どうして

 周囲に気を配りながら、私はそのドアをノックした。


 もし今の姿を誰かに見られたら、きっと泥棒か何かと勘違いされるに違いない。それくらいの不審さだった。


 中から、「はい」と応答する声が聞こえた。


 小さなノックだったから聞こえていないかもしれない。そう不安に思ったところだったので、私は内心ほっと息をついた。


「私です。***です。……今大丈夫ですか?」


 潜めた声で言えば、「入っていいぞ」と中から促された。


 失礼します、と小さく身を縮めてドアを開ける。わずかな隙間からするっと体を滑らせれば、ペンギンさんはそんな私を見て可笑しそうに笑った。


「まるで密偵だな」

「……なんだか泥棒みたいだなって、さっき自分でも思いました」


 全身に入っていた力をふうっと抜くと、ようやく私は声のトーンを通常に戻した。


「それで、あの……頼んだもの、ありました?」


 手を揉みながらペンギンさんにそう訊ねると、ペンギンさんは小さく笑ってからテーブルの上に置いた数冊の本を持ち上げた。


「ほら、とりあえずこれでいいか?」

「わあっ、ありがとうございます!」

「まだまだあるが、そんなにすぐには読めないだろうしな。これは比較的解り易い文献になってる。初心者向けだろう」


 一番上の本を手に取って、ペンギンさんはページを捲っていった。少し身を乗り出して、その手元を覗く。


 初心者向け、とは言っても、やはり医学書。並んだ単語がチンプンカンプンで、早くも私は眩暈を憶えた。


「……どうして言わないんだ?」


 一人で目を回していたら、ペンギンさんがそう訊ねてきた。


 何のことかは、もちろん十分に分かっている。少し罰が悪くなって、私は俯きながら答えた。


「た、多分……ローに言っても、反対されるだけですし」

「……」

「”俺がいるのに、どうしてお前が医学を学ぶ必要がある”とか、言われちゃいそうじゃないですか」

「……」

「そんなこと言われたら否定出来ないし、だから、その……独学でって思って」

「……わかったよ」


 黙って話を聴いていたペンギンさんは、少し困り顔で笑って言った。


「何か分からないことがあったら訊くといい。もちろん船長ほどではないが、俺も医学には多少詳しい。少なくともシャチよりはな」


 言いながら、ペンギンさんは私の頭を撫でた。


 私は「ありがとうございます」と伝えた。


 分厚い医学書を数冊携えて、私は再びこそこそとしながら自室へ戻っていった。





「くあっ……」


 思わず大きな欠伸が出て、慌てて口元を押さえた。見られていやしないかと辺りを見回せば、皆はそれぞれの会話や仕事に夢中で、誰もこちらを見てはいない。


 私は小さく息をついた。欠伸なんてしているのを見られたら、十分に眠っていないことがバレるんじゃないか。そんなことを考えて、内心焦ってしまった。


 医学と航海術の勉強を始めた。


 医学に関することはペンギンさん。航海術に関してはもちろんベポ。二人にはそれぞれ本を借りたりして、解らないことがあれば訊ねに行ったりもした。


 ローには相談しなかった。むしろ、隠している。


 ローに言えば、カオを顰めるに決まっている。「何のために」とか「お前はそんなことする必要ない」とか、そんなことを言われてしまうだろう。


 ローの言うことが間違っていたことはない。今までの私ならきっと、「ローがそう言うなら」と無理矢理にでも納得していたに違いない。


 だけど、ここ最近の私は、それに素直に頷くことができなかった。もちろん、ローを信じていないわけでは決してない。


 この船にいるためには、今の自分のままではいけない。ひしひしとそう感じるようになっていた。


 敵船と遭遇する頻度は日に日に多くなっている。敵対する海賊団の強さも、昔のそれとは比べ物にならないくらいケタ違いのレベルだ。あのローですら、苦戦することが少なくなくなってきた。


