ゆらゆら、留まる

 勝手口のすぐ隣にある小窓に、揺らめく人影が見えた。


 木漏れ日はいつのまにか濃いオレンジ色になっていて、太陽は夕陽へと姿を変えている。


 お味噌汁の味見をしようとすぼめた唇が、自ずと小皿から離れる。


 小皿を手近に置いて勝手口へ向かうと、私は戸を開いた。


「おかえりなさい」


 迎えられたナルミくんはというと、彼特有の抑揚の無い音程で「うおっ」と言った。どうやら、戸が突然開いて驚いたらしい。


「獲れたよ。今日は結構」


 言いながら彼は、バケツに被せた布を取り払った。


「わあっ、すごい! 大量ですね!」

「俺、ふたつ食う」

「分かりました。あっ、お味噌汁もう出来ますけど、先に食べますか?」

「うん。腹減った」


 はあい、と返事をしながら、お味噌汁の元へ戻った。中断していた味見をして、一つ頷く。火を止めて、お味噌汁用のお椀を取った。


 後ろの方で、衣擦れの音がする。釣りが終わった後の湿っぽい服が嫌いらしく、ナルミくんは帰ってくるとすぐに着替えをするのだ。


「終わりました?」


 お味噌汁のお椀を持ったまま、私は背後の彼に訊いた。


 どちらかが着替えている時は、どちらかは振り向かない。自然と成り立ったルールに従って、私はそう確認した。


「もうちょっと。……うん、OK」


 OK、を合図に、私は振り向いた。ナルミくんは、着ていた服をタライにほうったところだった。


 まるい、古びた木で出来たテーブルに、彼の分の白米とお味噌汁を置く。彼は定位置に腰かけた。


「……うまそう」

「さつまいもあったので、入れてみました」

「へェ。さつまいもって、味噌汁の具になるんだね」

「甘みの少ないさつまいもなので、そんなに違和感ないと思います」

「ふうん」


 すでに味噌汁に釘付けだった彼は、そう生返事をしながら箸にさつまいもを突き刺した。


 まるく切られたさつまいもを、箸でタテに割って、半月型にする。そしてそのまま、口に入れた。キレイな色のさつまいもだったので、本当に半月を食べているみたいに見えた。


「ど、どうですか?」

「……あ、美味い」

「ほ、ほんとですかっ。よかった……あっ、お魚! すぐ焼きますね」


 半月を咀嚼しながら、彼はこくりと頷いた。子どもみたいだ。かわいい。言ったらむっとするだろうから、言わないけれど。


 台所へ戻って、まな板を取り出す。ナルミくんの持ってきたバケツの中から、三匹の魚を掴むと、小さく手を合わせてから捌いていった。


 捌き終わった魚をそれぞれ串に刺して、囲炉裏に並べる。火の当たり具合を確認してから、石鹸で手を洗って味噌汁をよそった。


「雨降るかもね。明日」


 私がテーブルに着くタイミングで、彼は言った。


「あっ、ほんとですか。じゃあ、明日はお洗濯物、部屋干しですね」

「やだね。部屋干し」

「いやですね。臭くなっちゃう」

「そういや、研ぎ屋のおばちゃん、怪我したらしいよ」

「えっ」

「腕。転んで、折ったんだって」

「それは大変……あっ、じゃあご主人、ご飯どうしてるんでしょう」

「自分でやってるって言ってたけど、どうかな。あそこのおっちゃん、研ぐ以外は手先不器用だから」

「今日のお魚、焼いてお裾分けしましょうか」

「あ、ほんと? 助かる。あとで一緒に行こ」

「はい。……あ、そうだ。お魚お魚」

「食ってていいよ。俺やる」


 彼はすくっと立ち上がった。囲炉裏の前にしゃがみ込むと、魚全体に火が回るよう、くるくると二本指の腹で串を転がした。


 焼け加減を確認してから、三本の串に刺さった魚を片手に持って、大皿と一緒に彼は戻ってきた。


「ありがとうございます」

「いつも美味そうに焼けてる。ありがとう」

「いえいえっ、そんな。いつも獲ってきて頂いてありがとうございます」

「いえいえ、そんな」


 二人で目を見合わせて、笑った。


 ナルミくんと出会って、二週間。私は、穏やかな時間を過ごしていた。





「喜んでたね、おっちゃん」

「そうですね。持って行って良かった」

「おっちゃんの指、見た?」

「絆創膏だらけでしたね」


 その様子を思い出したのか、ナルミくんは、ははっと笑った。笑う時に上がる、眉頭がかわいい。むっとするだろうから、これも言わない。


 二人並んで歩きながら、同時に夜空を見上げた。今晩は、満月だ。


 ふと、満月がゆらっと、上下に揺れて見えた。


