15

「なんでもいいんだ。この街に着いてから……いや。おそらく、着いたあの日。何かあったなら、あの日に違いねェ」


 甲板に集めた船員たちをぐるりと見渡してから、ローはもう一度言った。


「あの日、***に何か変わったことはなかったか?」


 船員たちは各々のカオを見合わせた。彼らの表情からするに、有益な情報を引き出せそうには、到底なかった。


 ローは、ベポを見た。可能性があるとすれば、ベポしかいない。ベポは唯一、あの日***と一緒にいたからだ。


 本人もそれを自覚しているようだった。ベポは一点を見つめたまま、毛に埋もれた眉毛を眉間に寄せている。


「おまえはどうだ? ベポ」


 ある程度の時間が経ってから、ローはそう声を掛けた。ゆっくり思い出させてやりたいが、なんせ時間がない。ローは焦っていた。


 両眉の力をふっと抜くと、ベポはおずおずとローを見た。頼りなさげなその目を見て、ローは肩を落とした。


「ご、ごめんね。キャプテン」

「……いや」

「でも、ほんとに、その……なんにもなくて」


 ぽつりぽつりと、ベポは続けた。


「みんなが街へ行った後、いつもみたいに***と洗濯物干したんだ。その後二人で昼寝して、オヤツ食べて。もらった林檎も食べて、それから一緒に釣りを」

「待て」


 突然、ローが尖った声を出した。


 ベポだけでなく、全員の動きが止まる。


 ローはベポを見て、言った。


「今、なんて言った」

「えっ、えっ? あ、ええっと、だから、洗濯物干して、昼寝して、オヤツ食べて」

「その後」

「えっ、あっ、ああ、一緒に釣りを」

「その前っ」


 ローが苛立ったような声を出したので、ベポはますますオロオロとした。そして、懸命に声を絞り出して、言った。


「り、林檎をもらったんだ。それを***が……」

「……誰に」

「え?」

「誰にもらった」


 耳の奥に、あの不快な、しゃがれ声が響いた。


「あ、ああ……林檎売りのおばあちゃんだよ」

「……」

「今日はちっとも売れないからって、わざわざ船まで持ってきてくれたんだ」

「……」

「おれはオヤツ食べ過ぎて腹いっぱいだったけど、***はせっかくだからって」

「食ったのか」

「え?」

「食ったんだな? それを。***は」


 ローの険しいカオを見返して、ベポは戸惑いながらも「う、うん」と答えた。


 その隣では、ペンギンとシャチがカオを見合わせている。


 ローの脳裏に、ある光景が浮かんだ。


 しわくちゃの手から、血のように赤い果実を受け取る、真っ白な手。


『なんて、おいしそうな林檎』


 そう言って、両手に持った林檎を、そのまま口元へーー。


 絵本の中のオヒメサマのカオが、***とすり替わる。


 林檎を齧る、一歩手前のシーンで、ローは大きく首を振った。


「船長、林檎売りのおばあちゃんって……まさかあのっ」

「***を見ててくれっ」


 シャチの言葉をさえぎって、ローは船内を駆け出した。


 手すりの前で、ペンギンがローの刀を差し出す。それを受け取ると、ひらりと手すりを飛び越えて、ローは白い煙に包まれた街へと急いだ。





 街の様子は、奇妙だった。


 まだ夕暮れ時だというのに、人っ子一人いない。


 街全体に白いもやがかかっていて、ローの進む方向だけが、不自然に晴れていた。


 導かれるように、その方向へ進む。この先に目的の人物がいると、根拠もなく確信していた。


 目の前が拓けて、大きな池が見えてきた。


 その一歩手前に、老婆はいた。


 ローは愛刀を抜くと、その切っ尖を老婆へ向けた。


「***を元に戻せ」


 ローに背を向けている老婆は、それでも振り向かない。ただただ岩のように身を固めて、そこにじいっとしている。


「考えてみりゃあ、おまえに会ってからだ。妙な胸騒ぎがしたのもな」

「……」

「何をしたんだか知らねェが、もはや何でもいい。時間がねェ」

「……」

「もう一度言う」


 刃を、老婆の首へ置いた。


「***を、元に戻せ」


 乾いた、大きな風が吹いて、枯葉が二人の間を舞った。


「守り続けるというのは、とても難しいことだ」


 その声は、以前聞いた時と同様、しゃがれていた。


 だが、どこか力強く、腹に響く声量が、老婆のそれとは思わせないほどだった。


「それが、当たり前に目の前にあれば、尚更」

「……」

「なぜか分かるか?」


 老婆が、ゆっくりと振り向く。


 ローは、幾分か身体を硬直させた。


 目が合った老婆は、以前会った時とは別人のように思えた。眼力も、身のこなしも、纏う空気も。一文の隙もない。


「守れている気になるからだ」

「……」

「それが、過信に繋がる」

「……」

「多少歯車が狂っても、明日何とかしよう。明日がダメなら、明後日。明後日がダメなら……」

「……」

「気付いた時には、後戻りできないほどになっている」


 老婆が、一歩踏み出た。


 ローは刀を構え直した。


「明日が来る保障が、どこにある」

「……」

「刀鍛冶にも、花屋にも、飯屋の主人にも……海賊にも」

「……」

「明日の保障なんて、どこにもないのさ」


 しわくちゃの指が、刀の切っ尖をつまんだ。


 刀を引き戻そうと、ローは腕に力を入れたが、それはびくともしなかった。


「海賊のお兄さん」


 血色の悪い唇が、にたりと笑った。


「何か、大切なものをお忘れでないかえ?」


 突然、風が渦を巻くようにして強く吹いた。


 砂が目に入って、ローは思わず目を瞑る。


 一秒にも満たないその間に、老婆は煙のように姿を消した。


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