存在意義
「***、悪いがそこの大根を取ってくれないか?」
「あ、はい。わかりました。」
近くにあった大根をペンギンさんに差し出した。包丁を右手に持ちながら、ペンギンさんは「ありがとう」と言った。
「今日は少し寒いな。」
「そうですね。冬島が近いのかな?」
キッチンの小窓を見上げれば、空一面がグレーに彩られていた。ただ天気が悪いだけかもしれないなとも思ったが、それは口に出さなかった。
「水仕事大丈夫か?代わるぞ?」
「あ、いえ。大丈夫ですよ。」
「そうか?早朝の水はさらに冷たいからな。無理はするな。」
「はい、ありがとうございます。」
フッと目を細めて笑うと、ペンギンさんはまな板の上の大根にカオの向きを戻した。ううん、朝っぱらからカッコイイ。
「くあっ、おはよォ。」
おへそをペロッと出して伸びをしながら、ルピがキッチンに現れた。あくびのあとに目をしばたかせてから、ルピは私とペンギンさんを交互に見て言った。
「あら、二人だけ?」
「今何時だと思ってる。まだコックが起きてくる時間じゃないぞ。」
「二人だって起きてるじゃない。」
「おれと***は比較的いつも早起きなんだ。…なァ?***。」
ペンギンさんに会話を振られて、私は曖昧に笑って「そうですね」と言った。ルピの方は見なかった。
「…ねェ、ペンギン。あのスムージー作ってよ。」
「はァ?今か?」
「今。」
「まだ朝飯には早いだろう。」
「…」
「はァ。分かった。」
やれやれと言いながら、ペンギンさんは奥の厨房へと消えた。ペンギンさんほどの理性的な人でも、ルピの上目遣いには弱いらしい。
私は、野菜を洗っている手元からカオをそらさなかった。そらせなかった。
ルピの方から、まっすぐな眼差しを感じる。それが、なんとなく怖かった。
あの光景を見て以来、ルピとは話をしていない。ルピが、ローと一緒にいるようになったからだ。会話は、生理痛の話題が最後だった。
「ねェ、怒ってる?」
カウンターに肘をついて、ついにルピが話しかけてきた。なんのことを言っているのか。それはなんとなく分かっていたが、私の口からは「何が?」という声が出た。
「私、ロー船長と寝たわ。」
鈍器で頭を叩かれたような感覚になる。思わず、言葉に詰まってしまった。どうしてだろう。こんなこと、初めてではないのに。
相手が、この子だからかもしれない。
「それを怒っているか。聞いているの。」
「…ははっ、どうして私が怒るの?」
「…」
「ローはべつに、私のモノじゃないし。」
「…」
「ローがどこでだれと何をしようと。私には咎める権利も理由もないよ。」
「…」
「初めてでもないしね。」
「…」
初めてでもない、なんて。今のはルピに対するただのイヤミだ。
”ローの初めての女性でもあるまいし””自分が特別なんて思わないで”
そんな、ちっぽけな負け惜しみだった。私はいつから、こんなに醜くなったんだろう。急に恥ずかしくなって、私はカオを隠すように俯かせた。
「そう?なら良かったわ。」
ルピは、そんな私の葛藤を意にも介さず軽い口調で言った。少し腹が立ったけれど、私はそれ以上何も言えなかった。
「応援していたのに。***が何もしないから。」
「え?」
「言ったでしょう?フラれたばかりの彼に付け込めって。」
「…」
「なのにあなたったら、何もしないんだもの。」
「…」
「おかげで、待ちくたびれちゃった。」
「応援、なんて、」
「…」
「応援なんて、最初から本当にしてたの?」
ルピは頬杖からカオを少し浮かせて、目を見開いた。しまった。今のは、さすがに。
「あ、いやっ、べ、べつに、ルピの言ってることを信じてなかったわけじゃっ、」
「してたわ。もちろん、あなたがフラれるって分かっててね。」
今度は、私が目を見開く番だった。ルピは愉快げに笑った。
「フラれてくれたら、あなた。船を出て行くと思ったから。」
「…なんで、」