 目をこすってから、もう一度見上げる。満月は、そこでじっとしていた。


 めまいでもしたのだろうか。いや、違う。


 そうか。今のは……


「帰らないの?」


 思考が遥か彼方へ旅立っていたので、戻ってくるまで時間がかかった。


 数秒置いてから、私は「え?」と訊き返した。


「アンタさ、帰らなくていいの?」


 いつもの、抑揚のない声で、彼は繰り返し言った。


 私は、小さく息を飲んでから、地面に視線を落とした。出会ってから初めて、ついに、この話題が出た。


 私は黙り込んだが、沈黙に構わず、彼は続けた。


「生きてたんだし、帰ってもいいんじゃないの?」

「……」

「はぐれただけでしょ? 逃げてきたならまだしも」

「……」

「向こうも、探してんじゃないの?」

「……いや、それは」


 どうだろうか。それは、きっとない。


 探しているとしたら、あるはずのない、私の亡骸だろう。


「なんだっけ。なんか、長いよね」

「長い?」


 訊き返した私の目を、ナルミくんは見返した。


 濃い色の瞳が、やっぱりどことなく、あの人に似ていた。


「名前。船長の」

「……」

「なんか、長かったよね。俺、覚えらんなくて」

「……」

「動物の名前、入ってなかった? ト、ト、……トリ? いや」

「トラ」


 彼を遮って、私は言ってみた。


「トラファルガー・ロー」


 別れてから初めて、その名前を口にした。


 不思議な感覚だった。


 もっと、懐かしさがこみ上げて、もしかしたら、泣いてしまうのではないかと、不安だった。


 それが、どうだろう。まるで、生まれて初めて口にしたみたいに。その名前はもう、私の舌に馴染まなかった。


「ああ、そう。それ。トラファルガー・ロー」

「……」

「変な名前」

「ははっ。本人も、ちょっと変ですよ」

「へェ?」

「偏屈だし、こだわり強いし、頑固だし、意地っ張りだし」


 上げたらキリがない。一言では、あの人を語り尽くせない。


 ――でも。


 どうだったかな。本当に、そうだったのかな。本当に、そんな人だったのだろうか。


 分かったような気でいて、分かっていなかったかもしれない。過ごした時間だけ、ただ長くて。


 もっと、心の奥底とかは。過ごした期間とは関係なく、分かる人には分かるのだろう。


 あの人にとって、私は一体、なんだったのだろうか。


「まァ、別に。アンタがいいなら、俺はいいんだけど」

「え?」


 その一言に、私は彼をぱっと見上げた。


「魚の内臓も取れるし、メシも上手いし」

「あ、あの」

「他にもいろいろやってもらって、助かってるし」

「そ、それって、あの」

「何」

「つ、つまり」彼を覗き込むようにして、続けた。「ここでお世話になっていて、いいということですか……?」


 ナルミくんは、しかめっ面で私を見た。


「それ以外、他にどんな意味があんの?」

「ほっ、ほんとですかっ? あっ、あのっ、でもっ」

「しつこいな。はい、もうこの話終わりね」


 面倒そうに言い切って、彼は歩幅を広げた。慌てて、小走りでそのあとを追う。


 細い鉛筆で描いたような、滑らかな線の横顔が、ほんのりピンクに染まっていた。


 この二週間で分かったこと。ナルミくんは、不器用で照れ屋な、優しい人。


「……ありがとう」

「……何が」

「へへっ」

「気味悪い」


 心の底からほっとした。


 出て行かなければと思っていながらも、「これからどうしていいか」なんて。正直なところ、今は考える余裕も気力もなかった。


 再び、空を見上げた。相変わらず、月は微動だにしない。


 さっきのは、きっと「記憶」だ。船にいた時の。


 あの頃、いつも月は揺れていた。波の動きに合わせて、ゆらゆらと。それが当たり前だったから、きっと幻を見たのだ。


 月が揺れて見えることは、もうないかもしれない。


「……アンタさ」


 呼びかけられて、月から目を背けて、彼を見た。


「逃げてきたんだね、きっと」


 あの人に似た、濃い色の目が。見透かしたように、そう言った。


 そうかもしれない。


 ナルミくんに重なって、ネイビーの目が、悲しんでいるように見えた。


ゆらゆら、留(と)まる


ところでナルミくんって、普段何してるの?


俺? 海賊狩り。


……へっ?


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