16

 ふと我に返ると、ローは船の前にいた。


 どこをどう戻ってきたのか、まったく記憶にない。


 無理矢理何かに背中を押されて、追い出されたような。そんな感覚だけが残っていた。


 頭が異様に重い。目の前は歪んで、足元がふらつく。耳鳴りもひどくて、五感すべてが自分のものではないような感じがした。


 "ロー"


 鼓膜の奥で、聞き慣れた声が弱々しく自分を呼ぶ。


 ローは、目を瞑った。神経を、耳だけに集中させたかった。


 この声が。この声だけが、自分を引き戻してくれる。そう知っていた。


「***……」


 舌の回りきらない口で、呼び返した。


 ***……。


 おれは、


 おまえを守りたい。


 当たり前にある、


 おまえとの日々を。


 ……そうだ。


 ***は……?


 ***は、どうなった。


 ローは目を開けた。


 目の玉を洗ったように、視界がクリアになった。船の輪郭もよく見える。鈍痛もいつのまにか消えていて、耳には叫び声がはっきりと届いた。


「船長……! 船長っ!」


 声は、シャチのものだった。正確には、よく響いたのがシャチの声で、他の船員たちも口々に自分を呼んでいた。


「船長っ……! ***っ……***がっ……!」


 涙ながらに、シャチがようやくそれだけを口にした。


 ローの身体から、血の気が引いた。嫌な予感が的中する時の感覚だった。


 無我夢中で駆けて、船に戻る。


 甲板に***の姿はなかった。シャチや船員たちが、船内へ誘導する。「手術室で、今ペンギンがっ」と、確かシャチがそう言った。


 なだれ込むように手術室へ入ると、手術台の上で、ペンギンが***に馬乗りになっていた。


 名が刻まれた帽子は床に落ちていて、こげ茶の髪が一心不乱に振れている。


 心臓マッサージを受けている***のカオには、酸素マスクが着けられていた。


「船長……!」


 ローの姿を見たペンギンのカオに、ほんの少し希望が滲んだ。


 ペンギンが手術台を降りると、素早くローがその上に乗った。


 痩せ細った胸の上に両手を置くと、ローは力と願いを込めて押し込んだ。


「***……! ***……! 戻ってこい……!」


 ローがそう懇願しても、蒼白いカオはぴくりとも動かない。


 まるで人形のようで、これはもしかしたら***ではないのではないかと、そう思った。思いたかった。


「***……! ***……!」


 手術台が軋む音と、心電図の電子音。***の名を叫ぶ船員たちと自分の声だけが、船内に響いていた。


 コラソン、頼む。


 この子を、助けてくれ。


 おれを救ったように。


 おれの、大切な人も。


 神ではなく、かつての恩人にそう祈った。


「***……! 頼むからっ」


 おまえまで、


 おれを置いて、行かないでくれ。


 酸素マスクの中の唇がほんのわずかに動いたのを、ローは見過ごさなかった。


 ローは動きを止めて、白い頬に手を添えた。


「***……? ***……!」


 頬を叩くと、***のまつ毛がぴくりと揺れた。


 「***!」と、安堵の息と共に、船員たちが口々にその名を口にする。


 ローも安堵しかけたが、心電図の動きのか弱さが気にかかった。


「***? おれの声が聞こえるか? ***……」


 自分のものとは思えないほどのひ弱な声が、ローの喉の奥から絞り出された。


 ***の目が開いた。数回まばたきをしてから、***はやはり、ローを一番最初に探し当てた。


 ローを目に写すと、***は唇を動かした。微かだが、声も聴こえる。


 ローは慌てて、酸素マスクに耳を寄せた。


「ロー……」


 酸素マスクの中で、***は確かにそう言った。「船長さん」ではなく、幼なじみの名を口にした。


 ローの頬に、冷え切った手が添えられる。


 手首から伝わる脈は、もう今にも止まりそうだった。


 ……ダメだ。


 これは、もう、

 
「ロー……?」

「……」

「ロー、泣いてるの……?」


 まるで子供を慰めるように、***はローのこめかみ辺りを撫でた。


 ローはなぜか、母を思い出した。


「泣かないで、船長さんなんだから……」

「……」

「寂しい思いさせて、ごめんね……」

「……」

「起きたら、おにぎり作るね……」

「……」

「一緒に、食べようね……」

「……」

「ロー……」

「……」


 声が止んだ。撫でる手の動きも。


 酸素マスクから耳を離して、ローは***のカオを見た。


 微笑んだような表情のまま、***は動かなくなった。


 心電図の音が、「この命は終わりました」と機械的にそう告げる。


 その音と、放心した船員たちの沈黙だけが、数分もの間ローの耳を支配していた。


 意識より先に、身体が動いた。


 ローは、再び心臓マッサージを始めた。


「***、大丈夫だ、まだ……まだ助かる」


 他の誰にでもない。自分にそう言い聞かせた。


「***、***、大丈夫、大丈夫だか」


 ローの手の上に、大きな手が静かに添えられた。


 自然と、ローの動きが止まる。


 手の主は、ペンギンだった。涙に濡れたカオを、ペンギンは小さく横へ振った。


「うっ、わあああああん……! ***がっ、***がっ……死んじゃったよお……!」


 ベポが子供みたいに泣きじゃくると、堰を切ったように船員たち全員が声を上げて泣き始めた。


 シャチが、泣き喚きながら***の頭を撫でている。***が起きる気配はない。


 ローは、ただただ放心した。


 これが現実のこととは思えなくて、


 静かに笑った***のカオだけを、ローはただただ見下ろしていた。


そしてお姫様は、

毒林檎を食べて

んでしまいました。


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