「なんでって?どうしてフラれるって分かるかって?それとも船を出るって話?」
そのどちらでもなかったが、責め立てるように矢継ぎ早に話すルピに、私は頭の整理ができないでいた。
「どちらも同じ理由よ。***、」
右手にキレイに尖った顎を乗せたまま、私を指差してルピは言った。
「あなたは、じきに気付くわ。その理由がなんなのか。」
ルピの言わんとしていることが、何一つ分からなかった。口を開こうとしたところで厨房の方から足音がしたので、私はそのままそれを飲み込んだ。
「ほら、できたぞ。」
「ありがとう。…あ、ペンギン。またほうれん草入れたでしょう?ほうれん草は入れないでってあれほど言ったのに。」
「ワガママ言うな。好き嫌いは身体に良くな、…***?」
会話の途中で、ペンギンさんは私に目をくれたようだ。俯き加減だったカオを、私は慌てて上げた。
「はっ、はいっ?」
「どうした?顔色が良くないぞ。気分でも悪いのか?」
「あ、いえ、ええっと、」
口ごもりながら、ルピを見た。ルピは、笑っていた。
「…ちょっと、眠いかもしれません。」
「そうなのか?珍しいな。夜更かしか?」
「あははっ、まァ、そんなところです。」
「しばらく眠ってくるといい。あとはおれがやっておくから。」
「あ、いえっ、大丈夫で、」
「過保護ねェ。お姫様みたい。」
そっぽを向いて、ルピがあきれたように言った。カアッと、羞恥心で身体中が熱くなった。
「うるさい。余計なことを言うな。」
「あら、怖い。じゃあ、またあとでね。ペンギン。」
ペンギンさん特製のスムージーをフリフリと振りながら、ルピはキッチンをあとにした。
「…ったく。***、気にするなよ。悪気はないんだ。」
ペンギンさんは、困ったように笑って言った。その笑顔も、なんだか今は胸に痛かった。
「はい、分かってます。ありがとうございます。」
「さ、おまえは少し休んでこい。船長には、おれから伝えておく。」
「あ、で、でも、ほんとに、」
「いいから。な?いい子だから。」
頭をひと撫でされて、私はなんだか何も言えなくなった。優しさが沁みて泣きそうだ。お言葉に甘えて、私は部屋へ戻った。
ー…‥
数時間経ってからキッチンへ戻ると、中にはペンギンさんとベポ、ルピ、それから、ローがいた。
4人のカオは真剣で、テーブルの上には朝食の残りとコーヒーカップ、海図が広げられている。
話に夢中だ。おそらく、あのコーヒーカップの中身は空だろう。そう思って、私は気付かれないように忍び足で厨房へ入った。
まだ中で片付けをしているクルーたちに朝の挨拶をして、差し出されたパンを食べながらコーヒーを3杯とオレンジジュースを注いだ。
お盆に乗せてそれを持っていくと、4人はやはり予想どおり、これからの航海について話し合いをしていた。
「そっちがダメなら、ここの航路を行くのはどうだ?」
「おれもそう思ったんだけどね、ペンギン。そっちだとサイクロンの発生率がグンと高くなるんだ。」
「ねェ、ロー船長。多少回り道になっても、この辺りのサイクロンは避けるべきだわ。」
「なぜだ。」
「前にいた船で聞いたことがあるの。この辺りで起こるサイクロンはケタ違いだって。」
「…」
「船が破損でもしたら、それこそタイムロスになりかねないし。」
「ルピの意見も一理あるな。どうです?船長。」
ローはしばらく思い悩んだあと、「そうだな」と言った。ルピは、少しうれしそうに口元をほころばせた。
そのやり取りを見て、私は「すごいな」と心底感心した。
海賊をやってから今まで、私はこういう話し合いには参加したことがない。いや、正しくは一度だけあった。だけど私は、なんの意見もすることはなく、ローから呼びつけられたのもそれっきりだった。
ルピは、知識が豊富だ。女一人で海を渡ってきた実績と、元々備わった好奇心がそれを形成している。
乗船から、わずか数ヶ月。それなのにこの存在感。ローが気に入るはずだ。
