんない。私も気になってたんだよね。シャンクス、風景写真なんて好きだったっけ?」

「いいや? べつに」

「へ? じゃあなんで……」


 怪訝そうに眉をひそめた***に、シャンクスは言った。


「ここにおまえがいたらなって、思うからだよ」

「……へ?」

「綺麗な風景見たときとか、うまいもん食ってるときとか、必ずおまえのこと思い出すんだ」

「……」

「おまえにも見せてやりてェなとか、おまえならうまそうに食うだろうなとか」

「……」

「そんなこと思って、送ってるんだ」

「……」

「……おれは」


 シャンクスは、そっと息を吸い込むと、吐き出すのと同時に思いきって言った。


「いつも、おまえのことを想ってる」

「……」

「じゃあな、鍵ちゃんと掛けろよ」


 そう言うと、***の言葉を待たずにウィンドウを上げた。


 ゆっくりと車を走らせながら、シャンクスは深く息をついた。


 死ねる。今なら死ねる。恥ずかしすぎる。


 バックミラーから、ちらりと***の様子を窺った。


 ***は、ちょうど玄関を開けたところだった。


 室内の明かりに照らされた***のカオは、熟れたトマトのように真っ赤だった。


 こんなふうに、少しずつ。少しずつでいいから、素直に気持ちを伝えることが、きっとこれからのおれたちには、大切なんだと思う。


 おれはそんなふうに思ってるんだが。おまえはどう思う? ***。


純愛初心者


 おれが知りたいのは、おまえのもっと奥なんだ。


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