 私は、怖かった。


 ローも、皆も、どんどん強くなって。成長して。それを形に表すように、懸賞金も上がってきているのに。私だけが、海賊を始めた頃と何も変わっていない。


 もちろん、皆に置いていかれていくことも怖かった。だけど、それ以上に……


いつか私が、この海賊団の足手纏いになって、船を沈めたりしてしまうんではないか。


大切な仲間の命を、他ならぬ私が脅かしてしまうのではないか。


そう考えるようになってきて、その不安は日に日に膨らんで。


とうとう、抱えきれなくなってしまった。


ローはこのままで良いと言うけれど、私にはどうしてもそうは思えなくなっていた。


 勉強は朝早く起きてすることにした。もともと朝方の人間なので、早起きは苦にはならない。それでも、まだ外が暗いうちに起きるのは結構キツかった。


 それに、これはペンギンさんとベポにも内緒だが、護身術も独学で学ぶことにした。


以前訪れた島で小型のナイフを購入して、夜な夜な振り回してみている。


本当は持ち歩きたいところだが、いつかローに確実にバレる。そう考えて、普段は部屋の引き出しにしまっていた。


「ナイフ使ってるなんてバレたら、ペンギンさんもベポもさすがに怒るだろうな……」


 快く協力してくれている二人を欺いていることに胸が痛むが、私が自分の身を自分で守れるようになれば、きっと喜んでくれるはずだ。


 早く。早く追いつかなければ。悠長にはしていられない。


「あと三十分くらい早く起きた方がいいかな……」


 そんなことを呟きながら、揺れる船内をよたよたと歩いた。





 ローが甲板に船員を集めた。どうやらもうじき、町に上陸するらしい。


だけど、皆の前に立ったローや傍らに立ったペンギンさんの表情は険しかった。


「町に降りるが、かなり治安が悪い。海軍もウロついてる」


 切り出したローの声は重々しかった。自ずと船全体の空気も重くなる。


「とりあえず、着いたら必要なモンを手分けして買い揃えてくれ。それからは全員船内でログが溜まるのを待つ。いいな」


 ローの指示に、全員が大きく返事をすると、三々五々になって上陸の準備を開始した。


 私も上陸の準備をしようと歩き出したところで、「***」とローに呼び止められた。


「はい」

「お前は船に残れ」

「え? あ、でも……急いで買い物するなら、人手が足らないんじゃ」

「治安が悪いって言ってるだろ。いいから残れ」

「で、でも、ちょっと降りるだけだし」

「急いでるのに、お前の面倒まで見きれねェんだよ。こんな時にわがまま言うな」


 苛立ったようなローの声色に、船内が静まり返る。


 私は何も反論できずに、深く俯いた。


 勢いで言ってしまったのだろう。ローは息を飲み込むと、気まずそうに首の後ろを乱暴に掻いた。


「……必要な物があるなら、ルピにでも言っておけ」


 言い去ろうとしたローの腕を、私は掴んだ。


「私も行く」

「……お前な、いい加減に」

「だって、ルピだって行くのに」


 そこまで言って、私は口を噤んだ。


これじゃあ、ただの嫉妬だ。


 ローの真後ろにいるルピの視線が痛い。皆の視線も。


でも、私を見下ろすローの視線が、一番痛かった。


「……お前とルピは違う。分かるだろ」

「分かるけど……でも」

「昨日今日医学や航海術を勉強し始めたお前に、何ができる」


 私はローを見上げた。ローからしたら、今の私は鳩が豆鉄砲をくらったようなカオをしているだろう。


 ペンギンさんとベポを見た。ペンギンさんは横を向いて、ベポは深く俯いて私から目を背けた。


 申し訳なさそうな二人を見て、ようやく私は事態を理解した。


羞恥心から、体中が燃えるように熱くなった。


「……船長に報告もなしに勝手なことをするヤツに、何ができる」

「キャ、キャプテン。でも、***は***なりに」

「お前は黙ってろ、ベポ。いいか、***。お前の一人よがりで、ペンギンやベポを振り回すな。あいつらには特に、重要な役割を与えている。お前のことで煩わせるわけにはいかねェんだよ」


