14
「今日の夜、出航する」
朝一でローは、船員たちにそう告げた。
いつもならすぐに、「アイアイキャプテン!」の声が大空に立ち昇る。だが、今日ばかりはそれがない。
船員たちはそれぞれにカオを見合わせて、甲板には戸惑いの沈黙が流れた。
「……***のことなら大丈夫だ。ここを離れても、治療は続けられる」
船員たちの心中を汲み取って、ローは言った。
素直に胸をなでおろす者もいたが、中には未だ納得いかないような表情を浮かべた者もいた。
「船長が大丈夫だって言うんだ。心配なのは分かるけど、信じようぜ」
船員たちの肩に手を置いて、シャチが言った。
自分にも言い聞かせているようだなと、ローはなんとなく感じ取った。
「シャチの言う通りだ。お前らの船長は、誰だと思ってる」
ローが口の端を上げてそう言えば、ようやくいつもの元気な「アイアイキャプテン!」が海にこだました。
*
「キャプテン! ……キャプテン!」
息を切らしてベポが甲板へ走り込んできた。
ベポには今日、ずっと***の様子を見ているようにと指示していた。
***のことだ。***のことで、何かあったのだと、ローは息を飲んだ。
「なんだ? 異変か?」
「なんか、変なんだ!」
「変?」
やり取りは、***のいる船長室へ向かいながらしていた。
二人とも走っているから、自然と声の音量が上がる。
会話を聞きつけて、船員たちも各々の部屋からモグラのようにカオを覗かせた。
「目は開いてるんだけど、話しかけても反応しないしっ、なんか、なんかっ」
「”なんか”、なんだ?」
まるい目を左右に泳がせてから、ベポは続けた。
「息を、してないような気がして……」
ローは、走るスピードを早めた。そんなに広くはない船内が、まどろっこしいくらいに広く感じた。
*
「***……!」
船長室のドアは開いていた。異変に気付いたベポが、慌てて飛び出してきたことを物語っている。
***はベッドに横たわっていた。目は開いている。
起きている、とは違う。開いているだけだ、とローは感じた。
黒目の中は、空っぽだった。
「***! 聞こえてるかっ? ***……!」
白い頬を叩く力が、次第に強くなる。あとで腫れてしまうかもしれないと、ローは頭の隅で案じた。
すると、黒目のピントがじわじわと合ってきて、きょろっと眼球が動いた。
その動きは、ローのカオの辺りで止まった。
「***……!」
幾分か緊張をゆるめて呼べば、***は泣き出しそうなカオでぱくぱくと口を動かした。
……なんだ?
「***? どうした?」
ローがそう言っても、***はただただ口だけを懸命に動かすだけだ。
「なんだ? もしかして、息が苦しいのか?」
***は、こくこくと首をタテに振った。
息が苦しい、ではない。出来ていない、に等しかった。
ローは数秒戸惑った。呼吸の仕方など、どう教えたら良いか分からない。そんな、当たり前のことを、どうやって。
「***……! 吸って、吐け!」
何を当たり前のことを。冷静な自分をもう一人隣に置いたら、嘲り笑うかもしれない。だが、これ以上の表現はなかった。
***は、子供のように素直に、ローのその指示に従った。空気を吸って、吐く。
そして、何度か繰り返してから、***は大きく咳き込んだ。
「大丈夫っ? ***!」
涙目のベポが叫んだ。
咳が辛そうなので、ローは***の体を抱きかかえて起こしてやった。
覗き込んだ***の目は、縋るように怯えていた。
「***、呼吸はどうだ? もう平気か?」
「は、はい……」
「一体なんだ? どういう状態だった?」
「あの……そ、それが」
***は、言いにくそうに口を噤んだ。ローが、まるまって震える背中をさすると、ようやく続きを口にした。
「息の仕方を……忘れてしまって」
「……息の仕方を」
”忘れた”?
