別れ、のち出会い

 歌が、聞こえる。


 ”ヨーホーヨーホー”


 あれは、怖い歌なんだよ。


 耳元で、誰かが囁いた。あれを聴いたら、悪い人たちに殺されちゃうんだよって。


 その声を置き去りにして、歌のしている方へ歩いた。


 霧が随分と深い。白々とした冷たい空気が、纏わり付くように体を包んでいる。


 このメロディーを聴いていると、胸のすくような、なんだか懐かしい気持ちになる。不気味な歌なのにそう感じないのは、この歌声の調子が、どこか外れているからだろうか。


 足元が軋む。目を落とすと、古びた木の板が視界の中で揺れていた。いや、揺れているのは、自分の方かもしれない。


 ”ヨーホーヨーホー”


 音痴な歌が、船の中を漂う。


 船……? ここは、船の上なのか。


 鼻から息を大きく吸うと、脳に回る潮の香り。歌声に連れられて、わずかに波の音もした。


 ヨーホー、ヨーホー。ザブン、ザブン。ヨーホー、ヨーホー……


 突然、風が強く吹いた。霧がどけて、潮の匂いが強くなる。歌声が、クリアになる。


 上を見上げた。歌声に誘われるように。白くて大きな物体が、楽しげに横に揺れながらリズムを刻んでいた。


 ふと、笑い声が聞こえてきて、今度はそちらへ目が向く。


 顔はよく見えない。丸みを帯びたキャスケット帽が、笑い声に合わせて小刻みに揺れていた。


 すると今度は、目の前が真っ白になる。何事かと思えば、真っ白なシーツが潮風にはためいていた。鼻腔の奥を、柔軟剤の香りが支配した。


 ”こんな天気じゃあ、乾かないだろうなァ。早く晴れるといいな。……な、そう思うだろう?”


 男の人の声だった。優しい、声だった。


 問われたので、私は小さく頷いた。頷いた弾みで、何かが目からこぼれ落ちた。


 私は、泣いていた。


 シーツの向こう側で、帽子に描かれたアルファベットが滲んで見えた。


 よくよく耳を澄ませると、たくさんの声がしている。


 どれもこれも楽しそうで、どこか懐かしい。


 一緒に笑い合いたいのに、なぜかできない。


 涙だけが、ただただこぼれ落ちる。


 突然、息が苦しくなった。吸っても吸っても、呼吸ができない。


 怖くなって、よろめきながら無我夢中で何かに掴まった。縋ったのはドアノブのようで、寄りかかった拍子に扉が開いた。


 浅い呼吸を繰り返しながら、扉の奥を見た。暗く長い廊下の向こうから、泣き声がする。


 目を凝らして、声のする方へ進む。奥へ、奥へ……


 すると、廊下の奥に、黒い物体が見えた。しゃくり聲に合わせて、細い肩が揺れている。


 泣き声の主は、小さな男の子だった。


 ”どうしたの? どうして泣いてるの?”


 震える手を差し伸べると、男の子はゆっくりと顔を上げた。


 深い、海の底みたいな目が、責めるように私を睨んだ。


”ずっと一緒にいるって約束したくせに……! 嘘つき……!”


 噛みつくような糾弾に、思わず手を引っ込める。


 私は、この子を知っている。


 待って。待って、今、思い出すから。


 小さな体を、突然の荒波がさらっていった。男の子は、苦しそうに私に向かって手を伸ばした。


 手を目一杯伸ばすのに、ちっとも届かない。すぐそこにいるようで、途方もなく遠い。そんな、絶望的な不安に襲われた。


 男の子が、もがきながら沈んでいく。


 待って、待って。


 私、あなたを助けたい。


 私、あなたを知ってるの。


 ごめんなさい、ごめんなさい。


 私の目から涙が溢れるほどに、波が荒くなる。だけど、この涙をどうしても止めることができない。


 小さな体はとっぷりと浸かって、紅葉のような手だけが、波の上から私に助けを乞う。


 近付こうとすればするほど、涙が溢れて波が荒れる。私のせいだ、私の……


 ついに男の子は、波に飲まれて見えなくなった。


 いつの間にか、船もない。周りを見渡せば、真っ暗な海だけが私の視界を埋め尽くしていた。


 待って、待って。


 一人にしないで。


 置いて行かないで。


 私を置いて、行かないで。


 ”俺たちを置いて行ったのは、お前だろう。……***”