 ローの腕から、手が滑り落ちた。その拳を、私は固く握った。


 「ごめんなさい」とだけ言って、私は駆け足で船内へ戻った。


 「あっ、***待ってっ」と、ベポの声だけが背中を追ってきた。





「船長もさァ、ピリピリしてるんだよ」

「……」

「お前は知らなかったろうけど、ここまで来るのも結構至難の技だったっていうか……あっ、今のは何も知らなかったお前を責めてるわけじゃねェからなっ?」


 キッチンのカウンター越しに、シャチくんは慌てて両手を大きく振った。


 私は小さく笑った。


「そんなこと、思ってないから大丈夫だよ。シャチくん」

「そっ、そうか……」


 ほっと息をついたシャチくんの前に、作っていた夜食を置いた。


「おおっ、うまそう! やっぱり***のおにぎりは最高だな!」


 そう言ってから、シャチくんはむしゃむしゃとおにぎりを頬張った。


「ごめんね、シャチくん。シャチくんまでお留守番組になっちゃって」


 私が船に残る時、一人になったことは今まで一度もない。ローが必ず、お守りをつけるからだ。


こんな人手不足の時であっても、そのスタンスは変わらなかった。


もちろん、私一人では何かあった時に船を守りきれないという理由もある。


「んあ? 別にそんなこと気にすんなよ! 最近夜更かしし過ぎてよ、ちょうど疲れきってたところだったんだ。休めてラッキーって感じ!」


 ほっぺたに米粒をつけて、シャチくんは笑った。


 いつもお調子者の彼にまで気を遣わせていることに、ひどく胸が痛む。


だけど、私が暗いカオをしていたらシャチくんにもっと気を遣わせる。


私は無理矢理に笑顔を作った。


「ダメだよ、夜更かしは。ちゃんと休まないと」

「だよな! 今日は早く休むよ。治安が悪いっていっても、ここは陸から遠いし大丈夫だろ!」

「そうだね」


 キッチンを軽く片付けてから、おにぎりを食べているシャチくんに声をかけた。


「悪いんだけど、私はもう休むね」

「あ、ああ……」

「シャチくんも早く休んでね。じゃあ、おやす」

「あのさァ、***」


 がたっと席を立って、シャチくんは私を呼び止めた。


「ん? なに?」

「あ、いや、その……ペンギンとベポのことだけどさ」

「? う、うん……」


 もごもごと口を動かしてから、シャチくんはぱっとカオを上げて言った。


「船長にチクったとか、そういうことじゃねェと思うんだ!」

「……え?」

「むしろ、お前のこと心配してたんだと思う! ほらっ、お前ってなんでも一人で抱え込むだろっ?」

「……」

「最初はペンギンもベポも黙ってたみたいなんだけどよ! 思いつめたお前見てたら、なんだか不安になってきたって言ってて……」

「……」

「だから、チクったとかそういうんじゃないんだ。どうしても、船長に相談したくて、きっと」

「分かってるよ、シャチくん」


 シャチくんの言葉を遮って、私は言った。


「私、二人を責めるつもりなんて全然ない。むしろ、申し訳ないことしちゃったなって、恥ずかしくなっちゃった。二人が優しいの知ってて、無理言っちゃって……」

「***……」

「私、ほんと、自分のことしか考えてなくて……」


 ペンギンさんとベポに甘えていた。一人前になりたいって思ってるのに、やってることはそれと裏腹で。


それが、とても情けなかった。


「お前の気持ち、みんな分かってるよ」

「……」

「だから、二人も協力したんだろ」

「……」

「だから船長も……今日まで何も言わなかったんだろ」

「……」

「何を焦ってんのか知らねェけどさ」


 シャチくんは、にかっと笑った。


「みんな、お前のことが好きなんだ。そのままの***が」

「シャチくん……」

「***って、そこにいるだけで日だまりみたいにあったかくなるからさ」


 言ってから照れたのか、シャチくんは残ったおにぎりを口に詰め込むと「ああっ、もう眠ィ! おやすみ!」と叫んで、逃げるようにキッチンを出ていった。


 一人きりになった食堂で、私は溢れてくる涙が止められなかった。しばらくその場に立ち尽くして、声を押し殺して泣いた。





 目を覚ますと、窓から白んだ光が漏れていた。


 久しぶりにぐっすりと眠れた気がする。泣いたまま寝たから瞼は重いが、頭と体はすっきりと軽かった。


 時計を見ると、午前四時。シャチくんはきっと、まだ眠っているだろう。上陸組は恐らく、あと数時間もすれば戻る。


 外の様子を少し確認してから、簡単な朝食を用意しておこう。


 そう考えて、私は一旦甲板へと向かった。


 長い廊下を抜けて、甲板へ続くドアを開けようとドアノブを回して押した。


 すると、ぐっと何かがつっかえて、ドアが開かない。


 首を傾げながらも、もっと強い力でドアを押した。


 少し開いたドアの隙間から、人の足が見えた。


靴に見覚えがある。シャチくんだ。


「シャチくん? ちょっとどいて? おおい」


 しかし、いくら呼びかけてもシャチくんはぴくりとも動かない。


こんなところで寝て、風邪でも引いたら大変だ。


 私は全身の力を使ってドアを開けた。ようやく人一人が通れる隙間が空いて、私はするりと体を滑らせて外へ出た。


「シャチくん? こんなところで寝たら、風邪引」


 言葉はそこで止まった。息も止まった。


 シャチくんの足の次に見えてきたのは、血にまみれた甲板の床だった。


 思考は止まったまま、足だけが動く。


 甲板に出た私の目の前に現れたのは、頭から血を流して倒れ込んでいたシャチくんの姿だった。


「シャチくん……? シャチくん……!」


 私は彼に駆け寄った。体を揺すってみても反応がない。手には、べっとりと彼の血がついた。


 ロー……


 ロー……!


 見張り台へ走った。


 いつもはおっかなびっくり上がる梯子を、必死に駆けてよじ登る。


 見張り台に着くと、私は思い切り鐘を鳴らした。





「ペンギン!! すぐに手術室の用意をしろっ!!」

「はい!!」

「ベポ!! シャチを担いで運べ!! 頭を殴られてるから、絶対に揺らすな!!」

「アイアイ!! キャプテン!!」

「シャチと同じ血液型のヤツは全員付いて来い!!」

「はいっ!!」

「ロー船長……!! オペを手伝うわ!! 安心して、やったことがあるの!!」


 目の前の風景が、目まぐるしく変わる。


 声がいろんなところから飛び交って、ステレオみたいだった。


 ”***って、そこにいるだけで日だまりみたいにあったかくなるからさ”


 そう言ってくれた時、私は「それはシャチくんの方だよ」って、心の中で思った。


 いつだってシャチくんは、私を励まして、笑ってくれる。


 シャチくんがいたから頑張れたこと、たくさんあった。


 シャチくんは、船内へ続くドアを塞ぐようにして倒れていた。


 彼は、船内にいる私を守ったのだ。


 涙が、ただただ流れて落ちた。


 なんだか現実のこととは思えなくて、私はいつまでもその場にしゃがみ込んでいた。


どうして


どうして私、ここにいるの。


[ 16/68 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -