14

「今日の夜、出航する」


 朝一でローは、船員たちにそう告げた。


 いつもならすぐに、「アイアイキャプテン!」の声が大空に立ち昇る。だが、今日ばかりはそれがない。


 船員たちはそれぞれにカオを見合わせて、甲板には戸惑いの沈黙が流れた。


「……***のことなら大丈夫だ。ここを離れても、治療は続けられる」


 船員たちの心中を汲み取って、ローは言った。


 素直に胸をなでおろす者もいたが、中には未だ納得いかないような表情を浮かべた者もいた。


「船長が大丈夫だって言うんだ。心配なのは分かるけど、信じようぜ」


 船員たちの肩に手を置いて、シャチが言った。


 自分にも言い聞かせているようだなと、ローはなんとなく感じ取った。


「シャチの言う通りだ。お前らの船長は、誰だと思ってる」


 ローが口の端を上げてそう言えば、ようやくいつもの元気な「アイアイキャプテン!」が海にこだました。





「キャプテン! ……キャプテン!」


 息を切らしてベポが甲板へ走り込んできた。


 ベポには今日、ずっと***の様子を見ているようにと指示していた。


 ***のことだ。***のことで、何かあったのだと、ローは息を飲んだ。


「なんだ? 異変か?」

「なんか、変なんだ!」

「変?」


 やり取りは、***のいる船長室へ向かいながらしていた。


 二人とも走っているから、自然と声の音量が上がる。


 会話を聞きつけて、船員たちも各々の部屋からモグラのようにカオを覗かせた。


「目は開いてるんだけど、話しかけても反応しないしっ、なんか、なんかっ」

「”なんか”、なんだ?」


 まるい目を左右に泳がせてから、ベポは続けた。


「息を、してないような気がして……」


 ローは、走るスピードを早めた。そんなに広くはない船内が、まどろっこしいくらいに広く感じた。





「***……!」


 船長室のドアは開いていた。異変に気付いたベポが、慌てて飛び出してきたことを物語っている。


 ***はベッドに横たわっていた。目は開いている。


 起きている、とは違う。開いているだけだ、とローは感じた。


 黒目の中は、空っぽだった。


「***! 聞こえてるかっ? ***……!」


 白い頬を叩く力が、次第に強くなる。あとで腫れてしまうかもしれないと、ローは頭の隅で案じた。


 すると、黒目のピントがじわじわと合ってきて、きょろっと眼球が動いた。


 その動きは、ローのカオの辺りで止まった。


「***……!」


 幾分か緊張をゆるめて呼べば、***は泣き出しそうなカオでぱくぱくと口を動かした。


 ……なんだ?


「***? どうした?」


 ローがそう言っても、***はただただ口だけを懸命に動かすだけだ。


「なんだ? もしかして、息が苦しいのか?」


 ***は、こくこくと首をタテに振った。


 息が苦しい、ではない。出来ていない、に等しかった。


 ローは数秒戸惑った。呼吸の仕方など、どう教えたら良いか分からない。そんな、当たり前のことを、どうやって。


「***……! 吸って、吐け!」


 何を当たり前のことを。冷静な自分をもう一人隣に置いたら、嘲り笑うかもしれない。だが、これ以上の表現はなかった。


 ***は、子供のように素直に、ローのその指示に従った。空気を吸って、吐く。


 そして、何度か繰り返してから、***は大きく咳き込んだ。


「大丈夫っ? ***!」


 涙目のベポが叫んだ。


 咳が辛そうなので、ローは***の体を抱きかかえて起こしてやった。


 覗き込んだ***の目は、縋るように怯えていた。


「***、呼吸はどうだ? もう平気か?」

「は、はい……」

「一体なんだ? どういう状態だった?」

「あの……そ、それが」


 ***は、言いにくそうに口を噤んだ。ローが、まるまって震える背中をさすると、ようやく続きを口にした。


「息の仕方を……忘れてしまって」

「……息の仕方を」


 ”忘れた”?


 ぞっとした。それはベポも同じだったようで、毛むくじゃらの唇をただただ呆けて絶句した。


 記憶を忘れていく”だけ”ならば。この地での治療は、必要ないと思っていた。


 また積み上げていけばいい。思い出など所詮、過去の産物。なくなったなら、また作ってやればいい。そう思ったからだ。


 だが……。


「忘れるのは、記憶だけじゃねェのか……?」


 命が関わってくれば、話は別だ。


「ベポ、今後の航海について、あとで話を」


 そう告げたところで突然、けたたましい鐘の音が船内に響き渡った。


 「敵船だー!」の叫び声が続いて、ローは忌々しげに舌を鳴らした。


「こんな時に……!」


 ローは、***を抱きかかえると、貴重品のように丁寧にクローゼットへ押し込んだ。そして、その上からさらに毛布を被せた。


「せ、船長さ」

「いいか。声を出すな。動くな。音がしても、何があっても、決してここから出るなよ」


 いいな? と、最後に念を押して、戸を閉めた。


 戸を閉める前の、不安に揺れた***の瞳が、ローの脳裏に強く焼きついた。





 ベポと共に甲板へ戻れば、すでに戦闘は始まっていた。


 ベポはすぐさま戦線へ向かったが、ローにはまず、確認すべき事由がある。


 船内を見回して、ローはすぐにある人物で目を止めた。敵船の、船長だ。


 あちらも、ローを見ていた。戦線には参加せず、手すりに座って”死の外科医”を待っているところだった。


 ローは、剣を抜いた。


「生憎、ゆっくり遊んでやる暇がねェ。片付けてやるから、さっさと来い」


 ローがサークルを作るのと相手が斬りかかってきたのは、ほぼ同時だった。





「全員無事か?」


 額に浴びた返り血を拭いながら、甲板を一周見回した。


 船員たちは全員、誰一人欠けることなく、疲弊した顔でそれぞれ頷いた。


 ローは、一息大きな息をついた。楽な戦いではなかった。怪我人も何人か見受けられる。処置をしなければ。


 ……そうだ。その前に一度、***のところへ戻らねば。


 甲板から船内へ続く扉へ目をやった。


 扉は、開いていた。潮風に吹かれて、きいきいと小さく鳴いている。


「船長。船長の怪我を先に俺が……船長? 船長!」


 おもむろに船内へ走り出したローへ、ペンギンが呼びかける。だが、ローが止まることはなかった。


 全速力で船長室へ向かった。案の定、***しかいないはずの船長室から、複数の男の声がした。


”なんだ、これ? 死体か?”

”気味悪ィ男だと思ったが、死体愛好家かよ”

”いや、待て。こりゃあ……まだ生きて”


 会話はそれ以上続かなかった。ローが、船長室のドアを蹴破ったからだ。


 三人の男が、クローゼットから***を引っ張り出していた。


 まるで、人形でも扱うかのように、彼らは***の腕や髪を、乱暴にひっ掴んでいた。


 その光景を見て、ローの中で何かが弾ける音がした。


 自分が、ニンゲンではなく、ケモノにでもなったような気がした。全身の毛が、ぞわりと天を衝いた。


「薄汚ェ手で、その女に触るんじゃねェ」


 どんなカオをしているのか、自分でも分からない。だが、相手のカオは蒼白していて、ローを追ってきた船員たちまでもが、その様子に怯んだ。


 男たちは、***から手を離した。離れた、が正しいかもしれない。彼らの本能が、「離せ。さもないと、大変なことになるぞ」と切実に訴えかけたのだ。


 船員たちが、三人の男を船長室から引きずり出した。ローは、脇目も振らずに***に駆け寄った。


「***! ***! 大丈夫か? 怪我はねェか?」


 ***のカオを覗いた。まず、息をしているかを確認した。***の胸は、ゆっくりと上下している。


 次に、全身をくまなくチェックして、怪我がないか確認した。怪我はないが、男たちに掴まれた部分が、赤黒く汚れていた。


 手近にあったタオルを掴むと、ローはそれをベッドサイドに置いた飲み水で濡らした。


 そしてそれで、丁寧に汚れを拭ってやった。


「悪かったな、***……一人にして、悪かった」


 詫びながらローは、***の体や髪を拭いた。


 けれど、拭いても拭いても、***についた汚れが取れない。自分も汚れているからだと、ローは途中で気付いて、情けなくなった。


 どうして、一人にした。


 どうして、俺は。


 あの日、***を。


「……てて、くださ」


 真っ白な唇が、小さく動いた。


 ローは一切の動きを止めて、聞き入った。


 真っ黒に虚ろだった***の目に、透明な液体が浮いている。


「捨てて、ください……」

「……」

「私を、捨てて……」

「……」

「そんな」


 ぼろりと、***のやさしさが、床に落ちた。


「そんな……ツラそうなカオ……しないで」

「……」

「だから、私を」


 ***の体を、乱暴に抱き寄せた。触れた体が暖かくて、ローはそれだけで泣いてしまいそうになった。


「そんなこと……できるわけねェだろ……!」


 何度も何度も、頭をよぎった。故郷に***を帰して、自分たちは旅を続ける。それが、船のためだと、何度も何度も。


 けれどそれが、ローにはできない。体と心を、半分ずつ持っていかれるような気持ちになる。***は、自分の一部だ。離れるくらいなら、例え亡骸になったとしても、そばに置いておきたい。


「責めるなよ……分かってる……俺がきっと、なんとかする。だから……」


 縋るように、***の体を強く抱きしめた。


 肩越しに、***があきれて笑っているような気がした。


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