 耳元で聞き慣れた声がして、体がそのまま海の底へ引きずられた。










「ロー……!」


 自分の叫び声で目が覚めた。次に聞こえてきたのは、獣のような荒い呼吸音。それが自分のものだと気付くのに、数秒かかった。


 口で短く息をしながら、眼球だけを上下左右に動かす。正確には、体全体がひどく重ったるくて、眼球だけしか動かせなかった。


 目をどんなに彷徨わせても、見えるのは薄汚れた茶色の天井だけ。首を少し横へ捻ると、見慣れたツナギがハンガーに吊るされていた。


「あ、生き返った」

「……!」


 突然現れた黒い物体に、驚きすぎて声も出ない。目を凝らすと、それは人間だった。長い睫毛の奥にある黒い目が、私を見下ろしていた。


「すごい生命力だね。絶対死ぬと思ったけど、生きたね。……ねェ、聞いてる? あ、耳は死んだ? もしかして」

「……いえ。き、聞こえて、ます」


 声を出してみたら、声が出た。少ししゃがれていたが、ちゃんと出た。


「あ、そう」


 冷えた声でそう言うと、その人は視界から消えた。心臓が、思い出したように早鐘を打ち始める。び、びっくりした。


 改めて周囲を見渡す。簡素なキッチン。小さめの囲炉裏。丸いテーブル。そして、知らない男性。


 新たな情報として、とりあえずそれだけを目がキャッチした。


「あ……あの」


 恐る恐る声を掛けると、男性は囲炉裏に火を入れながら、黒目だけをこちらへ向けた。


「私……本当に生きてるんでしょうか……?」


 男性は目を丸くした。自分でも何を言っているんだと思うが、率直な疑問なのだから仕方がない。


 どうして生きられているんだろう、私は。


 すると彼は、ぐるりと室内を見回した。そして、一言。


「アンタ、ここが天国にでも見えるの?」


 私も同じようにして、見回した。


「……見えません」

「だろうね」


 男性は再び、囲炉裏に向かい始めた。私は再び、天井を見上げた。


「……信じられません」

「何が?」

「生きているのが、です」

「あ、そう」

「あの」

「何」

「あなたが、助けて下さったんですか?」


 訊ねながら、男性の方へ顔を向けた。彼は私を見ることなく、囲炉裏の中にある炭を熱心に覗いていた。


「うん。まァ、そうなるね」

「あの……ありがとう、ございます」

「別に。あのまま放っておくのも、こっちも気持ち悪いから」

「な、なるほど……でも、ありがとうございます」

「はぐれたの?」

「え?」


 丸くした目を彼へ向ければ、彼はようやく炭から目を離して、壁にかけてあるツナギへ目配せした。


「ジョリーロジャー。海賊でしょ? アンタ」

「あ……」

「別に驚きゃしないよ、この時代」

「そ、そうですか……」

「見覚えある」

「え?」

「そのジョリーロジャー。確か……”ハートの海賊団”」


 その名を聞いて、みんなの顔が一瞬で脳裏に浮かんだ。


 囲炉裏の中で、炭が大きく弾けた。


「あれ? 違った?」

「……いえ。合って、ます」

「で?」

「はい?」

「はぐれたの? 逃げて来たの?」

「あ、ああ……ええっと、どちらかというと、はぐれた、ですかね」

「ふうん。あ、そう」


 訊いてきた割には、男性はさほど興味もなさそうで、再び囲炉裏に向き直った。


「あ、あの、つかぬ事をお訊きしますが」

「何」

「ここは一体、どこなんでしょうか……?」


 そう訊ねると、男性は体を捻って後方へ手を伸ばした。皺くちゃになった紙のような物を手にすると、私の寝ている布団の方へ放った。


「赤い丸、ついてるでしょ」


 彼がそれ以上は言わなかったので、私は布団の中から手を出して紙を掴んだ。広げてみるとそれは、海図だった。


 彼の言った通り、右下の方に赤い丸が大きくついている。それを見て、私は愕然とした。


「こんなところまで流されたの……?」

「正確には、もっと海の真ん中寄りね。アンタ、漂ってたから」

「漂ってた?」

「海に。木の切れっぱしにしがみついてね。最初死体かと思った。顔蒼いし」


 どうやら察するに、死体のように海の真ん中で漂っていたところを、この男性は引き上げて助けてくれたのだろう。船に乗って、魚釣りでもしていたのかもしれない。


 木になんて、しがみついた記憶もなければ、意識があった記憶もない。


 人間の生命力はやっぱり凄いなと、どこか他人事のように感心した。


「あの……本当に、ありがとうございます」

「何回言うの。しつこいな。もういいよ」

「あ、す、すみません」

「意識戻ったなら、出てってよね。居座るとかやめて。迷惑」

「あ……は、はい」


 それっきり彼は何も言うこともなく、私の存在を無視するかのように、頑なに火だけを見つめていた。