私は、そっとテーブルに近付いて行った。話し合いが途切れることはない。他人事のように耳を傾けながら、コーヒーを置いていった。
ベポの傍らにオレンジジュースを置いたところで、クルリと身を翻した。なんだか、早くそこを立ち去りたかった。
だけど、それは叶わなかった。突然、ガシッと手首を掴まれて、グンッと身体がつんのめった。
こんな乱暴な引き止め方をする人は一人しかいない。振り向けば、それはやはりローだった。
「なっ、なにっ?」
「具合悪いのか。」
「え?」
「ペンギンに聞いた。休んでたんだろ。」
「あ、いや、あれはべつにそういうんじゃ、」
ローの肩越しに、ルピを見てしまった。ルピは、あのアーモンド型の目をキリッと尖らせて私を見ていた。
反射的に、手首を振り払った。ローが、目をまるくして眉をしかめた。
「…あ?」
「ごっ、ごめん。あのっ、とっ、とにかく大丈夫!なんでもないから!」
「…!おい、」
ローの言葉を待たずに、私はあの目から逃げるようにしてキッチンを飛び出した。
ー…‥
その日の夜。見張り番であるベポの元へ向かおうと、ホットミルクを片手に見張り台を訪れた。
真っ黒な空の方から、かわいい鼻唄が流れてくる。思わず笑ってしまいながら、梯子を登った。
「ベポー。来たよー。」
「あっ、***。早かったね。」
「うん。なんだか海見たくって。あ、ホットミルクで良かった?」
「わーい!ありがとう!」
マグカップを差し出せば、手の甲がモフッとあたたかくなる。ベポは手が大きい。何かを手渡す時は、必ず手ごと包まれるのだ。
「どう?異常なし?」
「前方、異常なーし!」
「ははっ、なにそれ。」
「***のマネっこだよ。」
「ええ?私そんなこと言う?」
「言ってるよォ。」
ベポの笑顔は、心を穏やかにする。凪みたいだ。今日の見張りがベポで良かったと、心から思った。
「***、どうしたの?」
ボンヤリしていた私に、ベポが言った。「え?」と言って振り向くと、ベポのまるい目と目が合った。
「なんか今日元気ないよ?大丈夫?具合悪い?」
「…そんなことないよ!大丈夫。」
「キャプテンもペンギンも心配してたよ。何か悩みごと?」
おどろいた。そんなにカオに出ているのだろうか。うまく平常を装っているつもりだったのに。ローやペンギンさんならまだしも、ベポに気付かれるなんて。
「ほんとになんでもないの。…ただ、」
「ただ?」
海の方に向き直ってから、私はポツリ、言った。
「どうして私、ここにいるのかなァ。」
私は一体、なんのために海賊をしているのだろう。
「なんでって、…キャプテンに誘われたからでしょ?」
「ははっ、うん。そうだね。」
「ヘンな***ー。」
「ねー。」
そうだ。あの時、ローが「守ってやる」って。「ついてこい」って。そう言ってくれたから。だから私は、ここにいる。
じゃあ私は、ローのために、何をしているんだろう。
ローのために、何が出来ているんだろう。
ふとベポの方を見れば、ベポはせっせと航海日誌をつけていた。その字が汚くて思わず笑ってしまえば「あ、***元気になったー」と、ベポはうれしそうに笑った。
『あなたは、じきに気付くわ。その理由がなんなのか。』
ルピの言葉を思い出す。私、本当は、
もうずっと前から、その理由に気付いてる。
真っ黒い海を見た。今の私の、心の奥底みたいだ。行き先が見えない。
ずっと見つめていたら、そのまま溶けていってしまいそうで。
しだいに私は、自分がどこにいるのかさえも、わからなくなった。
存在意義
今でも私を、
必要としてくれていますか。[ 14/68 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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