13
「あの、」
***がようやく食べものを口にした翌日。
ペンギンが皿洗いをしていると、***がキッチンに現れた。借りてきた猫のようなよそよそしさだった。
「どうした?…あァ、皿を持ってきてくれたのか。」
まるで、女が子供に声をかける時のような声いろだった。大袈裟すぎて自分でも気味が悪いが、怯えられると厄介だ。
「は、はい。あの、…ごちそうさまでした。」
「昼メシ、うまかったか?」
「…とても、おいしかったです。今まで、その、粗末にしてしまって、すみませんでした。」
***は小さく頭を下げた。肝心なところは、***のままだ。そう感じると、ペンギンは嬉しくなった。
「いや、もうそのことは気にするな。これからキチンと食べてくれたら、それでいい。」
「…あ、あの、」
「なんだ?」
「わ、私を、…どうするんですか?」
「…は?」
思いもよらぬ質問だった。質問の意図が分からずに、ペンギンはまるく作った目を***へ向けた。
「あ、ええっと、その、…どうして私、ここにいなければいけないんでしょうか?」
「…あァ、」
「ど、どこかに売りとばされたり、ころ、殺されたりするのかなって思ってたけど、その、…却って、良くしてもらってるし、」
「…」
「かと言って、船長さんはウチには帰さないって言うし、」
「…」
「…私が、必要だって、言うし、」
「必要?船長がそう言ったのか?」
そう尋ねれば、***は照れたように頬を赤らめて「は、はい。」と小さく答えた。
「あ、あなたたちの、目的が分かりません。」
「…目的なんてない。」
「え?」
「だから、船長に言われたんだろう?”おまえが必要だ”と。」
「は、はァ…」
「つまり、ただそれだけだ。」
「…」
「おまえはただ、おれたちの、…船長のそばにいればいいんだ。」
「…や、やっぱり、分かりません。」
「そうか。じゃあ、もう考えるな。」
「…」
そう告げれば、***は真一文字に唇を結んだ。釈然としないようだ。それはそうだろうとペンギンは思ったが、これ以上何かを言うつもりもなかった。
「今日は甲板に上がってみたらどうだ?せっかく手錠と足枷も外れたんだ。天気が良いから、気持ちがいいぞ。」
「…せ、船長さんは、どちらに?」
「船長室で眠ってる。ここ最近、ロクに眠っていなかったからな。」
「そ、そうなんですか。」
「おまえが昨日、食事をしたから安心したんだろう。めずらしく熟睡している。」
「…」
すみません、と、***はなぜかペンギンに詫びた。そして、しばらく戸惑う素振りを見せてから、言った。
「船長さんは、どんな人ですか?」
「どんな?どんな、とは?」
「その、…寂しがり屋、とか。」
「寂しがり屋?船長が?」
「ち、違いますか。」
「なぜ、そう思う。」
「…だって、」
***はまつ毛を伏せた。何を思い出しているのか、少し辛そうだった。
「いつも、寂しそうな目をしてるので…」
「…」
「あ、お、思い違いなら、いいんです。」
「寂しがり屋、と言うと語弊があるが。まァ、あながち間違いではない。」
「?」
***が目をまるくする番だった。伝え方がむずかしいなとペンギンは思ったが、ありのままを述べた。
「船長には、大切な人がいてな。」
「大切な人?」
「あァ。だが、その人は突然、遠くに行ってしまったんだ。」
「…」
「引き戻そうと必死に尽力しているが、…見込みが薄くてな。」
「それは、その、…女性、ですか?」
「ん?あァ。」
「…そう、ですか。」
「…***?」
***は、あからさまに沈んだカオをした。この表情なら何回か見たことがある。船長が娼婦を船に乗せた時とか、抱いた女の話をしている時とか。
ああ、そうか。つまり、おまえは、
「まったく。記憶を失くしても、おまえってヤツは…」
「え?な、なんですか?」
「いや、なんでもない。」
まさか、「その女というのはおまえのことだ。」などと言えるはずもない。不用意なことを言って***の脳を混乱させるわけにもいかなければ、言われたところで***には何のことかも分からないだろう。
ペンギンは水を止めた。タオルで手を拭くと、キッチンを出て行こうとした。
「あっ、あのっ、」
「船長を呼んでくる。」
「え?」
「おまえがここに来たら起こせと、そう言われていた。ここで待っていてくれ。」
そう告げると、ペンギンは船長室へ向かった。
ー…‥
「昨日の夜、食ったもの。」
「ハ、ハンバーグと大根のお味噌汁。」
「今朝は。」
「ハムエッグと、…あっ、ポテトサラダのサンドイッチ。」
「…コイツの名前。」
「ベ、ベポ、くん。」
「ベポでいいよ、***!」
「じ、じゃあ、…ベポ。」
「そこのまぬけヅラ。」
「シャチくん。」
「おいいっ!なんですぐおれだって分かるんだそれでっ!」
「じゃあ、」
診断書に向けていたカオを持ち上げると、ローは***の目を見た。***が、ぴくっ、と肩を強張らせた。
「おれの名前。」
「ト、トラ、…トラファルガー・ロー。」
「…」
「…さん。」
「…ローでいい。」
ローはペンを一筆走らせると、ファイルを閉じた。ペンギンに目くばせをすると、ペンギンは小さく頷いて***に笑いかけた。
「***、悪いが甲板に行っててくれないか?」
「え?」
「ベポと一緒に、洗濯ものを干すのを手伝ってほしい。人手が足りなくてな。」
「あ、は、はい。」
「じゃあ、***!行こっか!」
毛むくじゃらな手に引かれて、***は席を立った。すると、ローは着ていたパーカーをおもむろに脱いだ。
「***、」
「え、…!」
振り向いた***の肩に、ローはパーカーを掛けた。フードが表裏逆になっていることに気が付いて、ローは***の肩越しにそれを直した。***は硬直していた。
「さっき外に出たが、見た目より少し寒かった。着てろ。」
「…」
「?おまえ、カオ赤くねェか?具合でも、」
「だっ、大丈夫です!これはっ、そのっ、…違うんで!」
「は?」
「い、行こうっ?ベポく、…ベポ!」
「えっ、あっ!待ってよう!***ー!」
走り去る***のあとを、ベポが慌てて追って行く。ローが小首を傾げるのを見て、ペンギンは小さく溜め息をついた。
「ほんとにあなたは、罪作りな人ですね。」
「あ?なんの話だ。」
「いえ、なんでも。…ところで、」
「あァ。」
ローはついさっき閉じたファイルを見直した。ペン先で文字をなぞっていくと、ふう、と小さく息を吐いた。
「あいかわらず海賊の頃の記憶はないが、ここ最近のことはちゃんと覚えてるみてェだな。」
「つまり、これから先は問題なく生活できると…?」
「…まァ、今のところ。おそらくは。」
「じ、じゃあ、これからも***は、おれたちの仲間としてやっていけるってことですよねっ?船長!」
「…あァ。まァ。」
「やったー!」
「だが、まだ油断はできないぞ。シャチ。」
「ええっ?なんでだよ、ペンギン!」
「あァ。ペンギンの言うとおりだ。」
「せ、船長まで…どういうことっすか?」
不安と不満が入り混じった目を、シャチはローとペンギンに向けた。ローはペンを指の上でくるくると弄んだ。
「快方に向かうかと思いきや、突然悪化する。どうも、油断ならねェ。」
「この前***は、シャチのことを少し思い出したんだ。忘れたら、そのあと記憶が戻るのは一回だけのはずだったろう?だからてっきり、おれは快方に向かうかと思ったんだ。けど、」
「そ、そっか。***が船長のことを忘れたのは、そのあとすぐだったな。たしか。」
「…」
ローは懐から酒瓶を出した。いつもなら「まだ昼ですよ。」というペンギンと***のお小言がとんでくるところだが、今はそのどちらもなかった。
一口だけ煽って蓋をした。濡れた口元を乱暴に右手の甲で拭うと、ローは立ち上がった。
「しばらく、様子を見ていてくれ。少しでもおかしな言動があれば、」
「はい。すぐに知らせます。」
「…頼む。」
キッチンを出ると、ローは甲板へ向かった。ここ数日、***が目の届くところにいないと、どうも心が騒つく。いや、そんなのは、いつものことか。
甲板へ出れば、さっきよりも日の照りが強かった。真っ白なシーツに反射して光が矢のようにとんでくる。目と眉をしかめながらその付近を探せば、***は言い付けどおりシーツを干していた。
「…!せっ、船長さん…!」
「…おまえの”船長さん”は、どうもむず痒いな。」
「え?」
「…いや、いい。好きに呼べ。」
「…」
ローは手すりに寄りかかると、島の方を見た。
”島に着いたら毎日夜の9時、付き合ってほしいところがあるの。”
「…おまえ、」
「はっ、はいっ?」
「あの島のこと覚えて、…いや、知らねェよな?」
「あ、あの島、ですか?」