ぞっとした。それはベポも同じだったようで、毛むくじゃらの唇をただただ呆けて絶句した。
記憶を忘れていく”だけ”ならば。この地での治療は、必要ないと思っていた。
また積み上げていけばいい。思い出など所詮、過去の産物。なくなったなら、また作ってやればいい。そう思ったからだ。
だが……。
「忘れるのは、記憶だけじゃねェのか……?」
命が関わってくれば、話は別だ。
「ベポ、今後の航海について、あとで話を」
そう告げたところで突然、けたたましい鐘の音が船内に響き渡った。
「敵船だー!」の叫び声が続いて、ローは忌々しげに舌を鳴らした。
「こんな時に……!」
ローは、***を抱きかかえると、貴重品のように丁寧にクローゼットへ押し込んだ。そして、その上からさらに毛布を被せた。
「せ、船長さ」
「いいか。声を出すな。動くな。音がしても、何があっても、決してここから出るなよ」
いいな? と、最後に念を押して、戸を閉めた。
戸を閉める前の、不安に揺れた***の瞳が、ローの脳裏に強く焼きついた。
*
ベポと共に甲板へ戻れば、すでに戦闘は始まっていた。
ベポはすぐさま戦線へ向かったが、ローにはまず、確認すべき事由がある。
船内を見回して、ローはすぐにある人物で目を止めた。敵船の、船長だ。
あちらも、ローを見ていた。戦線には参加せず、手すりに座って”死の外科医”を待っているところだった。
ローは、剣を抜いた。
「生憎、ゆっくり遊んでやる暇がねェ。片付けてやるから、さっさと来い」
ローがサークルを作るのと相手が斬りかかってきたのは、ほぼ同時だった。
*
「全員無事か?」
額に浴びた返り血を拭いながら、甲板を一周見回した。
船員たちは全員、誰一人欠けることなく、疲弊した顔でそれぞれ頷いた。
ローは、一息大きな息をついた。楽な戦いではなかった。怪我人も何人か見受けられる。処置をしなければ。
……そうだ。その前に一度、***のところへ戻らねば。
甲板から船内へ続く扉へ目をやった。
扉は、開いていた。潮風に吹かれて、きいきいと小さく鳴いている。
「船長。船長の怪我を先に俺が……船長? 船長!」
おもむろに船内へ走り出したローへ、ペンギンが呼びかける。だが、ローが止まることはなかった。
全速力で船長室へ向かった。案の定、***しかいないはずの船長室から、複数の男の声がした。
”なんだ、これ? 死体か?”
”気味悪ィ男だと思ったが、死体愛好家かよ”
”いや、待て。こりゃあ……まだ生きて”
会話はそれ以上続かなかった。ローが、船長室のドアを蹴破ったからだ。
三人の男が、クローゼットから***を引っ張り出していた。
まるで、人形でも扱うかのように、彼らは***の腕や髪を、乱暴にひっ掴んでいた。
その光景を見て、ローの中で何かが弾ける音がした。
自分が、ニンゲンではなく、ケモノにでもなったような気がした。全身の毛が、ぞわりと天を衝いた。
「薄汚ェ手で、その女に触るんじゃねェ」
どんなカオをしているのか、自分でも分からない。だが、相手のカオは蒼白していて、ローを追ってきた船員たちまでもが、その様子に怯んだ。
男たちは、***から手を離した。離れた、が正しいかもしれない。彼らの本能が、「離せ。さもないと、大変なことになるぞ」と切実に訴えかけたのだ。
船員たちが、三人の男を船長室から引きずり出した。ローは、脇目も振らずに***に駆け寄った。
「***! ***! 大丈夫か? 怪我はねェか?」
***のカオを覗いた。まず、息をしているかを確認した。***の胸は、ゆっくりと上下している。
次に、全身をくまなくチェックして、怪我がないか確認した。怪我はないが、男たちに掴まれた部分が、赤黒く汚れていた。
手近にあったタオルを掴むと、ローはそれをベッドサイドに置いた飲み水で濡らした。
そしてそれで、丁寧に汚れを拭ってやった。
「悪かったな、***……一人にして、悪かった」
詫びながらローは、***の体や髪を拭いた。
けれど、拭いても拭いても、***についた汚れが取れない。自分も汚れているからだと、ローは途中で気付いて、情けなくなった。
どうして、一人にした。
どうして、俺は。
あの日、***を。
「……てて、くださ」
真っ白な唇が、小さく動いた。
ローは一切の動きを止めて、聞き入った。
真っ黒に虚ろだった***の目に、透明な液体が浮いている。
「捨てて、ください……」
「……」
「私を、捨てて……」
「……」
「そんな」
ぼろりと、***のやさしさが、床に落ちた。
「そんな……ツラそうなカオ……しないで」
「……」
「だから、私を」
***の体を、乱暴に抱き寄せた。触れた体が暖かくて、ローはそれだけで泣いてしまいそうになった。
「そんなこと……できるわけねェだろ……!」
何度も何度も、頭をよぎった。故郷に***を帰して、自分たちは旅を続ける。それが、船のためだと、何度も何度も。
けれどそれが、ローにはできない。体と心を、半分ずつ持っていかれるような気持ちになる。***は、自分の一部だ。離れるくらいなら、例え亡骸になったとしても、そばに置いておきたい。
「責めるなよ……分かってる……俺がきっと、なんとかする。だから……」
縋るように、***の体を強く抱きしめた。
肩越しに、***があきれて笑っているような気がした。[ 64/68 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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