 つ、冷たい。でも、助けてくれたしな。布団にまで寝かせてくれて。ツナギもハンガーに掛けてくれて。きっと、根は優しい人なんだろうな。うん。


 そんなことを考えながら、私は体をゆっくりと起こした。その拍子に、頭が少し、くらっとする。骨からは、まるで機械が軋むような音がした。


 足や手を、伸ばしたり曲げたりしてみた。信じられない。動く。ちゃんと動く。骨折もしなかったのか。どうなってるんだ、私の体。


 とりあえず大きな怪我がないことに、心から安堵した。生き延びるなんて考えもしていなかったので、当然お金も持っていない。お医者さんにかかることもできないのだ。


 視界の端で、男性が何やらもぞもぞと動いた。カゴの中から、何かを取り出そうとしている。何の気なしに見ていると、手にしたのは釣ってきたばかりであろう魚だった。


 それを見ながら、呆然とする。


 そうか。お医者さんどころか、ご飯も食べられないかもしれない。私。


 釣りだって狩りだって、したことがないわけではないけれど、それだって必ず誰かと一緒だった。


 釣りはベポ。狩りは、大体シャチくん。たまにペンギンさんと一緒に行くこともあった。


 怪我をすれば、ローが診てくれた。多少のかすり傷でも、大げさなくらい心配して……


 ほんの数日前までは当たり前のことだったのに、今では夢のような時間にも思ってしまう。


 ……生き延びてしまったんだ、私。


 みんなの……ローのいない世界に。……一人で。


 途方に暮れかけて、やめる。そんなことをしている場合ではない。とにかく今は、ここを出なくては。助けてもらった上に、迷惑はかけられない。


 重たい頭を軽く振って、布団から出ようとした。掛け布団を捲りかけて、手が止まった。布団の中で、自分の露わになったお腹と、下着が見えた。


 勢いよく掛け布団を元に戻して、思わず男性の方を見る。幸い彼は、未だに魚と囲炉裏ばかりに意識を向けていた。


 そうか。そうだ。そりゃあ、そうだ。着ていたツナギがあそこに掛かっているということは、そういうことになる。


 私の体は海に漂っていたと、彼は言っていた。ましてや、あのサイクロンと荒波に揉まれていたのだから、頭のてっぺんから爪の先までびしょ濡れだっただろう。着ていた服は脱がせるのが賢明だ。


 頭の中の整理が終わると、私は壁に掛けてあるツナギを見た。届かない。どう目測しても、布団から出ずにツナギには辿り着けない。かと言って、下着姿のまま布団を出るわけにもいかない。いや、イケるか? 彼は囲炉裏と魚に夢中だし。いや、やっぱり無理だ。振り向かれたら終わる。


「あっ、あのう……」


 私は彼に声を掛けた。彼にツナギを取って頂くより他ない。また迷惑そうにされるだろうが、仕方がない。


 思った通り、彼はしかめっ面で私を見た。けれども私は、その表情よりも、ふと目を向けた彼の手元が気になった。


「ちょっと。何」

「あ、あの……お魚、そのまま焼くんですか?」


 私にそう訊かれて、彼はしかめっ面のまま、棒を刺そうとしている手元の魚に目を落とした。


「……そうだけど」

「し、下ごしらえ、しないんですか?」

「下ごしらえ? 塩なら振ったよ」

「あ、い、いえ。そうじゃなくて……ワタは取らないんですか?」

「ワタ?」

「あ、な、内臓です。お魚の」

「……」


 彼はもう一度、魚と棒を交互に見た。表情は訝しげだ。どうやら、私の言っていることが理解できていないようだった。


「さ、魚を焼く時は、始めにワタを取ってからの方が、美味しく食べられるんです。ほら、ワタって苦いから」

「……いっつも、食べながら取ってたんだけど」

「あ、ああ。なるほど」

「……」

「あ、あの、そ、それならいいんです。すみません。口出しして」

「取れるの?」

「はい?」

「内臓。アンタ、この魚捌ける?」

「へ、あ、ああ、まァ。船でもやってたんで……」

「……」


 彼は、魚と見つめ合ったまま、思案顔になった。そして、しばらくすると、その顔を私へ向けた。


「やってくんない? そしたらこれ、アンタに一つあげる」

「……へ?」

「……」

「あ、ありがとうございます。じゃあ……」


 始めからやってあげようかと思っていたので、その申し出には素直に応じた。現金なもので、少し空腹も感じている。


 た、助かった。とりあえずまた、命を繋いでもらえそうだ。


 安堵の息を漏らして、勢いよく布団を剥いだ。


 すると彼は、「あ」と抑揚のない声を上げた。


「とりあえず、服着てくんない?」

「はい? ……!」


 変質者のように自ら下着姿を晒してしまって、思わず私は悲鳴を上げた。


別れ、のち出会い


うるさいなっ!

すっ、すみません……!


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