***も島の方を見た。けれど、数秒もしないうちに「いえ、知りません。」と首を横に振った。
「…そうだよな。」
「す、すみません。」
「あ?いや…」
できれば、この島にはできるだけ長く留まりたかった。***との約束のこともそうだが、***のこの病魔が、どうもこの島と関係があるような気がして。しかし。
ローは、手に持ったログポースを見た。ログはもうじき溜まる。溜まれば、すぐに島を出なければならない。でなければ、指針を見失うことになるからだ。
船員は、***だけではない。船長として、当初の目的を見失うわけにはいかないのだ。
「…あ、あの、」
「…あ?」
***が話しかけてきた。その声が小さかったのと、考えごとをしていたのとで、反応が少し鈍った。
「あ、ええと、その、」
「?なんだよ。」
「あ、…あの島に、いるんですか?」
「あ?だれが。」
「だ、だから、その、…船長さんの大切な人。」
「はァ?なんだよ。大切な人って。」
話が見えなくて、ローは眉をしかめた。苛立っていると受け取ったのか、***は怯えたように肩を竦めた。
「なっ、なんでもないです…」
「あァ?なんだよ。言え。」
「だ、だから、その、…き、聞いたんです。」
「聞いた?何を。」
「せ、船長さんには、遠くに行ってしまった大切な人がいるって。」
「…」
「す、すみません。言いたくなかったら、いいんです。…すみません。」
出すぎたことを言ってしまった。そうとでも思っているのだろう。元々小さな身体が申し訳なさでさらに縮こまった。
「…なんだよ。ヤキモチか。」
「…は?」
思わず***はローを見た。目が合ったローは、からかう標的を見つけたイジメっ子のようなカオをしていた。
「おれに大切な女がいるって聞いて、ヤキモチ妬いたんだろ。」
「は、…はァっ?なんっ、なんで私がっ、ヤキっ、ヤキモチなんて…!」
「ククッ、茹でたタコみたいだぜ。おまえ。」
「こっ、これはっ、だって…!せんっ、船長さんがからかうから…!」
「かわいいヤツ。」
「…!」
ぱくぱくぱく、と、キンギョのように口が動いて、***は首まで真っ赤になった。口ではかなわないと悟ったのか、くるりとシーツの方に向き直って「もういいですっ!」と控えめに声を荒げた。ローはますます可笑しそうに笑った。
「なんだよ。いじけたのか?」
「い、いじけてません。こど、子供じゃないんですから。」
「やっぱり、おまえはおまえだな。***。」
「…え?」
記憶がなくなろうが、海賊じゃなかろうが。
幼なじみじゃ、なかろうが。
***は***だ。それで、いいじゃねェか。
「…おい、ベポ。ログはあとどのくらいで溜まる。」
「えっ、ううんとね、明日の夜には溜まるかなァ。」
「そうか。今のうちにいろいろ買いそろえておかねェとな。」
「…キャプテン、でも、」
ベポはこそこそと大きな身体を寄せてきた。***がこちらを見ていないことをたしかめてから、ローに耳打ちした。
「いいの?***の病気。ここで治さなくて。」
「いいも何も、溜まったら出て行かねェと指針が狂うだろ。」
「だ、だけどさ、」
「ベポ、」
僅かに厳しい目付きになって、ローは言った。
「航海士だろ。」
「…」
「おまえが航路を迷って、どうする。」
「…」
ベポは***を見て、しばらくするとキュッと目を吊り上げた。そして、力強く「アイアイ、キャプテン!」と頷いた。
「安心しろ。何も治療をあきらめたわけじゃねェ。」
「…!」
「旅を続けながら、***の病気治してやろうぜ。ベポ。」
「うっ、うん!…あっ、おっ、おれっ、***の手伝いしてくる!」
白い毛並みを揺らして、ベポは***の元へ走った。走り寄ってきたベポを見て、***は笑った。その光景は、***が記憶を失う前と同じだった。
これから何も起こらなければ、このままでもいいのかもしれない。また一から、この船で思い出を作っていってやればいい。
…何も、起こらなければ。
ローは空を見上げた。晴天なのになぜか曇天に見えて、小さく身震いした。[ 63/68 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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